まえばまえば

洗面台の前で夫がうがい薬のカバみたいに口を開けてアガアガしていた。おかしな姿に笑いながら「なにしてるの?」と聞くと「顎をつった」と。なにやら普段から口を大きく開けたら「がこ」っという不吉な音がするらしい。そういえば顎関節から音がするのは噛み合わせの状態が関係するとかしないとか「あの先生」が言ってたなぁと思い出す。
「あの先生」とは昔勤めていた飲食店の常連だった歯科医院の先生のことだ。先生はとても優しく、店にくる他のお客さんの歯の相談にいやな顔ひとつせず丁寧に対応していた。そしてそのまま先生に治療をしてもらうお客さんもたくさんいた。
わたしもその中の一人であった。わたしの前歯は重なっていて片方が少し前に出ている。これがとんでもなくいやだった。笑うと余計に目立つので、笑うときは手で口元を隠す癖がついてしまっている。いっそのこと前に出てる歯を抜き、差し歯にして今より綺麗な歯並びを手に入れたいと先生に相談したが、それは勧められないと先生は言った。「せっかく健康な歯があるのに神経を取って差し歯にするのは勿体ない」と。わたしはその言葉にがっかりした。どうしてもこの前歯がいやなのだ。しかし歯科矯正をする金銭的余裕はない。わたしが明らかに落ち込んだので先生が「少しはよくなるかもしれないから一度じっくり見せてほしい」と言った。そして数週間後、先生に診てもらうことになった。
先生のいる歯科医院へ行く。歯医者さんバージョンの先生を見るのは初めてで「ほんとに歯医者さんなんだ」と思った。ここでは真っ昼間の飲食店で「マジックミラー号の人妻は絶対に素人だ」と言い張る先生とは違うのだ。「前歯の重なりが気にならないようにしてみせるからね」と先生は優しく笑いながら言った。
「お願いします」と言い、わたしはタオルの下で静かに目をつぶった。

先生がわたしの顔にかかっていたタオルを取り、言った。
「これで気にならないと思うよ。ちょっと鏡で見てみて!」
わたしは丸い手鏡を受け取る。これで長年のコンプレックスにおさらばだ…!!!期待に胸を踊らせながら鏡を見ると

わたしの前歯は、

片方、長くなってた…

片方長くなっていた!!!!!

嘘だろ…!???
なにをどうやったのかは知らないが、前歯の前に出てる方だけが長くなっていた。手鏡を持ったまま、この片方長前歯かたほうながまえばで生きていく想像をする。無理だ!!!無理すぎる!たしかに片方長すぎて重なりは目立たない!でも、違う!違う!そうじゃない!!!そんなんじゃない!!無理!無理だよ先生!
このコントのような展開に静かにパニックになっていたが、深呼吸をし先生に「なんか…片方長くなってませんか…?」と聞く。もしかしたら何かの間違いかも知れない。すると先生は「うん、あえて長くしてみたよ。すごくよくない?」とドヤ顔をした。そのドヤり具合に一瞬この片方長前歯を受け入れそうになったが正気を取り戻し「いやあ…なんか長すぎるような…」とやんわり伝える。先生は「そう?僕はこのくらい長いほうがキュートだと思うけどな!」と1ミリも共感できないことを言った。もう一度鏡を見る。何回見ても片方長前歯だ。こんなことってある?聞いたことないよ。歯並び相談して片方長前歯にされるなんて…。当時アシンメトリーな前髪は流行っていたが、アシンメトリーの前歯は流行っているはずもなく、どうしても受け入れることができないわたしは先生に頼み、元の長さの前歯に戻してもらうことにした。「僕はいいと思うけど」と片方長前歯との別れに先生はとても残念そうだった。処置が終わり手鏡で長さが元に戻った前歯を確認したときには安心感で胸がいっぱいで、歯の重なりなんてものはもう気にならなかった。もしかしたらこれが先生の真の狙いだったのかも知れない。

数年経った今でもわたしの歯並びはあの時のままだが、一つだけ変わったことがある。わたしのきれいじゃない歯並びもなにもかも全部ひっくるめて「かわいい」と言ってくれる夫がいることだ。だからわたしは家の中で思い切り笑えるのである。

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