産んだ女の驕りと恐れ

Ⅰ 産んだ女の驕り(旧題 赤) 2007/07/06

画家・フリーダ・カーロの遺作「ビバ・ラ・ビダ!(生命万歳!)」には、スイカが描かれている。
真っ赤な果実は、女性器だと思う。

女性器が生肉のようといわれることもありますが、そうですね、閉じているときにはそんなものかもしれません。
しかし、濡れて開いたときには、死んだ肉よりもはるかに果肉に近い。
「生」肉といいますが、私たちが目にする食肉は既に死んでいて、なんの生命活動も感じられません。
木からもぎ取られた果実が、死んでいるのか、生きているのかは判断しかねますが、割り開いたときに見せる色の鮮やかさやみずみずしさには、「生き生き」としたものを感じます。

私は男性誌にそこそこ目を通していますが、それらを眺めて不思議に思っていました。
女性器の色がピンクか褐色か黒ずんでいるかあたりの濃淡で表現されるのは、どうしてなのでしょうか。
それは、スイカでいえば、皮の部分のお話ですよね?

居酒屋で、隣りのテーブルの男性グループが、ぱっくりと切り分け盛りつけられたスイカを目の前にして、「皮」の話をしている。
「縞の黒色がはっきりしているほうが、ウマイらしいよ。」
「ほんとかよ、聞いたことないぜ。」
「オレは縞のないほうが好きだ。」
「緑の部分が問題じゃないのか?」
この人たち、スイカの皮を食べるつもりなのかしら?と思いながら聞き耳を立てていて、しばらくしてからちらと振り向くと、赤い部分が食べられて皮は残っている・・・
というくらい、違和感を感じるのです。

スイカには、確かに、緑、黒、白の部分もあります。
でも、「スイカは何色か?」と聞かれたら、「赤。」ですよね。

どうして「女性器の色は赤である。」といわれないのでしょう。

きっと、赤だと思いたくない、認めたくないのです。
故意に意識をそらしているのです。
女性器の見せる赤に、「実感」を持ちたくないのです。
「実感」したら、恐いからです。

ぱっくりと口を開け、生々しく濡れた赤い色を表した女性器を見て、「ここから臍の緒でつながった小さな人間が産まれてくるのだ。」と想像したとき、どう感じるでしょうか。
「恐い」と思います。
女性器の赤色は、私たちのちっぽけなアタマでは支配でない命や自然に対する、どうしようもない畏れの感情を呼び起こす。
私たちは、そんなモノを思い出したくない、実感したくない。
だから、女性器といえばピンクだとか黒いとか、エッチ(わいせつ)だとかで騒いで、ごまかしているのです。

これは男性だけでなく、女性も同じです。
女性誌でも、女性器を赤とは言わず、やはりピンクか黒かを問題にしているようです。
出産を恐れているのは、誰よりも女性自身です。
自分のモノだと信じていた自分の身体に、自分ではどうにもならない事態、訳のわからない事態が起こるのが恐いのです。

昔は、とはあいまいな言い方ですが、そうではなかったようです。

女性器には「弁天様」という呼び名があります。
「弁天様」は神様の一人です。

神社にある「お宮」は、「子宮」の象徴だといわれています。
鳥居からお宮まで続く道は「産道」です。
入り口である「鳥居」は、私たちが目にできる「女性器」と呼んでいるものの象徴であり、赤く塗られています。

腰巻が赤いのは、すそが割れた時にちらりと見える赤色が女性器を思わせるエロさも狙っていると、勝手に思っているのですが、どうでしょうか。

赤が魔よけの色とされているのは、女性器からきたものだと、やはり勝手に思っています。
還暦祝いのちゃんちゃんこに赤色が選ばれているのも、魔よけの色であり、生命の象徴である色だからでしょう。

命や、自然や、それを感じさせる女性器の赤色に手を合わせ、畏怖しながらも、受け入れていたように感じられます。
「よろこび」を感じます。


Ⅱ 産んだ女の恐れ 2009/03/04

嶽本野ばらの『シシリエンヌ』新潮社 を読んだ。
女性器が、ルビーに喩えられていた。

嘘だ!


そんなはずない!



嶽本野ばらは、ゲイに違いない!




あぁ、驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

産んだくらいで何かを知り、得て、偉くなったと私は奢っていたようです。
自然を知った気になって、恐れるものに「自然ではない」とレッテルを貼り、自分の恐れを紛らわそうとする。
私は、そういう、普通の人間でありました。
自分は普通ではないと、思っていました。

野ばらちゃんも、ゲイの方も、ごめんなさい。

『シシリエンヌ』を書いてくれた野ばらちゃんに感謝します。

この記事が参加している募集