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猫をなくした男と、女

今日あいつに似たやつを見かけた。
あっちもおれに興味があったみたいだ。

そう、男が女に話すのは、もう、何度目か。

男は猫をなくしている。
女には、なついてくれた、はじめての猫だった。


 一

女は友人に誘われて、男の実家にある男の部屋を訪れた。
三方に窓が開き、日なたと、趣味のこまごまとにあふれていた。
にゃあと男の飼い猫がやってきて、客人たちの足元を、くるり、くるりと一周ずつした。
終えると、CDが積まれた棚の上へと飛び乗って、見下ろした。
まあたらしい座布団が一つ、畳の上にかしこまってあった。

次には、女だけが訪れた。
猫は女と目が合うと、にゃーにゃーと女の脚にまとわりつき離れなかった。
戸惑いながら、女は腰を下ろした。
膝に猫が乗ってきた。
男は言った。

はじめてだよ、驚いた。
こいつ、礼儀正しいから、お客さんみんなにあいさつするけど、ぜったい、なついたりはしないのに。
やっぱりな。
分かるのか。
すごいよ。
さすがだ。

だれが?
なにを?

女は訊かなかった。
それまで猫に縁がなく、やはりはじめてに驚いていた。
猫はやわらかくあたたかく、膝の上で無防備に安らいだ。
女が中座をしても、またすぐそうした。
ずっと。
女は男の部屋に泊まった。


 二

その家に、もらわれてきた犬があった。
小学生の娘の望みを父親が叶えた。
娘はひと目で犬を気に入り、夢中になった。
好きで、好きで、大好きで。
抱きしめても、抱きしめても、足りなくて。
おふとんまでさらって一緒に寝たかったが、外犬そといぬなので我慢した。
どんなに、どんなに好きでも、犬は犬で。
人と同じに扱ったところに犬の幸せはないと、誰にも教えられずにどうしてか、娘は分別につとめた。

犬は、家に上がることを許されなかった。
吐き出し窓に前足をかけると、めっ、とくる。
でも鼻先を乗せても、叱られない。
広縁ひろえんに娘の気配をみとめると、犬はくうんくうんと鳴き、窓や網戸を一寸ちょっとばかり開けさせた。
すき間に鼻先をさし入れ、満足げだった。
そのままうとうとと寝ついては、かくんとしてみせた。
娘が雨戸を開け閉めするとき、犬は必ず邪魔をした。
つき出される鼻先をいためないよう、娘は笑いながらもう、と言い、手を添えてそっと押し戻すのを繰り返した。
その鼻先を、膝にすり付けて甘えられると、娘は犬がかわいくてしかたなかった。

玄関は東を向き、和風で、石が敷かれたポーチに立つ柱がひさしを支えていた。
夏場、引き戸は開け放たれ、娘はよく打ち水をした。
石のまだ濃く濡れしみた色つやのポーチに、犬は土間への段差を枕にしてぺたりと横になり、涼しそうに眠った。
入って玄関から階段にかけては吹き抜けで、二階にある娘の部屋を出てすぐにも、犬の様子を眺めることができた。
視線に気がつくと犬は起きあがり、仰いでしっぽを振った。
土間は踏まず、けなげに身だけを娘に向かって乗りだした。

犬とともに月日を重ねて、娘は年ごろの娘になった。

そして、ある晩、突然に、犬は腰からひんやりとした。
まだあたたかい胸から上と分かれたからだを、娘は手のひらで確かめた。
犬は横にはならず、後肢あとあしてたように固くつっ立った。
犬のそばにいようと庭にしゃがみ込んだ娘に、父親は、明日病院に連れていけと言った。
それから日付けが変わり、おまえはもう寝ろと、さとした。
娘はどうして、あんなにも、素直に言うことをきいた・・・・・・・・・・・のか。
犬は調子が悪いとき、娘がふれるのを嫌がった。
娘は決して無理じいしなかった。
その晩は、嫌がらないという感じともまた違った。

朝、犬はすっかりと冷たく、しんと、横たわっていた。
穏やかな寝顔で。
最後まで犬らしく、犬は生きた。
重く固い革の首輪を、娘は外した。
秋めきまもなくの頃なのに、長くせがちであった娘は家の中でもカシミアのマフラーをしていたが、それを取り、犬に巻いた。


 三

おふとんの中に、男と女と猫がいた。

男は女を抱き、女は猫を抱きながら、犬の話をする。
しまいに、あと一年早ければ、男と犬も会えたのにとほろほろ泣いた。
泣いて、ようやくろくに泣けた気がした。

早々に、男は女にプロポーズした。
四つ葉のクローバーを添えて。
見つけたかたを教えたのは女で、男はすぐに見つけた。
子どもの頃からどうしても、見つからなかったのにありがとうと、男は女に言った。
光る石なら壊せたのに。
女は断れなかった。

婚約はしたものの、ほんとうは、女は女の家を出るつもりがなかった。
しかし男はすぐにでも、女とずっと一緒にいたがった。
会えば男は女を離さず、実家に連れ込み、泊まらせた。
翌朝一時間をかけ車で送り、ようやく帰した。
週末には連泊させた。
会えない日の男は女の声を聞いていたいと電話に頼り、三時間は費やした。
体力のない女はそのうちに熱を出し、数日寝込んで勤めも休んだ。
男はさすがに電話も求めず、しかし女の体調が落ち着くと、顔を見るだけでいいとやって来て、たしかに数分いれば帰った。
追いつめられる気持ちに、女はなった。
女が男にお願いすれば、すこしだけは放っておいてもらえるが、まもなくしばられた。
疲れた女は男の部屋で、ただ、横になっていた。
そばには猫がいた。
お別れしたいと、女は言いだした。

すると男は女の家のほど近くにマンションを買い、引っ越した。
毎日わざわざ自分の家に帰る気を、女はなくした。
男の家に女の荷物が増えていき、同棲がはじまった。

猫も飼えるはずのその家に、男は猫を連れてこなかった。
男の猫はのら猫だった外猫そとねこで、マンションに閉じ込められる家猫いえねこにはなれないやつだと、男は言う。
あいつはあの土地と家に住み、おれはここで暮らすと決めたと。
猫より女が大事だと、男は女に言いきった。

女の兄の結婚式にも、女の叔父の葬儀にも、男と女は連れ立った。
女は女の実家ではなく、男の家で支度をし、男の家から男と出かけた。
女の親も親戚も、女と顔を合わせれば、男と結婚しろと言う。
思いきれずにいるのは女の方と、知られていて。
もう、流れがあると見た女は流れた。

入籍を済ませると、男はにこにこと機嫌がよかった。
男の実家の男の部屋が、男のものにあふれたように、男の家もあふれた。
女も男のものとなった。
男は男のものを大事にした。
機嫌よく女が家にいることを、一番に求めた。
女は勤めをやめた。
のんびりと、家で過ごした。
たまに出かけた。
日が暮れるまえには、家で二人分の夕食を作って男を待った。
思いがけずに、猫にでもなったかのような気楽さであった。
夜帰った男や、朝目覚めた男は、でもまだときどき、いなくなるような気がすると言って女を抱きしめた。

男は四人兄弟の末っ子で、実家には長男と母親と、猫が残った。
父親は病死していた。
男は勤め先と実家が近く、一帯を車で回って仕事をしていた。
日中、実家に寄るのは造作もない。
男はちょいちょい顔を出した。
猫は出かけていても、缶詰を叩いて鳴らすと、あらわれた。
目はまあるくかがやき、ごろごろと喉を鳴らした。
男は猫をなで、缶詰をやり、母親の出した茶を飲んだ。
しかし、しばらくたて込み、やっと来れたよと、猫を膝に乗せたその翌日、猫はいなくなった。

母親は五日を過ぎるのを待ち、男に連絡した。
あれ以来、どうも帰って来ないと。
猫はこれまで、二晩姿を見せないことはなかった。

男はまず、実家で缶詰を叩いた。
いつもの調子で響かせた。
猫は来なかった。

すこし早く出かけ、すこし遅く帰宅し、また仕事中にも、猫を捜した。
猫の土地は、男も知った土地のはずだった。
目で捜し、缶詰で呼びかけた。
名前を呼んだ。
猫は見つからなかった。

男の実家は築四十年をゆうに越えており、増改築を重ねていた。
長男が、家を建てなおす話を進めていた。
と、男はようやく知らされた。

あの日、あいつはおれを待ってた。
最後におれにあいさつして、出ていったんだ。
こうなるなら。
ここに連れてくればよかった。

男は女の胸に抱かれていた。
男は泣かずに、女が泣いた。

女は男を慰めようと、男に尽くした。
男は女に手紙を書き、渡した。
猫より女を愛していると。
だいじょうぶだ、ありがとうと伝えた。
はたして、女は身ごもった。
驚かず、知り得ていた。
あの日、あの夜も流れたのだから。

そう、この子はあのだという思いが、あわく、女のうちに浮かんだ。
きっと恋よりはかない夢を、めいっぱいにとめおきたくて、ふれないよう、女は気づかないふりを通した。
そうしてやはり、まもなくあわく溶けきえた。

女は犬をなくしてから、くり返し何度も見る夢があった。
庭に女の犬を見つけると、次から次へとそっくりの犬は増えてゆき、見分けられない女は泣きたくなった。
目覚めてそのたび罪を覚えた。
しかし、おなじ夢を見なくなった。

しかし、夢中が訪れた。
かつての身一つを二つに分けて、赤子と出会った女はより幸せで。
この子はあのと信じるこころが燦々さんさんとあらわれた。
罪とも愛とも定めずに、るものを、女は見つめていつくしむ。
かれた恋とおなじく尽きるまで、見つめていたかった。

赤子と添い寝し、求められ、女の乳はあふれた。
なつかしいあたたかさに、女は包まれた。

女は子どもだった頃、夜、部屋でひとりおふとんに入ると、ぽうっと、からだがあたたかくなった。
そのあたたかさをひらいて、庭にいる犬を思い、包んだ。
そして母を、兄を、父を、友だちを、包んでいった。
ともしびはおのずと増えて地にみち満ちて、やがては星が宙に光った。

いつしか恥じて、閉じていた。

今、女が思わずとも、女があたたかいとき、赤子もあたたかかった。

畳の部屋におふとんを二つ敷き並べ、一つに男、もう一つに赤子と女とが、川の字に寝ていた。
男が女と寝るために、買い求めたダブルベッドはそのままに、寝室は移された。
赤子をはさんだ、すぐそこにいる男を女は思い、包もうとした。
なのにますますのあたたかさに、赤子と女は包まれた。


◇ ◇ ◇

今日あいつの夢を見た。

思い出したようにまた、男はそう話す。

男は猫を捜している。
女はもう、わが子を抱いた。

子どもの髪は日なたの匂いがする。
男は猫とおなじだと言い、女は犬とおなじだと思う。



(了)


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