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“親鸞のすごさ”は、前例のないターゲット拡張とフリーミアム戦略の採用にあるという話し。(コラム)

最近、親鸞著『歎異抄』の解説本を読んだので、当記事で“親鸞について”をわかりやすくまとめようと思うのだが、「親鸞って、現代のマーケティング視点でいうと、こういう偉業を成し遂げた人なのだな」と考えたことがあるのでまとめておく。私はマーケティングが専門で、宗教は素人なので正しい宗教的正解を学びたい方は他のサイトを読むようにして下さい。(2021年1月3日現在が最終更新)

“いわんや悪人をや”とは

親鸞といえば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉が有名である。親鸞思想の根底となる言葉だが、これをそのままシンプルに現代語訳すると「善人でも救われるんだから、ましてや悪人は救われる」という意味で、初めて聞くと妙な違和感を覚える言葉である。
常識的に考えて“悪人のほうが救われる”なんて言われちゃうとそんなのオカシイよと感じてしまうからだが、宗教学者の釈撤宗はNHKの番組でこの言葉の真の意味を、たとえば“水難事故”にたとえると、「泳げる人と泳げない人がいた時に、“泳げない人から優先的にボートに乗せよう”という考え方」と説明をしていて、それにはなるほどなと腑に落ちた思いがした。

特に親鸞が生きた時代というのは、日本中がめちゃくちゃに荒れていて、長引く戦争にくわえ大飢饉まで起こり、たくさんの人々が次々亡くなってしまう悲惨な時代だったという。
本来、往生するには(極楽浄土にいくには)専門的な修行をきちんと積み重ねて悟りを開く必要があるが、正直、大飢饉で明日を生きるのにも精一杯なのにそんなことしてられないという人が大多数だった。そこに親鸞は強い課題認識を持ったわけである。苦しむ民を救えない宗教になんの意味があるのか、と。

親鸞をマーケティング視点で解釈すると

ここからは、現代のマーケティング視点でこの親鸞の偉業を解釈してみようと思う。もちろん親鸞はビジネスを起こしたわけではないし私には宗教上の知識もないので、あくまで「こういう解釈の仕方もある」という選択肢くらいで捉えて欲しい。

マーケティング観点から述べると、まず親鸞がやったのは「ターゲット設定の変更」である。
親鸞以前と親鸞以後で、最も異なるのはこの点だと思う。親鸞以前は一定以上の層に向けたある種閉じたマーケット戦略が主軸になっていたが(狭く深くのニッチ戦略だったが)、親鸞はこれを一般層にまでぐっと押し広げることにした。その際、これまでと同じシステムや同じモデルのままだと、一般ユーザーには高度すぎて拡張がうまくいくわけがなかったので、現代でいう“フリーミアム戦略”を採用することにする。これが「南無阿弥陀仏」だ。とにかくまずは南無阿弥陀仏と念仏を唱えればそれだけで良いという教えだ。それくらいなら俺にもできる、私にもできると、ダウンロードが爆増。

親鸞や法然の念仏推進者がすごいのは、過去の固定観念や既得権益にとらわれずに、ほんとうに救いを求めている多くの人々のもとに仏を届けようとしたことだ。現代でたとえると、Windowsによってパソコンを一般層へと広げてみせたビル・ゲイツみたいなイメージで理解するとわかりやすいかもしれない。つまり親鸞は、悟りを追求する人たちだけのものだった信心を、“困っているすべての人たち”も乗せるプラットフォームへと広げてみせたのである。
2020年代のビジネスワードのなかに“AIの民主化”とか“ビッグデータ分析の民主化”と呼ぶ言い方があるが、ここでいう“民主化”という言葉の意味は「専門家しか使いこなせなかったものが、誰にでも使いやすくなりましたよ」というニュアンスで使われる言い回しである。
これにしたがうと親鸞がやってのけたことも「仏教の民主化」と呼べるのではないか。

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親鸞は“阿弥陀仏の専門家”でDisrupterでもある

親鸞は既存業界からみるとDisrupter(破壊者)であるが、ただし、親鸞自身は、きちんと仏門で修行を積んだ専門家であるという点も重要な点だ。
突然ど素人がやってきて「めんどくせえ修行なんてはぶいちゃおうぜ」と言ったのでは説得力がなく、ここまで民衆を巻き込む宗教にはならなかっただろうと思う。

阿弥陀様の本質は“多くの困っている人々を救うこと”であって、“厳しい修行を要求するのが阿弥陀様の目的ではないはず”だと親鸞は指摘したのである。これは既存宗派が“手段を目的化してしまっている”点を突いたと言える。
「厳しい修行をしないなら極楽浄土には連れて行きません、なんてそんな“器量の狭いこと”を阿弥陀様が言うわけないじゃありませんか」と親鸞は語るのである。

親鸞は言う。
阿弥陀仏とは、信心があるのなら「100パーセントの包容力」で信者を包み込んでくれる存在である。
絶対的な母性で、懐が大きく、どんなことがあっても最後の最後に南無阿弥陀仏とすがる信心があるのなら「阿弥陀様だけは見捨てず抱きしめてくれる」ような最終的な砦なのであると。
そういう阿弥陀仏の本質を伝えるために親鸞は「いわんや悪人をや」、つまり、われわれのような悪人のためにこそ阿弥陀様はいるのですと、あえてそんな表現にして説くのである。

(おわり)

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