A・ミラー「魂の殺人」読書感想文 Ⅱ

引用部分について一個まえのnote A・ミラー「魂の殺人」読書感想文 Ⅰ と全く同じです。
ルート・レートマンの父親は牧師であり、説教台とは教会のそれ、『説教台の上の男』とは、父親のことでしょう。

これ以上にみじめなことがあるでしょうか、こんな孤独に包まれた人がへり下った優越感という馬にまたがって体を屈めているなんて。

スゴイ一文。習字したい。

ここに描いた特別製の孤独、まったく孤独の顔をしていない、善意の人に取り囲まれた孤独、これが孤独であるのはただその孤独の主人公が、自分を取り巻く人々と一種類のつながりしか持てないからなのです。上から下へ、身を屈めること、ちょうど聖マルティンが馬の背にまたがったまま貧者の方に身を屈めたように。それを呼ぶ名前はいくつもあります。善行、助け、与えること、教えること、慰め、導き、それどころか仕えるということさえできるけれど、でもそんな言い方をしても何もならない。上は上、下は下のままなのだし、上にいることになっている者は決して自分が善行を受け、教えられ、慰められ、導かれることはないのです。本当はそれがなくてはならないものなのに。上は上、下は下と決まっているこの構図の中ではどんな形でもお互い様ということは考えられず、どんなに好意を持っていても、連帯感などと呼べそうなものは毛筋ほども見られないのですから。これ以上にみじめなことがあるでしょうか、こんな孤独に包まれた人がへり下った優越感という馬にまたがって体を屈めているなんて。
(ルート・レートマン、『説教台の上の男』、1979年、213頁以下)

以上、A・ミラー「魂の殺人」、山下公子訳、1983年、新曜社 、40pより

世間には、自分よりも上位にある何か、大きな、スゴイモノに「認められた」ことを原体験としている人がいて、その人は、他人にも同様の体験があったなら幸せなのに、と思うようです。
そりゃそうだ。

で、そういう方が例えば「支援者」になると、「被支援者」に対してそういう、大きくてスゴイ上位にあるモノをあてがおうとしたり、あるいは自分自身が大きくてスゴイ上位にあるモノになって、相手を救おうとしたりするわけです。
そりゃそうだ。

で、そういう方は、大きくてスゴイ上位にあるモノを崇め、それによって自分が引き上げられたと感じ、そして未だ引き上げられていない人のことを見下しています。
自己肯定感が云々という話がありますが、「あなたも、大きくてスゴイ上位にあるモノに認められれば自己肯定感が上がるのに」という思いを抱いて接する人は、こちらを見下しているので、その見下す視線や身振りによって、こちらの自己肯定感は下がっていきます。

いわゆるマルチ商法の勧誘や、スピ系や、不登校支援の現場で、それらを目撃しました。
ぴゅ~っと逃げるしかないですね。

しかしおそらく、「寄り添う」「共にいる」「権威によらない価値観を持つ」ことがそもそも出来ないのではないかと思わせる、その方たちの空洞もまた、目撃したのでした。


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