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76 体幹

ブンゲイファイトクラブのオープンマイクに出そうと思ったんですが、文字数オーバーしてしまったのでいつものシリーズに取り込みました。オープンマイクはこちら


 最近、体幹という言葉をよく耳にするなと男は思った。初デートで美術館に来たはいいが相手と何を話したらいいか分からず、考えは宙をさ迷っていた。
 ――体幹って何だ。体の中心のことか。それとも具体的な場所? バランス力みたいな?
 ぼんやり絵を見ながら歩いていた男は、うっかり前の人にぶつかってしまいよろけた。あわてて体勢を立て直そうとして、自分の足につまずいた。デート相手の腕をつかもうとして手が空を切った。
 っと、やばっ! と思う間もなく視界がくるりと回った。コケる。こんなところで。
 男はばつの悪さをごまかすように半笑いを浮かべながら壁に倒れ込み、その弾みで絵が外れた。シュルレアリスムとフォーヴィスムが融合した歴史的傑作だった。男にはちっとも理解できなかったが、億以上の価値があった。
 男は歴史的絵画もろとも床に崩れ落ちていった。その途中、ちらりと見た彼女の表情から次のデートはないということが読み取れた。それでも男は言い訳をしたかった。
 ふわ、ふわ……。
 男は何か言いかけたが、体幹が引っ掛かっていたせいか言葉か出てこなかった。ふわ、ふわ、付和雷同。じゃない。ふわふわふわ、不惑、不渡り、家庭不和。不可避節回し不眠不休不可解不揃い不老不死あー違う! ふわ! ふわふわふわふわ不破万作! ふわふわ、不破、不破、不破万作!
「ふわー!」
 男は言葉にならない叫びを上げながら、衝撃をやわらげようと下に手を突き出した。その手が、落下して壁に斜めにかかったキャンパスのちょうど真ん中を突き破った。
 百年以上前の古い布が裂ける乾いた音がすると、館内は水を打ったように静まり返った。
 誰も動かなかった。男は自分のしたことに気づくと、全身から魂が抜けていくような感覚を覚えた。と同時に、他の来館者たちが「ふわって言わなかった? ふわって何?」と視線を交わし合うのを感じて猛烈に恥ずかしくなった。
 男は歴史的絵画に手を突っ込んだまま、微動だにできなかった。そのとき、唐突に自分の言いたかった言葉がひらめいた。不可抗力。不可抗力ということを言いたかったのだ。「ふわ」じゃなかった。全然「ふわ」じゃなかった。
 男はこれはすべて不可抗力なのだと分かってもらおうとデート相手を探した。ちょうど他の来館者に紛れて立ち去ろうとする彼女の背中が見えた。


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。