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ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」【第1話の感想/分析】 “幸せになることを諦めません”けど、「幸せって何だろう?」という旅

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脚本家・坂元裕二による新作オリジナルテレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』は、これまでありそうでなかった、独特の空気感に包まれた変わったドラマだ。見終えてすごく好き!面白い!って思ったのに、言葉で表そうとすると「どこかどう面白かったのか」なんだか文章にしにくい。カテゴライズも難しくて、恋愛ドラマとも呼べないし、キャリアウーマンドラマでもない。笑えるシーンが多いものの、なんにも考えずに見られるようなコメディドラマともいえない。このドラマは何を描こうとしているのだろう?
第1話を鑑賞し、分析してみました。

社会課題とも恋愛とも“距離感”を保った人生ドラマ

3回も離婚しているのに、そこに悲壮感がない。
これがこのドラマの特徴のひとつだ。

大豆田とわ子をとりまく環境を見ていると、近年のテレビドラマたちがいかに“今日的な社会課題”を物語の題材にとりこもうとして、なんとなくどんよりとした空気感をまとってしまっていたのかということが、当ドラマのトーンと対比することによってよくわかる。

離婚を3度も重ねたシングルマザーがドラマに登場するとなると、たとえば経済的な課題やワンオペ育児、非正規雇用問題や子供の反抗期など、そういった“社会性のものごと”にも触れなければとなりがちだけど、大豆田とわ子にはそんな素振りはまるでない。
彼女は就任したばかりのサラリーマン社長で、まだ慣れない社長業の難しさには手を焼いてもいるが、誰にでもフレンドリーで分け隔てがなく、ハイファッションの洋服を着こなし、シックで掃除の行き届いた広い部屋で娘とふたりで暮らしている。それは独身女性の武装にも見栄っ張りにも見えず、ごく自然体で等身大のひとりの働く女性の姿としていきいきと描かれている。悲しいこともあれば楽しいこともある日々。

ただし、“網戸が外れている”。
部屋の網戸が外れてしまっている。

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網戸がはずれると「結婚したい」「4回目あるかも」と思うのだと言う。
お金の問題でも、人肌的な問題でもなく、網戸がはずれた時、“だれかが家にいてくれたらいいのに”と思ってしまう。

これはよくいわれる“ジャムのふたの話し”と同じだ。
硬い瓶の蓋が開けられなくて、そういう時、だれかいてくれたらいいのにと思うってやつだ。それの“網戸バージョン”。
(言われてみれば、網戸ってなぜあんなにかたいんだろう。男とか女とか関係なく、不条理なほど融通が利かない。ジャムの蓋なんて大豆田とわ子にとっては気にもならないが、網戸となると手に負えない)

大半のテレビドラマは、恋愛(や結婚や離婚)という人生のビッグイベントにスポットライトを当てて、何話もかけて丁寧にその過程を描こうとするが(坂元裕二自身も最新作の映画『花束みたいな恋をした』ではある若い男女の恋愛過程をたっぷりと描いてみせたばかりだが)、そういうテレビドラマの既定路線からははみ出して、あるひとりの女性のふつうの人生を描こうとしている。

彼女は彼女なりに多少は傷ついてもいるが、そんなに深く絶望的な穴に落ちたわけでもないとでもいうように、元気に生きている。「結婚とか離婚なんて、しょせんそんなものなのかもしれないな」と観ている人たちに思わせてくれるかのように。

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“不可逆性”について

大豆田とわ子のひとり娘は、1人目の父親の娘だが、2人目・3人目の父親とも仲がよく、彼らのことをあだ名で“シーズン2・シーズン3”と呼んでいるのが微笑ましい。

その“シーズン2”がいう。
シーズン2こと佐藤鹿太郎(角田晃広)が“離婚したってやり直せる”というのを例え話で語るシーンだ。

「お湯が水になり、やがて氷になったとしても、その氷は、鍋で沸かしたらもう一度お湯になるよね
「たとえばお湯が夫婦だとしよう。そのお湯の熱はやがて冷めて、氷になる時、水が氷になるとき、その氷は、お湯だったときのことを決して忘れはしないだろう?

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「どういう意味ですか?」とつっこまれまくるが、でもこのたとえ話は、論理的には正しい。
ただし、“自分の導きたい結論ありき”で、公平ではない例題設定になってしまっている。

もしも夫婦が“お湯”だったなら、そうだったかもしれない。
でも夫婦は“お湯”かはわからない。
夫婦は“タマゴ”かもしれない。

“シーズン2”は、違うシーンではこういう話しもしている。
3人目の夫の中村慎森(岡田将生)を相手に“離婚した順番が2人目でも3人目でも差はない”と諭すシーンだ。

「おととい腐ったタマゴも、昨日腐ったタマゴも、同じく腐ってるからね」

これもまた正しい。
ただし、お湯とタマゴが一番異なる点は、“戻れない”という点だ。
腐ったタマゴは、一度腐ってしまったなら、腐る前には決して戻ることはないのだ。

彼らの夫婦関係が、お湯なのか、タマゴなのかは、まだ現時点ではわからない。
今回のドラマにおいて、大豆田とわ子が自身の夫婦関係を“お湯と思うのか”それとも“タマゴと思うのか”は、こののち語られることになるだろう。

“一度は氷になったとしても、お湯に戻れることはあるのか?”
これも今後の見どころのひとつだ。

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“親から子へ”バトントスされる人生観

あと、このドラマには母親がキーマンとして登場する。
母親の存在は、“人生観というものは、知らぬまに親から子へと、代々、引き継がれてもいる”というメッセージを感じさせる。
切っても切れない、親子の影響。

大豆田とわ子の母親は最近亡くなってしまったばかりだが、その母親にも離婚歴がある。
大豆田とわ子の幼少期の回想シーンでは、母子家庭の台所の風景が描かれて、母親と娘は、会話を交わす。
何かをした拍子に、いつもふと思い出してしまう場面。

「“ひとりでも大丈夫な人”は大事にされないものなんだよ。とわ子はどう、ひとりでも大丈夫になりたい?それとも、だれかに大事にされたい?
子どもの頃のとわ子は返事をする
「ひとりでも大丈夫だけど、だれかに大事にもされたい」

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大豆田とわ子は“ひとりでも大丈夫な人”に育った。
でも、網戸が外れるたびに、“誰かそばにいてほしいな”と思ってしまう。

母親はどうだったのだろう。
“ひとりでも大丈夫な人”だったのだろうか。

それとも“だれかに大事にされたい人”だったけれど叶わなかったのだろうか。

母親の存在が大豆田とわ子の人生観に影響をしていて、大豆田とわ子は何かあるたびに母親のことを考えてしまう。大豆田とわ子は母親の背中を今も気にしている。

「わたしは幸せになるのをあきらめない」と大豆田とわ子は三人の元夫相手に宣言する。

でも幸せってなんだろう。
もう一度、結婚することか?

“幸せのかたち”を考えるとき、大豆田とわ子は、母親のことを思い出してしまう。第1話の最後で、母親の遺骨をお墓に無事おさめることはできたけれど、気持ちの区切りはまだきっとつけられていない。これも大豆田とわ子の、ここからの大切な仕事になりそうだ。

(おわり)

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