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磯貝剛『箱』感想文/他

noteにて、「文学が好きな人」「文学をやってる人」と見ていただき、戸惑っていた。
江戸川乱歩はけっこう楽しんだが、例えば夏目漱石なら夢十夜すらろくに読んでいないのに文学!だなんてと。
しかし#小説をつけたもの書きの私が、「文学系noter」とカテゴライズされるのは当然か。
知らんけど。

十数年前、あるプラットホームで上げていた文章には「痛み」が主題にあった。
それは「生きづらさ」でもあったが、「生きづらさについて書いている」とは言われなくなかった。
その一言で説明しちゃあ、お仕舞いよと。
…やはり文学っぽい意識高い系かもしれない。

「切れば血が出るような文章」という女流?作家につけられがちなフレーズがあるが、当時私がそんな感じだったことは否めない。
女性アーティスト フリーダ・カーロについてのエッセイを書いたりした。
フリーダ・カーロの主題も「痛み」であろう。

自分が吐き出す、生々しく、毒々しい文章に嫌気がさしていた。
もっと爽やかになりたいと望んだ。

そのプラットホームで何故か私と仲良くして下さった、美術作家である年長の女性が二人いらっしゃった。
うち一人とデートをしたとき、「どんな作品や作家が好きですか?」という的を得ない質問に、快く答えて下さった。
「ボッティチェリの春は好きね。藤田嗣治もロマンティックだわ。自分の作品では――みたいなものを創りたい」
優美、という言葉が浮かび、彼女が天上の人のように見えた。
「美術」とは云うが、「美しい」必要はあるのかと疑問だった私が、にわかに「美」に憧れた。

あれから、月日は過ぎた。

noteを始めた当初出会った磯貝剛さんの奇妙な絵を、私は一目で気に入った。
『今日のエスキース』というタイトルにおいて、人、動物、物等は、欠損しつつ絡みあい、繋がっていた。
動物はもちろん、人体もおおよそ裸であった。
頭髪はほんの時々は長く豊かであるが、たいていはスキンヘッドで、男女の区別は曖昧であった。
そもそも、どこからどこまでが一人なのか、一線が見えないという意味でも区別ができない。
これらcreatureはそれぞれ違っているが、似てもいて、「エスキース」という名の種族かしらと見立て、面白がって眺めていた。
ただただ愉快だった。

「エスキース」とは「下絵」だが、「タブロー(完成品)」の目撃によって、本来の意味を知る。

「タブロー」は美しかった。
驚き、惹かれた。
「美しい」と感じるとき、心は凪である。
美しいものを素直に好きと思えるほどに、いつの間にか、私は年齢を重ねていたのだと感慨深かった。

磯貝剛さんの描く絵は、奇妙であり、奇抜であり、気持ち悪くもあり、痛そうかもしれない。
しかし、乱歩を好み、女性が表現する「痛み」と「癒し」をくぐった私は今、一見それっぽくはあるが異なるものと理解している。

さて、私が「文学系noter」なら、磯貝剛さんは「美術系noter」でいらっしゃるだろう。
「〇〇系」だの「noter」だのはくだらないかもしれないが、繰り返しそう見られ、扱われることで、人を呪縛していく。
少なくとも私はそうであった。
勢いに任せ絵や歌を面白がって上げる一方で、#小説の体裁は気にし、知らないわけではないテクニックを用いて整えるようになった。
不自由を感じていた。

そんな折、磯貝剛さんの創作した#小説『箱』に触れる機会を得た。
約四ヶ月に渡る連載中、わくわくし、実に面白かった。
小説は自由に書けばよい、という聞き古したつもりの言葉が生彩を放ち、腑に落ちた。
してやられた、という感情を認めたとき、「文学系noter」としての余計な自意識を自覚した。

あとがきによると、「挿し絵」というが、『箱』「挿し話」だそうだ。
まず「絵」があり、「物語」はこの「絵」につけられたものだという。
おまけかよっ。
しかしなるほど、『箱』の「絵」は単独で作品として成立しているが、「物語」の方は「絵」がなければ未完成である。

また、「つたない小説だったと思いますが」とのことだが、またまた〜と言いたい。
主人公・咲の、つたなく、淡々とした語り口によって小説が成功していたと思った。
第一話で、咲が「いい子」と分かる。
第二話では、咲による単調な説明の積み重ねによって、きらきらとした時間が描きだされる。
全十九話中の前半、退屈を感じる方もいるだろう。
咲と、親友の小春の関係を、美しく理想的だと感じる方もいるだろう。
読み終えた後に振り返り見直せば、伏線というか、物語と一致していたと感じるところも多く、見事だった。

私も面白いものが書きたい、と思った。

2020.09.20より、konekoさんによる『箱』の英訳も毎日更新される。

実人生において様々な経験をしただけでは、決して、人は、描きたい、書きたいと願うことはない。
私たちが創造の刺激を受けるのは、他人によって創造された作品に触れたときであるという遠藤周作の言葉に私が納得したのは、noteの皆さんのおかげである。


(磯貝剛『箱』感想文 了)


<ここより、他>

『箱』を盛り上げよ〜ぜ〜∩(´∀`)∩ワァイ♪

みたいな話に乗った虎馬鹿子です。
で、磯貝さんご本人に感想文の下書きを見せたところ返ってきたメッセージが以下。

まさかこんなに丁寧に書いて頂けているなんておもってもいませんでした。
鹿子さんが楽しんでいるのならいいですが、なんか申し訳ないです。
気を使わないでなんでも思ったとおり書いてたください。
なんにしろ楽にいってください。
箱は読んでもらいたいですが、僕のことを取り上げようと手を尽くしてくれているのに、手を尽くすのが僕なんかで申し訳ないです。

おぬし(・∀・)ニヤニヤ

びびっておるな(・∀・)ニヤニヤ

知ってる。

よく、名前とアイコンが恐いって言われるし。

ビュー数を稼いでるのは、エロい記事でも面白い記事でもエロい記事(大事なので二回言いました。18禁の小説は200円です。買ってね♪)でもなく、重い記事だし。

でも言わせてもらえば、恐いアイコンを描いたのは磯貝さんですっ。
┐(´∀`)┌ヤレヤレ


(オワリ)


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