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ウクライナ渡航記① ワルシャワ→ヘウム→キーウ

2023年の8月16日からウクライナのキーウ近郊を訪れています。

現地のNGO「Gurtum(クルトン)」の中心人物サシャによる学校再建プロジェクトの撮影、また、日本人のアーティスト萩原亮大とソウダルアによる開校式セレモニーについてのドキュメンタリーを制作することを目的とする渡航です。

「ウクライナ渡航記⓪ なぜキーウへ行くのか」

8月15日 ワルシャワ→ヘウム→キーウへ

朝6時ごろにワルシャワ・ショパン空港に到着する。空港のカフェでコーヒーを飲んで、鉄道駅までの電車に乗る。「ワルシャワ東駅」で下車し、街を少しだけ歩いた。早朝の街は静かだった。ポーランド式の朝食と、夕方に巨大なカツレツを食べる。近くのカフェやレストランで時間を潰したのち、夕方5時ごろに鉄道の駅に戻る。

鉄道の駅に戻ると、朝とは打って変わって混雑していた。キーウへと向かう電車へ乗り込む。

これからウクライナへ入ると思うと、体がこわばった。日本では、いわゆる終戦記念日となっている本日、これから戦争中の国へと渡航するのだ。

ポーランド側のヘウム(Chelm)の街まで乗って、そこからキーウ行きの寝台列車へ乗り継ぐ。ワルシャワからヘウム行きの電車は、日本の新幹線のような縦並びの座席になっていた。

電光掲示板には、ドロフスク行きと書かれている。確かにこれはヘウムでの乗り継ぎのキーウ行きのはずだ。本当にこの電車で合っているのだろうか。全く見知らぬ土地へ連れて行かれたらどうしよう。

ワルシャワ東駅からヘウム行きの電車の車内

周囲の乗客にチケットを見せ、行き先があっていることを確認する。何人もの乗客に身振り手振りで行き先が合っているかを確認していると、ちょうど乗り込んできた30代くらいの女性が英語で話しかけてくれた。

「キーウ行きだから安心して。表示が間違ってるのはウクライナだとよくあるのよ。私と一緒にくれば大丈夫。」

女性はナタリーと名乗った。彼女は僕の前の座席に座った。

街を出発すると、車窓の風景はすぐに田園風景へと変わった。麦畑が黄金色に染まり始めると、夜がやってきた。

3時間ほど電車に揺られ、ヘウムに到着した。ナタリーと共にプラットフォームに降り立つと、周囲は闇に包まれていた。キーウ行きの電車が来るまでにまだ2時間ほどある。

「あっちに売店があるから」とナタリーは踏切の先に見える灯の方を指差した。スーツケースを押しながら、一緒に灯の方まで歩くと、コンビニのような売店があった。

同じ列車を待っている乗客たちがぞろぞろと店内に入ってきて、身動きが取れないほどぎゅうぎゅうになった。そこで追加の飲料水を購入した。

「普段はもう少し手前に食堂があるのだけど、今日は祝日だから休みみたいね」

何度もこの電車でキーウへ来ているのが明らかな言い方であった。38歳の彼女は金融関係の会社に勤めており、仕事の都合でポーランドとウクライナを行ったり来たりするらしい。

「息子がいるけど、ポーランドにおいてきているの。今のウクライナは、子どもが暮らすにはあまり良いところではないから」

彼女の言ったことに関してさまざまな解釈ができると思ったが、どのような意味でそれを言ったのかを問い詰めることはしなかった。行けばきっとわかることだろう。

しばらくすると、遠くから鉄道の明かりが近づいてきた。ナタリーとはそこで別れ、チケットに記載されている号車に乗り込んだ。

それぞれのコンパートメントに、2段ベッドが二つあった。上のベッドには、ウクライナ人の女性と、恰幅の良いベルギー国籍の白人のカップル。僕は下のベッドの右側があてがわれた。下の階の隣には、アメリカ国籍のウクライナ人、アレクセイという初老の男が乗ってきた。アレクセイは口ひげが印象的だった。

列車が走り出した。エアコンはついていないが、窓を開けると風が入ってきて快適だった。前日は飛行機の機内で夜を過ごしたので、疲れが溜まっていたのですぐに眠りに落ちた。

8月16日 キーウ到着

0時を過ぎた頃、ポーランドの国境管理の職員らしき人が入ってきて、パスポートに出国のスタンプを押された。その後、深夜の4時ごろになるとウクライナ側の職員がやってきて、またもやパスポートを回収してから戻ってきた。寝ぼけていたのでよく覚えていないが、何時間かの間、国境地帯で止まっていたようだった。パスポートを受け取ると、すぐに眠りについた。

熱戦のような日差しが顔を照らしているのに気がつくと、起床した。車窓からは爽やかな風が吹き込んでいるが、車内は暑かった。他の3人も起き出してきて、改めて自己初回のような形で経緯について話し出した。

口髭をたくわえたアレクセイはウクライナのドネツクで育った。幼い頃からアメリカに移住し、今は生体物理学の研究者をしているという。今回の旅の目的はキーウに住む両親に会うことらしい。2022年のロシアによる侵攻が始まってから初めて訪れるそうだ。

13時ごろにキーウの駅に到着した。「君の行き先まではここから地下鉄で一本だから、タクシーで行くのも電車で行くのも変わらないだろうよ。もし一緒に行くなら同じ方向だから案内してあげよう」とアレクセイが言った。

キーウの鉄道駅

彼について行って地下鉄に乗ることにした。改札機にはクレジットカードをタッチする機械がついていて、カードをかざすと通ることができた。エスカレーターを下っていくと、とてつもなく深くまで降りていくことに気がついた。

「ウクライナの鉄道は世界でも最も地下深くを通っているんだ」と彼は言った。爆撃が起きたとき、地下鉄の駅は最も安全なシェルターとして機能するという。

地下鉄の車内は薄暗く、列車が走る際の轟音が反響し、鉄のような匂いがした。車内はすし詰め状態だった。「俺はすぐ隣の駅で降りるから、君はその先の駅で降りるんだ」とアレクセイは言うと、人の波におされながら下車していき、姿が見えなくなった。

途中から地下鉄は地上を飛び出て、橋の上を通って川の向こう側へと走っていった。目的の駅で下車し、目的地のマンションまで歩いていく。駅前の公園は緑で溢れていた。機材が入ったスーツケースを引きづりながら歩くと、汗が滲んできた。スマホの地図アプリを頼りに歩いていくと、10分ほどで目的地のマンションに到着した。

ここが、学校再建プロジェクトの発起人であるウクライナ人のサシャと、ブルガリア人のペトコが住んでいる物件だ。今はサシャは現場で仕事をしているので、ペトコが迎えにきてくれることになっていた。メッセージを送ると、すぐにペトコがやってきた。

ペトコは僕を高層マンションの22階まで案内した。シャワー・キッチンが揃っている物件を丸々一つ使って良いといった。

「ここはサシャの義母が訪れるときに泊まる場所なんだ。俺もここにきたばかりの頃は数ヶ月住んでいたんだ。キーウに拠点を置くことにしてからは、ここの下の階に部屋を借りて、彼女と住んでいる」

お湯が出ないのと、エアコンが故障していることを除けば、この上なく快適な居場所だった。部屋の隅のソファで寝泊まりするようなつもりで来ていたので、非常にありがたかった。

夕方に少し出かけるから、よかったらそのままキーウの街を案内するよ、と彼は言った。シャワーを浴びてから少し休むと、ペトコと、同じくブルガリア人でペトコのガールフレンドのカイラと街を散策しにいった。

キーウの街並み

マイダン広場から歩き、丘の上の教会まで案内してくれた。街は音楽で溢れていた。ストリートピアノを弾く女性や、街中でギターを担いで歌う若者たち。伝統音楽を鳴らして、どこからともなく社交ダンスをする人々が現れたりした。

「ここの人々はいつもあんな感じだ。シェルターに逃げ込んでいるときだって、彼らは歌って踊ってる人々がいたんだ」

ペトコはよく話した。アメリカ訛りの英語をあやつる彼は、いつも少しテンションが高い様子だった。

レストランに入って食事をすることにした。僕はウクライナで食べる最初の食事として、ボルシェ(日本語ではロシア語発音のボルシチとして知られている料理)を頼んだ。ペトコが英語で注文をすると、店員は非常にフレンドリーだった。

店員は目の前でパンを切るときに、ちょっとしたダンスのようにひらひらとナイフを振り回して大袈裟な身振りで皿に食事を備えた。

ペトコは言った。「俺はこの街にいると、すごく生きてるって感じがするんだ。ウクライナの人々も、俺たち外国人がここにいるってことに対してリスペクトしてくれているのさ」

確かにキーウに外国人はあまり多くはないので、目立つのかもしれない。

「ところで、君が来てからまだ空襲警報が鳴っていないね。信じられない」

まだキーウに着いてから8時間くらいしか経っていない。まだサイレンが鳴らないことがそんなに珍しいのだろうか。

「ああ、信じられないね。1日に何回も鳴るのが普通だから。きっと夜には鳴るだろうね。それで、君はここにどうしてくることになったんだ」

僕は今回の撮影の経緯や、これまでに撮ってきたこと。また、昨年にミャンマーで拘束された経験を話した。

ブルガリア人のペトコ(左)とカイラ(右)

ペトコは興奮した様子だった。
「なんでだろうね。この街に来る人間ってのはみんな同じような経験がある。俺もブルガリアで何度も逮捕されたんだ。選挙の不正を暴くために、政府のオープンデータにアクセスして、存在しない戸籍が投票としてカウントされていたのを暴いたから」

活動家からすると、僕が拘束された話というのはヒロイックなものとして受け止められるのかもしれない。

「キーウは俺にとってすごく安全なんだ。ブルガリアではみんな普通に暮らしているが、いつその辺のマフィアに暗殺されるかわかったもんじゃない。ロシアのプロパガンダの影響力は強いし、報道の自由もない。俺の母親はいまだにプーチンを支持しているよ。ブルガリアだって過去にロシアに侵略されているのにな。国営放送の力は強いんだ。」

ロシアによるウクライナ侵攻が始まったとき、ペトコは母国ブルガリアにいたという。侵攻のニュースを見るとすぐに北上し、ブルガリアとルーマニアの国境まで駆けつけ、避難してきたウクライナ難民たちの救助にあたったと。それから6月にはウクライナへ入り、サシャに出会った。破壊された街を再建するプロジェクトを開始することになった。

ロシアによるウクライナ侵攻は、近隣の多くの国にとっては全く人ごとではない。ポーランド、ジョージアやバルト三国はもちろん、ブルガリアやルーマニアといった国々はソ連時代より圧政に苦しめられてきた。ウクライナへの連帯を示すのは自然なことである。

その後、ペトコとカイラとサクランボ酒の店に行ったり、観覧車がそびえる広場で歌う人びとの前を通って街を歩いた。陽は長く、辺りが暗くなったのは20時ごろだった。22時ごろには、僕らのマンションに帰ってきた。

サシャは帰ってきていた。一度、オンラインで話しただけであったが、実際に会ってみても思った通りの雰囲気の人だと思った。

明日から早速、ホストメリでの学校再建プロジェクトの撮影をしたいと言うと、サシャは「今からだっていいよ」と言って笑った。

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