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『写真で何かを伝えたすべての人たちへ』別所隆弘 著(感想文)

待ってましたとばかりに手に入れた本書ですが、まだ出版されたばかりの本の感想は難しいのです。これから読む、あるいはまだ読み終わっていない方々もいらっしゃると思いますからネタバレになってしまってはいけません。

だから少しぼんやりさせて、購入を迷っている方の背中を少しでも押せればと願いながら、1度目の読了の感想(きっと事あるごとに読み返すと思うので)を書いてみたいと思います。

僕は読み進めるごとに、まるで対話をしているようにメモを記すことがやめられませんでした。それほど多くの示唆に富んだ本でした。何度も繰り返し読めば落ち着いて読めると思いますが、それほどエキサイティングな本です。

メモから少し抜粋します。


“はじめに” 序文から核心に踏み込むように肉体と言語に言及する著者の覚悟を感じる。
少々身構えたところで、続く“手引きの書”でユーモアと優しさを垣間見せながら“迷いの森”へと誘われる。

さらにこの本は2024年に上辞されたことが、極めて重要な点も記しておきたい。
後年に時を経てベンヤミンが指摘した”批評に必要な距離”ができたとき、(関西大学社会学部メディア専攻講師でもある)著者が育ててきた「写真と言葉」を自在に操る誰かが、この本について優れた批評を発表する確信にも似た予感がした。

そしてこれは厳しい本でもあった。拠り所の無い沼地を立って歩けと言っているのだから。

真実、この言葉は単に強固な認識を示すもの、あるいは揺るぎない認識と少しの共感?

「起源のないコピー(シミュラクールと呼ばれる)」とは言い得て妙だと思う。写真の核心をついている。

memo

読み終わった時には、こんなメモがたくさん残っていました。

本書では度々「フィクション」という言葉がつかわれていました。いみじくも澁澤龍彦が石川淳を評して「現実の仕組みの上に高度に組み上げられた虚構」と記したことを思い出しました。

この本で語られるフィクションの概念を解釈するのにこの一節は非常に有効だと考えました。その写真が「嘘」として、それがフィクションなのかファンタジーなのかという判断もおそらくその論拠はここにあるように思うのです。
この判断が必要だと思うのは本書で語られるのは虚構、非-虚構(現実とは区別されている)という概念が写真にどう取り込まれているかについて言及されているからです。

そして写真が「語り直し」であるという一説から、著者が写真を言葉(テクスト)として捉えていることが明白になっていきます。そしてこのことは後半(22 ステュディウムとコモディティ)に十全に語られるのです。

なんだかキラーワードを抜粋しているような感想文ですが、言葉尻を捉えてのことではなく、ほんの一節を取り出しても全体を見誤ることがないくらい、徹頭徹尾この本で語られる言葉は徹底的に選ばれ精査されているように感じるので許してください。

語り口の親切さを損なうことなく、これほど苛烈な問いを投げかける文章を他に知りません。プンクトゥムについて語られる後半でその苛烈さはピークに達します。

「親切さ」と、いささか唐突な物言いをしたのは、本書で引用される哲学、あるいは思想がソンタグ、バルトを除けば比較的年代の古いものが多いことに気付いたからです。
写真の撮り手に向けた本の中では(迷うために書かれたとはいえ)、読み手に過剰な混乱を招きかねない構造主義的自己認識論をアクロバティックにかわしながら(著者がそれを意図しなかったはずがない!!)、ピンゲラップ島についての記述で、まさに『悲しき熱帯』さながらの差異についての記述に至ったところで感嘆のあまり「うぉあぁ」と変な声が出てしまいました。

文章の超絶技巧ですね、読み返すとあちこちにヒントはあったんです。気付きませんでしたけど(笑)二度目を読むのが楽しみです!!

文学研究者である著者に対して、たいへん失礼な物言いになってしまうけれど... エッセイでもあり写真論でもあり文芸の領域としての批評でもある本書は、ソンタグ以降優れた批評の存在しなかった写真批評(僕はそう思っています)において数十年の空白を埋める傑作だと感じました。

もし著者にお会いする機会があればきっとこう言います。
「別所さん、英語にして世界中で出版してくださいませんか?」

本書はそういう本だと思います。
ソンタグや、バルトのように、2024年に写真という概念がどのような在り様をしていたのかという貴重な考察として、数十年後も世界中で読まれていて欲しいと心から願っています。

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