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ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」【第2話の感想/分析】 いちごタルトと“吹っ飛んだふとん”の共通性

他の人からしたら記憶に残りもしないささいな瞬間の出来事であっても、それがある人にとっては人生の方向性を決定的に変えてしまう“分岐点”になったりすることがある。このドラマの脚本家、坂元裕二は“そういう瞬間”を抜き出そうとする作家だ。

でもその“出来事”は、往々にしてあまりに突拍子がなくて論理的にも破綻をしていることが多いので、たくさんの人が視聴するテレビドラマのようなものでは取り上げにくい場面なのだけれど、坂元裕二はそういう場面をスッとすくいあげて描いてみせる。他人の人生をなるべく“リアルに”描こうするなら、“それは避けて通れないことだ”とでもいうように。

たとえば、大豆田とわ子は、会社のそばの行きつけのカフェでこういう話しをする。

「めんどくさいなと思いながらコーヒーを飲んでたらさ、あの席に高校生の女の子がいたの。その子ね、目の前にいちごのタルトを置いて、分厚い数学の問題集を頭抱えるようにしてうなりながら一生懸命解いてた。」
「でね、解き終わったら彼女、ずっと目の前に置いておいたいちごのタルトを食べ始めたの」
「すごく、おいしそうだった」
「それをね、見てね、社長を引き受けることにしたの」

そこに論理的なつながりなんて何一つないけれど、“人生とはしょせんそういうものなのかもしれない”とも考えさせられる。数学のようには解けないし、契約書どおりにもいかない。

それを聞いていた(3人目の元夫)中村慎森は、「わかるよ」と言った。
でも、これは、本人以外にはわかるものではない。

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作家の村上春樹が「そうだ、小説家になろう」とふと思い立ったのは、神宮球場の外野席で、デイゲームのヤクルトの試合を観戦していたときだったという。いちごタルトのエピソードを聞いた時、その話しを思い出した。引用してみよう。

小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後一時半前後だ。その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。(中略)そしてその回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトン(アメリカから来たばかりの新顔の若い内野手だ)がレフト線にヒットを打った。バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響きわたった。ヒルトンは素速く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れわたった空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。
(引用元『走ることについて語るときに僕の語ること』より)

ヒットと小説のあいだには、なんの因果関係もない。こういうことだ。啓示のようなもの。他人になんて、わかるものではない。

 ◆

そういえば、大豆田とわ子は、第1話でも「ふとんが吹っ飛んだ」の逸話を話していた。明け方にひざ枕されながら。あれもそうだ。

「品川でね、歩いてて。
 風、強かったんだよね。そしたら、誰かの家に干してあるふとんが飛んで。私、“あ、ふとんが吹っ飛んだ”って」
「いつ」
「お母さんのお葬式の帰り。
 ふとんが、吹っ飛んだんだよ。
 ダジャレって、現実に起きることもあるんだね」


それを聞いていた(1人目の元夫)田中八作は、「ありがとう。教えてくれて」と言った。
もちろんこのありがとうは「母親が亡くなったこと」を教えてくれてありがとうだけど、同時にふとんが吹っ飛んだことも、なにも言わずに受けとめている。

 ◆

ふとんが吹っ飛んで大切なお母さんが亡くなって、いちごタルトが美味しそうで社長を引き受けて、網戸がはずれたので再婚することにする。

ある日ふとあるものに遭遇してしまって、急にふと何かに気づいてしまう。人生なんて、なにが起こるかわからないのだ。

(おわり)
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