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冬の吐息、春のあらし. 2

 冬が来たばかりの頃、わたしは、まだ足首にも届かない雪の上を歩きながら、自分の足跡が違うものであったらいいのに、と考えていた。蹄があったり、三本指であったり、踵がずっと、後ろにあったり。わたしはせめて、リズムをつけてやろう、と、たくさんのステップで冬の中を進んだ。タターン、タターン、タラッタラッタ、タッツタッツタッツタッツ。足跡は、つけたその場から冬がその上に降り積もり、振り返るたび、わたしの足跡は冬の下だった。それでもわたしは、出鱈目なステップを踏み続けた。タッタタタッタタ、タララタララタララタララ。冬はその間にも降り積もり、わたしの不規則な足跡を次々と消し、足跡のないわたしは、思い切り身軽になって、どこまでもどこまでも、際限もなく、進んだのだった。

 今はもう、ステップを踏むことなど出来ない。冬は、昼も夜も、そこらじゅうに降りしきり、すでに、外の世界のほとんどはその冷たいきらきらの下だ。わたしはそういう冬の下にあるもののことを、目の前の世界の白さで忘れていく。玄関の扉は冬の景色にだけ続いている。そうして、扉の前の雪は日に日に丈高く、わたしの歩く世界は、日に日に天に近くなる。散歩に出る毎日の、一歩目はいつも積もった雪に道を作るところから始まるのだ。扉から続く坂道は、日に日に長く、青白く透き通ったひかりに満たされていく。その坂道を下り、冬の上に顔を出すと、真っ白くきらめく冬が広がっている。家々は屋根を残して姿をうずめ、眠りについているかのよう。そこにいるはずの人たちは、わたしと同じ冬の上に立つことはない。冬はひとりひとり、ひとつひとつに訪れて、それらひとりひとり、ひとつひとつを、気付かぬうちに隔離するのだ。

 今日は冬の食べ物を作る。材料一、朝一番の新鮮で冷たい雪、材料二、みぞれシロップ。前の晩から窓の外に置いておいたボウルに、雪は半ば凍ったように積もり、わたしはそれを器に盛る。その上にかけるみぞれシロップは、今は記憶の片隅でしか捉えられない季節に、たくさんたくさんこしらえておいたもの。肌がじんわりと濡れるほど空気の暑い季節に、せっせと砂糖を溶かし、そうして寒さを連れてくる風が吹いた頃、時期が来るまでその透明な甘い液体に何も混ざることがないよう、そっと奥深くに、しまっておいたのだ。
 今朝、久しぶりに手に取ったそれは、きらめきを内に閉じ込めたように、とろりとゆらめいた。テーブルに投げかけられた、楕円の形のひかり。蓋を開けると、濃く甘い匂いが胸を満たした。
 レードルで掬ったそれを、器の上の雪にひと回しかける。とろとろと甘いみぞれシロップをかけられて、採ったばかりの冬は、器の中でつやつやと溶け、わたしはそれを何度もすくっては口に運び、すくっては口に運び、そのたび身体中が冬のように冴えていく。そのひとすくいは、例えばツグミの声を持っていて、次のひとすくいはセンリョウの赤や、敷き詰められた桂の橙、日の落ちた後の薄青を持ち、もうひとすくいは、目も眩むほどのひかりを持っている。
 冬は全てを知っている。その下に全てを隠し、覆いながら全てを自らに含んでいる。わたしはそれをひとすくいずつ食べ、与えられるそれらの栄養でこの寒さの季節を過ごすのだ。わたしの中で溶け出した冬は、次の季節への下準備となる。
 そう、冬はそのうちいなくなる。わたしをここに残したまま、次の場所へと渡ってしまう。それはずっと変わることのない、約束なのだ。そうしてまた、ひとめぐり、わたしは冬を待ち焦がれて過ごすのだ。この白く美しい、世界を覆う冬を。わたしを隠し、守ってくれる、この冷たく温かな、冬を。
 冬の食事を最後のひとすくいまで丁寧に終え、わたしは残った雪の解け水とみぞれシロップを、器に口をつけて飲み干す。甘さと冷たさは相容れないまま、お互いをどこまでも際立たせる。それがのどを通り過ぎる瞬間を目を閉じて感じ、そうして全てが身体の一部になったことを確認してから、わたしはまた、冬の散歩に出かける。

(3に続く)

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