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[読書記録]「凍りのくじら」(辻村深月) / マーブル模様の記憶

誰でもドラえもんの道具を一度は使ってみたい、使うなら何がいいかな?なんて考えたことがあるのではないでしょうか。
私も「どこでもドア」や「タケコプター」は今でも、すぐにでも、欲しいと思って生きています。

物語はドラえもんの漫画、アニメ、映画や藤子・F・不二雄さんとともに生きる女の子とともに進みます。それがなんとも少し不穏で、緊張感があって、心拍数が高まるような展開なのです。思えばドラえもんにもそんな危うさをあちこちに見つけられるように思います。
どこまで読めば安心できるんだろう、どこまで行けば救われるんだろう、と思いながら読み進めました。

はじめに出てくる「SF」の解釈

私の尊敬する藤子・F・不二雄先生が遺した言葉にこんなのがある。
『ぼくにとっての「SF」はサイエンス・フィクションではなくて、「少し不思議な物語」のSF(すこし・ふしぎ)なのです』

「凍りのくじら」辻村深月

から、物語は始まります。
主人公理帆子が藤子・F・不二雄さんのSF解釈を借りて始めた「SFゲーム」から既に、少し胸がキュッとなるのです。

でも、プロローグに出てくる男性が誰なのか、それは最後になるまで分かりません。またまた辻村深月さんの魔法にかかって、後半に向かってどんどん読む手が止まらなくなりました。

それから、思春期の苛立ちや葛藤、孤独が手に取るように思い出されます。分かってもらえない、という気持ち、どこかで、理解されない自分をそのままにしておくような儚さやさみしさが散りばめられています。
大人の目線と思春期の目線。経験や危機管理能力は圧倒的に足りないけれど、情念や行動力は圧倒的にあるほんの数年間、

人間というのは、理不尽で業が深く、そして間が悪い生き物だ。

「凍りのくじら」辻村深月より

そうやってあとで振り返れば、きちんと思うことができるのです。ただその数年の間だけは、本当の自分を探してみんな彷徨うのかもしれません。
私自身についても、母親ではなく妻でなく、学生時代にたくさんの楽しい話をした楽しい「だけ」の私でもない、ただの私はこういうところにいたのかもしれないな、と思い返すことができるような、不思議な感覚を呼び起こします。

読み進めた後ろの方でも何度も前のページを遡って探して、確認して、そしてまた読み進めました。

でもそんなものではありませんでした。
衝撃は最後にまとめてやってきます。
ずっとほんのりと(時に大きく、そっちへ行ってはダメだよ、というような)張り詰めたものを感じながら読み進めて、最後に大きく動きます。このお話で、とても深く救われる人がいるかもしれない、と思いました。

辻村深月さんはこういう衝撃的展開を最後にすごい勢いでつないで行くのがとてもうまい方なのだな、と思います。
最後まで読めばすごく納得ができる、このためにここまでのことがあったのだ、と思えます。

大袈裟でなく、十代だった自分をこの間のことのように思い起こして、さまざまな色のマーブル模様を胸に描くような気持ちになりました。

最後まで読んで、本を閉じ、少ししてからもう一度プロローグを読みました。
とてもあたたかい気持ちがじんわりと心に広がって、すべての救いになった、とまた納得しました。

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