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自由であることが寂しかったりする、帰省(日記8)

2週間近く帰省していた故郷から帰っている途中の新幹線で、寂しいことばかり考えている。
帰る前に、ちゃんとペットの犬とお別れしてなかったな、とか、帰る直前に触れた死にかけの祖母の手のひら、とか。白髪だけになったもう片方の祖母の「待ってるね」という言葉、とか(何を待っているんだろう?)。
でもそういうことに寂しくなって、涙が流れていく感触を得ることで、自分の中にまだ小学生の、幼いあの日の少女性がちゃんと残っていることを実感する。実感して、それが嬉しかったり悲しかったり、二律背反な感情になる。私はこうも普通で、でも普通であることを悔やむような自分もいたりいなかったり、それをまた悔やんで、絶妙な劣等感が渦巻き続ける。

故郷は東京なので、こうも長く滞在して不自由のない生活をしていると時々あれ?なんで自分って京都の大学に出てきたんだろう?と思いそうになるけど、出てきてよかったことに変わりはない。あのまま一生東京にいたら、東京を知らないままだったと思う。

家族に干渉されることはなくなって夜も遅くまで出歩けるようになって私はもう自由だけど、それは同時に寂しさでもあると思いながら目をぱちぱちさせた。帰る場所がないような、あるような、常に視界の端々が動き続けているような、さようならと言い切れない曖昧な距離にある東京。
祖母たちとの別れは、本当に必要だったのかなと思う時がちょいちょいあるし、これはもうどこまでも過去の自分の問題で、今の私はそれに従うことしかできないヌェ。