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排泄小説 1

 鰻が出たのかと思った。尻の穴から鰻が抜け出たのかと思った。それくらいでかかった。太くて長かった。
 ちょうどいい具合に軟らかかったのでそんな感触もしたのだった。肛門のところを通過するときにちょっとした快感があった。出たがっていたものが余すところなく一挙に出たんだから、そんな風に感じるのも無理のないことだった。出した途端に空腹を感じるほどの快便。穴が切れることもなし。
 この目で確かめないわけにはいかず、おれは軽く尻を浮かせて振り返るようにして便器の中を覗き込んだ。ここまでと思うほど上の方まで来ていた。便の端のところが。水に浸かっているのは全体の半分くらいのもので、あとはまるで昼寝の最中の首長竜みたいに、せりあがった丘の部分にもたれかかって湯気を立ちのぼらせていた。
 これほどのものには年に一度お目にかかれるかどうかというところだった。今にも鎌首をもたげて挨拶してきそうだった。お前のケツもなかなかの居心地だったがそろそろ行くぜ、あばよ、とか言って。
 これだけの大物になれば、簡単に流せないのも当然のことだった。水洗を二回試してみたがびくともしなかった。カーブにのっちりと張りついて一ミリも動かないのだ。でかいだけでなく、粘り気もばっちりだ。
 二つに切るしかなさそうだった。もしくは三つに。それでも駄目なら四つに。ぶ厚いステーキみたいに五つに。六つに。バラバラ殺人みたいに七つに切り分けなければ。
 トイレットペーパーを素手に何重にも巻きつけて事を成すというのは、あまりやりたくない方法だった。どうしようもないときにはそうしたことも過去に何度かあったが、いずれも外出時のことだった。だが、今いるのは自分の部屋だ。他に道具の選びようがある。
 恵野茶子(めぐみのちゃこ)が二、三日前にホームセンターで買ってきた棒切れのことがふと頭をよぎった。植物がまっすぐ育つように支柱として使うのだと言っていた。あの女はベランダ菜園か何かはじめるつもりだったのだ。
 なぜそんなことをする気になったのか知らないが、あれは使えそうだった。一メートルかそこらあったし、ちょっとやそっとのことで折れるような素材でもなかった。流れない便をカットするための道具だといって百均に置いてあってもおかしくなさそうなやつだった。
 おれは肛門周辺を丹念に拭き取ると、使った紙を便の脇にそっと置いた。本体に覆いかぶさらないように気をつけて。こいつには一見の価値があるから。切り分けるのは忍びないが、せめてしっかり対峙しながら事を成したかった。
 おれはパンツを引きあげるとドアを開け、足首のところに残ったズボンを蹴るようにして部屋に脱ぎ捨てた。それからまるで空き巣にでも入ったような気分で爪先立ちになってベランダに出た。
 例の棒切れは、プランターや腐葉土なんかと一緒に隅にまとめてあった。三本あり、まだラベルがついたままだった。一本抜き取って中に戻ると、おれは思わず足を止めた。戸口のところにあの女が立っていた。
 恵野茶子。
 帰ってくるのはまだしばらく先のことだと思っていたので、おれはすっかり動転してしまった。大物を仕留めたことに気をよくして油断していたのだ。実際、心のかなりの部分でおれはわくわくしていた。自分のケツの穴からあんな大物が出たら、誰だってそう感じるはずだ。
 恵野茶子はまるで死の淵を覗き込むかのような顔でおれを見ていた。あれを見てしまったのだと一瞬で分かった。帰ってすぐにトイレに行こうとしたのか、あるいは洗面台で手でも洗おうとして開けっ放しのドアからひょいと覗いたのか知らないが、見てしまったのだ。あれを。
 面白がってくれているわけではなさそうだった。これがもし、ちょっと見せたいものがあるんだけどと前もってトイレから呼んでいたら案外弾むようにして来ていたかもしれないが、今回は心の準備ができてなかったのだ。
 恵野茶子はおれが手にしている棒切れに目を移した。
「それどうする気?」
 彼女の声は、冷凍庫の奥で忘れ去られたカップアイスのように冷え切っていた。どうするもこうするもなかった。あの大物を見たなら説明不要のはずだった。とはいえ、この棒切れは恵野茶子のものだと言えばそうだから、その点で不満に思うことがあったのかもしれない。
「ちょっと借りようと思って」
 おれはうまいこと宥めすかそうとした。
「どうするの」
「だから――」
「どうすんだって聞いてんだよ!」
 恵野茶子はいきなり激昂した。
 言えば間違いなく怒るくせに、それにどうするつもりか本当は分かってるくせに、はっきり言わせようとするというのも妙な話だった。これだから嫌なんだ、女というのは。だが、そんなに聞きたいというのなら教えてやろう。
「流せないもんだから、これで」
 おれはトイレの方をあいまいに指差しながら、棒切れの先端を軽く振るようにしてあれを切る動作をして見せた。すぐ終わる、たやすい仕事だというように。
「むぐっ」
 恵野茶子は、叫ぼうとしたのに喉の奥が締めつけられてできないとでもいうような、短いうめき声を発した。
 この女は、流せないほどのでかいくそをして難儀したことが今まで一度もないのかもしれない。あるいは、びちびちの下痢便で打つ手なしの状況に追い込まれたことが一度もないのかもしれない。学校の便所や、公衆トイレや、知り合いの家のトイレで、紙もなしに。
 ないんだろう。いつか慢性的に便秘ぎみだと言っていたから。
 超のつく快便も、びちびちの下痢便も、おれにとっては馴染み深いものだった。くそに関してちょうどいいということのないおれは、いつだってくそ絡みのトラブルに見舞われがちなのだ。やれ腹が痛い、トイレが見つからない、紙がない、くそが流れない。そういったことに。
 この女は何も分かってないとおれは思った。この女にはおれの苦しみなど想像もつかないのだろう。こちらが好きででかいうんこやびちぐそを垂れていると思ったら大間違いだった。それはおれの意思とは関係なく出てくるものなのだ。
 恵野茶子は、いきなり突進してきたかと思うとおれから棒切れを奪い取った。おれは逆らわなかった。おれはただ、この女がどうするか黙って見ていただけだった。
 恵野茶子は、棒切れを握り直すと、剣道で面を打つときのように大きく振りかぶった。我ながら不思議だったが、おれはやれよと思った。よけるつもりもなかった。恵野茶子はやった。容赦なしだった。何度もやった。棒切れがびゅっと空を裂く音がすぐ耳元で聞こえた。
 真上から、斜め上から、右から左から。おれは続けざまに打たれた。上は半袖だったし、下はパンツ一丁で太もももあらわになっていたから、その痛みと言ったらなかった。向こうはわざと素肌の部分を狙ってくるのだ。
「やめ、やめれっ!」
 おれは哀れっぽく懇願した。
 恵野茶子はやめなかった。おれは床に倒れこみ、両手で頭をかばうような格好になって打たれ続けた。それでもなぜか、心のうちではやれ、もっとやれと思っていた。いくらなんでもやりすぎだとおれが思うまでやらせてやろうと思った。そしたら何が起こるか自分でも分からなかったが、とにかくそう思っていた。
 やがて、恵野茶子は激しく息を切らせて棒切れを投げ捨てた。おれの腕や足はあちこち赤く腫れていたが、それでもまだやりすぎだと思うほどには至ってなかった。あと一歩だった。あと十秒も続けてくれたらよかったのだ。そしたら、そのときにはおれは、もしかしたらこの女を――。
「出てけ」
 恵野茶子は吐き捨てるように言った。
「いや、でも……」
 おれはよろよろ起き上がった。ダメージは見た目ほどひどいものではなかった。
 恵野茶子は再び棒切れを拾い上げると、先端をおれに突きつけてきた。おれの顔に向けて。おれの眉間に突き刺さんばかりにして。
「出てけ!」
 この女は本気だった。うんこひとつでそこまでと思うが、本気も本気だった。
「おら、出てけよ! 出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ!」
「でも、ここは――」
「出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ! 出てけよ、おら! おらおらおら! 出てけ! 出てけ出てけ! 出てけ出てけ出てけ出てけ!」
 おれは再び棒切れで激しく打ちつけられた。素肌を打つ、べちべちという鈍い音が部屋に響いた。おれは打たれる度に、ひあっ、ひあっ、と情けない声をあげた。
 ここまでとち狂った女だとは思わなかった。まったく、災難なのはおれの方だ。
 おれが何をしたというのだ。ただ生理現象に従っただけだ。自分の部屋の自分のトイレでうんこをしただけだ。おれのうんこだ。そうじゃないか? 自分のトイレで用を足すのがダメだというなら、世界はくそで溢れてしまう。本物のくそで。どいつもこいつもくそったれなんだから。
 それなのに出てけコールは止まない。まったく止まなかった。出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出て出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出て出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出て出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ。呪いをかけられているような気分だった。話し合う余地などなく、分かったと言う暇さえなかった。
 とち狂った女に棒切れでしばかれていては、おちおち支度もできなかった。おれはなんとかズボンを履き直すと、あとはパーカーと財布と携帯を掴んだだけで文字通り部屋から叩き出された。


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。