2019年9月7日 switchLight発売にちなんで、色んなゲーム機の話。
この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。
2019年9月7日 switch Liteと新型switchについて
これがブログに載る頃はswitch Liteも、新型スイッチ(バッテリーが長くなったやつ)も発売され、そこそこ時間が経ってしまうけれども、備忘録のつもりで書き残しておこうと思う。
ちなみに、switch Lite発売前に書かれたものである。念のため。
switch Lite。かなり前から出るんじゃないか、という噂があったが、本当に登場。
switch Liteについては……まあいいんじゃない。と、言うくらいにあまり興味がない。Nintendo Switchはテレビ、携帯と切り替えることができて、コントローラーを取り外してセパレートできるのがいいんじゃないか、と思っているから。その個性を切っちゃうのは、ね。
でも需要はあるんじゃないかと思う。というのも、最近はバイトで電車に乗ることが多いのだが、電車でswitchを遊んでいる子供を時々見かける。確かに大きい。子供の手には大きいし、カバンの中に入れようとするとそこそこ場所をとるので、大人からしても大きい。私はswitchを外に持ち出したことは一度もなかったから、switchの大きさにはあまり関心が行ってなかった。いろんなところで言われていたが、確かに持ち出すものとしては微妙に大きい。
そう考えると、小型switchを欲しいと思う人はわりといるんじゃないかと。
惜しいのは、携帯モードのみになってしまったこと。せめてケーブル1本で繋いで、テレビで映せるようにすればよかったのに。
あまり誰も言及しない話題だが、Nintendo Switchで意外に売れている系統のゲームは、美少女・美少年をモチーフにしたテキストアドベンチャーゲームだ。ニンテンドーeショップのランキングを見てみると、時々その手のジャンルが載っていたりする。美少女ゲームが次々と発売しているというのもあって、意外と需要があるのだと思う。
で、こういったプレイヤーは意外にゲーム機本体も“お供”として連れていく人も多いそうな。こういった人たちも含めると、switch Liteを求めるユーザーは多かろう。
switch Liteでふと思ったのは、これでニンテンドー3DSの後継機の期待が完全に消えたこと。
いや、DSで続いていたシリーズもの作品が続々とswitchに移行していて「もうないだろうな」と思ってはいた。それがswitch Liteの存在で完全に消えてしまった。ニンテンドー3DSは私のお気に入りハードだったのに、次がもうないのが残念。
DSの系譜はswitchの中に溶け込んだんだろうね。switchはWiiUの後継機であると同時に、3DSの後継機になったというわけだ。
もう一つ発売されるのは、新型switch。“新型”といっても、バッテリー時間が少々のびただけ。これはだいぶ残念な感じの“新型”。
すでに新型を手に入れているメディアの記事によると、本当にバッテリー時間がのびただけだという。他に、「実はバージョンアップしている」という部分は何もないという。
うーん……これなら“新型”と銘打って発売するほどのものじゃないような気がする。
せめてネット周りが改善されてたらな……。switchの弱点は、ネット。ネットに繋がりにくく、切断しやすい。『Splatoon』を始める時、10分近くネット接続の儀式をしなくてはならない時もある。これはどうにかならないものだろうか。
(家は有線接続ができないんだ……環境的に)
自宅Wi-fiが悪いのかと思ったら、PC、スマートフォン、3DS、WiiU、どれも正常につながっている。switchだけがなかなか繋がらない。
せめてネットはお手軽に繋がるようにしてほしい。switchにはストーリーミングゲームもあるのだが、こんな切れやすいと恐くて触れることができない。「新型」というなら、こういうところを改善してほしかった。
ついでだからこの話も。
ジョイコン問題。そろそろどうにかならないだろうか。ジョイコンがとにかくも壊れやすい。
触れてないのにスティックが一定方向に入力され続けている状態になるし(ドリフト現象と言うらしい)、私の使っているジョイコンはAボタンとBボタンが効きづらくなっている。『Splatoon』でボム使えない縛りになっている。
ジョイコンは任天堂製品とは思えない壊れやすさ。これは私が運悪くハズレを引いたという話ではなく、ジョイコンが壊れやすいと実感している人はかなりいるようだ。
もう一つ、ジョイコンのボタン配置問題。
ジョイコンはボタン配置がひどい。+・-は押しづらいし、Bボタンを押そうとするとどうやっても右スティックに触れてしまう。『Splatoon』でジャンプをするとき、どうしても右スティックに指が当たって、カメラが回ってしまう。これで思ったところへなかなかジャンプができない。
(今はプロコンを買いました。最初から買えば良かったと思うくらいいいものでした……2020年の追記)
ジョイコンはswitchとドッキングした時の見栄えが優先されてしまっているから、実際触れてみると微妙に押しづらいボタン配置になっている。
でもそうは言っても、私はこのジョイコンがお気に入りだ。
ジョイコンの良いところは、本体から外せて、さらに2つのジョイコンをバラバラにできることだ。ジョイコンをセパレートさせて、腕をだらんとさせたままゲームをすると、非常に楽。肩に対する負担が少ない。肩こりを感じないから、それこそ10時間くらいぶっ通しでゲームを続けられてしまう。ここまで長時間、無理を感じることもなく楽しませてくれるゲーム機はswitchくらいなものだ。
でも、こういう構成なら、バラバラにすることを前提としたジョイコンが発売されるんじゃないか……という予想を立てていた。
例えば、格闘ゲーム向けに6つボタンが並んでいるジョイコン。もちろん、テーブルの上にも置いて使える。
例えば、ガンシューティング向けに、右ジョイコンだけガンの形になっている……とか。Wiiの時はそういう周辺機器、一杯出ていたじゃないか。
そもそも形として持ちづらく、ボタン配置がおかしいわけだから、持ちやすい卵型で、ボタンも大きく、押しやすいジョイコンが出てくれればいいのに。しかも左右ドッキング可能で、例えば「セパレートできるプロコン」みたいなものが出るんじゃないか……HORIあたりから、きっと出ると思っていた。
(「おすそ分けプレイ」を想定しない、ボタン配置を見直し、握りやすさに特化したジョイコン!)
でも今のところ、どこからもそういうコントローラーが出る気配が全くない。Amazonで検索してみると、switch対応プロコンって実はいろんなところから一杯出ているんだ。でも、左右セパレートできるタイプのものは1品もない。なぜだ? 私はすぐにでも飛びつくんだがなぁ……。
2020年3月27日の書き足し そろそろ新型ゲーム機が出るから、それにちなんで色々なゲーム話。
以上が去年9月7日に書かれたもの。ここからが今年3月27日に書かれたものです。
以上の内容で終わっても良かったのだけど、あれからずいぶん時間が経っていることだし、あの当時と状況というか世相がまるっきり変わってしまっているというのもあって、そのぶん書きたいことが一杯溜まっているし、補足も必要な部分もあるかなと思って、大きめの書き足しをしておきます。
えーまずswitch Liteだけど……売れましたな。
こう書くと完全に後出しジャンケン状態だけど、売れたは売れた。
直近のデータだと、例の森が発売した直後ということもあり、現在累計177万8802台も売れている。PS4proの累計148万8台を越えてしまったし、週販だけを見ると標準型switchよりも売れている。
(ファミ通COM 2020年3月16日~2020年3月22日集計データより)
いや正直なところ、私もそんなに売れるものだとは思ってなかった。まあ標準型switchの半分くらいは売れるんじゃないの? くらいに考えていたから、今の現象にはかなり驚いている。最近では標準型switchの2倍近く。トレンドが変わるくらいの売れ方だ。
しかもswitch Liteは北米でも非常にセールスが好調なんだとか。北米では随分前から「もう携帯ゲーム機は売れない」と言われていたのに、その常識の壁をぶち破ったといったところだ。
結局はどんなソフトが出るか。switch Liteの発売はかつての名作『ゼルダの伝説 夢をみる島』と同時発売だったが、それから間もなく『ポケモン』の最新作が出て一気に盛り上がり、さらに現在『どうぶつの森』と続いている。線から線をつないで話題を途切らせないソフト戦略が非常にうまくいっている。WiiU時代に岩田社長が繰り返し言っていた「どんなソフトが出るか」が今になって効果が出てきている。
(かつての大ヒット商品だった)WiiシリーズとDSシリーズの2つを打ち捨てての背水の陣戦略だったが、ここまで成功すると痛快の一言でしかない。WiiもDSもつい数年前まで任天堂のヒット商品だったから、これを捨てて2つの路線を統合したことには意味があった。
据え置き型と携帯ゲーム機と分離していたらユーザーも分割されるし、制作体制も分割されるから、思い切ってこの2つを統合してしまおう、と。その代わりにその以前の流れ(後方互換)を捨ててしまうことになるけども……。この構想も、岩田聡さんが最後に残した戦略なのだろうか。「過去を捨てる」ということは勇気ある選択だけど、ここまで成功すると見事というしかない。一番の老舗任天堂が一番冒険している。
ところで、去年9月7日に上の記事を書いた頃から、いやその以前からその後もずっと噂として囁かれ、期待され続けているswitch pro。
前回の経営説明会で、古川社長から直々に「2020年度中のNintendo Switchの新型の発売はない」と発言があったので、ないんでしょう。
(→ロイター:任天堂、新型スイッチ20年の発売ない=古川社長)
でも今のままのswitchでやっていけるとは到底思えない。宮本茂さんはUSJ『SUPER NINTENDO WORLD』着工式グラウンド・ブレイキング・セレモニーにて……
宮本:2020年にはNintendo Switchがもっと育っているのが理想なのですが、5年以上の寿命を持つハードをこれからも作っていきたいと思ってはいますが、まだまだSwitchの時代だと思うのですが、その頃にたくさんの人がそのゲーム機をパークに持ってきてもらえるのであれば、いろんな連動の可能性があると言うことで、パークの技術陣と任天堂の技術陣がいろいろと相談をしながら進めさせていただいております。
(出典→GameWatch:任天堂宮本氏、「アトラクションとNintendo Switchとの連動は進めています!」)
と語っている。
(そういえばこのスーパーニンテンドーランドは現状どんなっているのだろう? 確かオリンピックのタイミングで開業……という予定だったはずだが?)
ゲーム機の寿命なんてだいたい5年+αくらい。5年を越えるとそろそろ新型機の話がメーカーからユーザーからメディアからどちらからともなく出てくるものだ。ゲーム機は技術の産物だからあっという間に古びるものだし、switchに関して言うとすぐ後ろにスマートフォンが来ている。スマートフォンの性能がどんどん上がっていて、追いつかれるのも時間の問題。5年以上、さらにその後も現在のswitchで闘っていけるとは到底思えない。
とはいえ現状を見ると標準型switchもswitch Liteもどちらも非常に調子よく売れていて、ここでswitch proを出さねばならないような情勢でもない。発売から4年目に入ってまだこの調子が続いているわけだから、5年目もまだ勢いが続いているという予想はできる。この状況下でマイナーチェンジ版であるswitch proを投入しなければならない理由が見当たらない。あるとしたらその向こうにあるswitch2のほうだろう。
switch2があり得るのかどうかはわからないが、私はあるべきだと思っている。というのも任天堂はこれまで、ファミコンに始まり、スーパーファミコン→NINTENDO64→ゲームキューブ→Wii→WiiUそしてswitchと何度もゲーム機を代替わりさせてきている。ここまでのゲーム機を、すっと言えるゲームユーザーはもはや古参しかいないだろう。若いゲームユーザーはすでにマリオが日本生まれ京都生まれであることすら知らない……というところまで来ている。一方のPSシリーズはずっと「PS」で来ているから、その記憶を遡るのはたやすい。むしろゲームユーザーは「PS」の名前の方が親しみを持ち、「PS」のほうをゲームのスタンダートと認識しているんじゃないかと思う。
だからそろそろ任天堂もここいらで腰を据えて、switch2、switch3と同じコンセプトの下で成長させていったらどうか。「コンセプトを変える」のではなく、「コンセプトを育てていく」ほうに軸を変えていったらどうだろうか。
対応ソフトも今switch向けタイトルはものすごい勢いと量で発売されているが、しかし後方互換を持つXbox Series Xのほうがトータル量で多いはずだ。代替わりしちゃってるから、任天堂機は歴史が浅くなってしまうのだ。次でまたコンセプト変更、代替わりして後方互換切り捨てて……とやるよりも、ここはやはりswitch2で繋いでほしい。
もしもswitch2があるとして望むものといったら、もちろん超高速SSDによるローディングゼロ。後方互換ありで、過去作のゲームもローディングゼロにしてほしい。switch proについて、かなり具体的に「このGPUが採用されるんじゃないか」という予想は一杯出ているのだけど、私としてはグラフィックが良くなることよりも、ローディング時間を削ってほしい。ローディングが何よりも嫌い。
またswitch2があるべきと考えるのは、これからPS5とXbox Series Xが登場するわけだが、これまでswitchはPS4ゲームのAAAではないミドルクラスのタイトルとのマルチをもらえていた(といっても、ほとんどのゲームはPS4版のほうが売れているわけだが)。PS5クラスになると、さすがにもうマルチタイトルはないんじゃないか……という不安がある。PS5の発売はswitchのビジネスに影響はない……とこれも古川社長の発言だが、影響がないこともないだろう、というのは私の意見。
あとはswitchのコンセプトをより魅力的にする何か。任天堂はただのスペック的バージョンアップしたゲーム機は出さない。何かしらの+αを込めないと、GOサイン出さない社風だ。
しかしそれで失敗はある。ニンテンドー3DSの立体視や、WiiUのゲームパッドの存在そのもの。64DDは発売することには親機であるNINTENDO64のライフサイクルが終わっていた。
新しいコンセプトがゲーム作りの邪魔にならず、むしろ作り手にとっての良き刺激になり、さらにいえばそれが次時代のスタンダートになるものでなくてはならない。かつてのアナログスティックや振動機能のように。他ハードがパクるほどに、もはや「必要」というものにならなくてはならない。しかしそれこそ「言うは易し」というやつで、そうそう簡単に思いつけるものではない。でも期待はしている。任天堂はこれまでそれをやってきたのだから、次もやってくれるだろう、と信じている。
話題を変えて、ここ最近の話をしよう。
先日、3月20日に『あつまれどうぶつの森』が発売された。ファミ通COMによると、初週売り上げはなんと188万本。わずか3日の記録だ。当分越えることはないだろうと思われていた『ポケットモンスター ソード&シールド』136.4万本を50万本越える数字を叩き出した。
いま世界的に流行しているコロナウイルスの影響下で、最大級にブーストがかかった状態での発売だった。
日本では話題になりにくいが、実は欧米では『DOOM Eternal』がものすごい売り上げを叩き出している(『どうぶつの森』と同じく3月20日発売)。こちらは数字は出していないが、前作『DOOM』の2倍売り上げ、Steamによると初日同時接続プレイヤーが10万人に達していたという。
(出典→AUTOMATON:『DOOM Eternal』初週末の売り上げは前作の2倍。フランチャイズ史上最高のスタートを切る)
コロナウイルスは確実にゲームの販売に勢いを加速させている。
しかし現状だけを見て喜んでいる場合でもない。
任天堂工場は中国にあり、その中国がまさにコロナウイルスの渦中。前回の春節から戻ってこない労働者が結構いるそうだ。データを見ると、3月2日~8日のNintendo Switchの売り上げは4424台。発売してからもっとも低い数字で、初めてPS4よりも低い売り上げとなった。
switch人気に陰り? いやそうではなく、生産が追い付かない状態になっている。『どうぶつの森』が発売した週は在庫を出してきたけれども、ひょっとするとこの先品不足、値段高騰といった現象が起きる可能性も出てきている。現在の大ヒット作『リングフィットアドベンチャー』は今の時点でAmazonで1万6000円という値段が付いている。
(アナリストの中には頭の悪い人も結構いるので、ここだけのデータを見て「switch人気に陰り?」と書く人が出てくるでしょう)
コロナウイルスの影響がどこまで広がり、終息がいつなのかもはや予想の付けづらい状態に入っており、このままいくと後々にも影響を出す可能性もある。「後々」が何なのかというとPS5とXbox Series Xが発売までに台数を揃えられない可能性が出ている。ソニーもマイクロソフトも生産工場を中国に置いている。現行機PS4はライフサイクルの終わり際にいるから大した影響はないが、後のPS5の生産体勢に影響を与える可能性が出てしまっている。
特にPS5はローンチを日米同時に行いたい、とはっきり明言している。日米双方にそこそこの台数を用意するとなると、それなりの数になる。switch発売の時も、大ヒットしすぎたので翌月用意していた分を空輸で出すなど、対応に大忙しだった。
(一方のXbox Series Xは……こっちは日本市場を特に見ていないので、問題なかろう)
コロナウイルスの影響といえば、中国本土がもっとも大きい。
中国でNintendo Switchが発売したが、コロナウイルス拡大、外出禁止令が出て以降、売れ行きが極めて好調なんだとか。中国国内にはコンシューマゲーム機の文化が浅く、かつて色んなゲーム機が出たものの数字振るわず撤退していったが、ここで思わぬブーストがかかってswitchが爆売れ状態に入っているそうだ。こちらも具体的な数字が出てないが、非常に好調なのは事実らしい。
中国版switchは『スーパーマリオU』しか出ていない。……正式には。
そこは中国なんで、非正規ソフトがそこら中にあるので、そこにこだわらなければ問題あるのかどうか。なにしろNintendo Switchが日本で発売した翌日には、中国の量販店で4万円でswitchが売ってたような国だから(何故なのかは知らない)。Nintendo Switchにはリュージョンコードがなく、すでに販売しているソフトの「対応言語」を見るとはじめから中国語対応されているゲームは実はかなりたくさんある(このあたり、中国で販売することを最初から視野に入れてたんだろう)。そんな中国で大流行しているswitchタイトルは、なんと発売していないはずの『リングフィットアドベンチャー』。ニュースサイトで画像を見たけれども、ばっちり中国語だった。
どこからどうやって入手したか知らないが。
コロナウイルスによって様々な“悪影響”がありとあらゆる分野に与えているところだが、一方で恩恵を受けていたり、これを奇貨としているところもある。
もちろん、これも手放しで喜んでいる場合ではない。なにしろコロナウイルスの影響で、そもそものswitch本体の生産体制に影響を与えているわけだから。むしろこのブーストが近いうちに“反動”という形で表れてしまう可能性がある。
(追記 影響、出ましたな。switch本体が高騰。この文章を書いていた3月27日時点では影響なかったわけだが……。最近、情勢の変化が早すぎ)
コロナウィルスがゲーム業界に与えた影響は甚大だ。すでにGDCが中止になり、E3が中止になり、その周辺で開催される予定だったeスポーツ大会、インディーズゲームの祭典などもすべて中止になった。このことによる経済損失はいったい幾らになるのか。9月の東京ゲームショウは開催できるのかどうかもまだわからない。
MicrosoftはGDCとE3の2つのイベントで最新ゲーム機Xbox Series Xを華々しくお披露目をする予定だったはずなのに、そのための舞台が失われた格好だ。そのためにプロモーションをきっと練っていたはずなのに、災難もいいところだ。
私個人的にもE3はモニターの前に貼りついて、その向こうに映っている外国人たちと一緒に大盛り上がりして楽しむイベントだったのに、それが中止になって残念だ。
おっと、いつの間にか次世代ゲーム機PS5とXbox Series Xの話題を出してしまっていたので、このあたりの話もしよう。次世代ゲーム機の話をしましょーね♪ ふふ♡
私としては今回のゲーム機競争は、かなり興味深いものとして見ている。
というのも、PS5とXbox Series X、どちらも発売時期が一緒で、さらにどちらもAMD製の同じCPUが採用されている。これまでもゲーム機といえばだいたい同じくらいの時期に新型機が発表されてきたが、CPUまで一緒、というのは初めて。ゲーム機戦争始まって以来、ユニークな「ルール戦」となっている。
それはゲーム機のCPUやGPUを作れるところがそれくらい淘汰されてきてしまった……ということだが。
(昔はNECとかが作ってたのになぁ……)
技術提供がどちらも一緒のルール戦だから、どんなコンセプト、サービスで相手に対して優位性を取れるか、が注目のポイントになっている。
すでに結構情報を出しているXbox Series Xは、GPUの表示能力12TFLOPS、SSDにゲーム進行を直接保存し、しかも中断したところからスムーズにスタートできる。これが面白いもので、別のゲームを途中で止めて、別のゲームを途中から始められる。デモ映像ではこれが非常にスムーズに動いていた。
また完全な後方互換も嬉しいし、Xbox oen Xで購入したゲームのXbox Series X版にアップデートされたバージョンで遊べるサービスも嬉しい(つまり前方互換)。非常にユーザーフレンドリーなサービスとなっている。
Xbox Series Xで面白いのは本体の形だ。私には空気清浄機にしか見えない直方体ゲーム機。これの何が良いって、デコりやすいこと。ゲーム機はあまりデコレーションすることには向いていないが、Xbox Series Xに限っては「デコってくれ」と言わんばかりのシンプルな形。すでにユーザーが勝手に「マイクラコラボ風」とか画像を作っているが、発売後はあんなふうに創意を凝らしたデコレーションをやる人が一杯出てくるだろう。そういう技術を持っていない人でも、ちょっとステッカーを貼ってみようか、みたいに思うだろう。いっそ、メーカーもタイトルごとに特典として「着せ替えフィルム」みたいなのを出してくれると、ありがたい。その時の気分に合わせて本体の彩りを変えるということができる。
一方、まだ謎が多いPS5。今のところ見どころは超高速SSD。PS4クラスのゲームなら0.2秒でローディングが終わる。細かいところはまだわからないが、3Dサラウンド、switchより進化したハプティクスなど、直接的な視覚体験以上に触覚や聴覚といった周辺へゲーム領域を広げようという工夫が試みられている。
おそらくグラフィックだけを見るとXbox Series Xが優位。しかしローディングが短いのはPS5で、さらに3Dサラウンドといったオプションも多い。私なら、PS5の方を選ぶ。どちらが売れるかというと、PS5のほうだろうし。
まるでお互いに隠し合っているカードを1枚1枚めくりながら、相手の出方を窺っているようにも見える今回のハード戦争。なにしろ提供している技術が一緒だから、その他のもののなにに違いがあるのか、お互いに探り合いながら……という感じなのだろう。
ただ、相手の出方を気にしすぎて、肝心の発売日と値段が未だに発表されないのが引っ掛かるところ。どちらもハイエンドPC相当のマシンを用意してきている。どうあがいても逆ザヤが発生するだろう。逆ザヤをどの程度までの飲み込むのか、まだ決めかねているのだろう。
(Nintendo Switch発表の時はライバルとなるゲーム機もなかったから、サラッと発売日と値段を発表できたのだが……)
そしてどちらも8K対応だ。
スペックを読んでいると、どうやらPS5にしてもXbox Series Xにしてもパフォーマンスを最大に発揮できるのは4Kまでの範囲で、8Kはサブオプションのようだ。「8Kも行けますけども」ってやつだ。
本格的な8K対応に120フレームとレイトレーシングの組み合わせは、PS5proあるいはXbox Series XXを待たねばならないようだ。
でも、とりあえず次世代機は8Kに対応している……という話を聞いて、ピンと来たのは「これは映画の体験を越えるな」ということだった。
「高解像度はゲーム性とは関係ないのではないか?」
うん、正解だ。まったくその通りだ。でも高解像度で受ける恩恵というのはある。
単純なところで、文字フォントが滑らかになり、非常に読みやすくなった(最近は高画質化の弊害で、文字が小さくて読みづらい問題が起きているが)。メニュー画面のアイコンもくっきりしたし、ミニマップも細かく描写されるようになった。8Kまで来ると、こういうタイプの恩恵は、今まで以上にたくさん増えるだろう。
高画質化を一度体験すると、ユーザーの心情にも変化を起こす。ゲームのHD化が始まった頃も、「ゲームにHDは必要か?」と色んな人が言っていたが、実際にHD時代が来てしまうと、「SD画質はショボすぎて戻れない」と誰もが言うようになってしまった。
実際、いまSD画質動画なんかを見ると、画面全体がぼやけて非常に見づらい。かつてはあの画質でも平気だったのが信じられない。それくらいに意識は変化してしまう。
8Kを体験すると、4Kすらも「画面がショボすぎて……」となるのかどうかわからないが、2Kにはもう戻れなくなるだろう。人間、より良いものを見てしまうと、その以前には帰れなくなるのだ。
これは怖いことでもある。4Kや8Kが当たり前。それを下回るものは何もかもショボく見えてしまう。その瞬間、2Kが時代遅れの映像になってしまう。作り手はそれに対応していかなければならない。人間の意識はいったいどこまで変わってしまうんだろうか……という不安がある。
ゲームは映像の進化とともに、映画の体験に近いものになっていった。PS5とXbox Series Xは映画の体験を越えるかもしれない。
といっても、ここでは8Kの画質やフレームレートのみの話だけど……。映画はまだ最大でも4Kだし、フレーム数は相変わらず24コマだ。8Kで撮影された映画は、たぶんまだない……あるかも知れないけど。一方でゲームは8Kで120フレームに突入する。ゲーム映像の方が、人間の視覚にとって自然に見える世界に入っていく。
こうなる以前から、ゲームは映画の体験を越えるかも、と思う瞬間はあった。
例えばゲームの中で怪獣と遭遇する。映画だと怪獣の遭遇はどこか他人事だ。だがゲームだと怪獣の遭遇が当事者として感じられる瞬間がある。まず、怪獣と遭遇したら、プレイヤーである自分が戦って対処せねばならない。
誰かをナイフで刺す……というシチュエーションも、映画で客観的に見るよりも、ゲームで自ら行動として刺す行為をすることとは、感じ方がまるで違う。
映画は舞台の向こう側、観客の目線で観劇をしている立場だが、ゲームは物語の当事者という立場だ。
ゲームの映像はリアルになって映画に近づいていったけれども、どこか奇妙。私は「シュールの谷」と呼んでいるわけだが、この先、「シュールの谷」は少しずつ解消されていくだろう。ルックでいえばやはり映画の方が格好いい。アーティストが決めた最高のカメラアングルで物語が進行していくわけだが、ここだけは当分勝てそうにないだろう。それ以外の部分、パッと見のリアリティであるとか、そこから感じられる臨場感は、“当事者”として体験させてくれるゲームの方が軍配が上がってくるだろう。出てくるキャラクターの問題……ゲームに出てくる写実風のキャラクターはいまいち魅力的ではないが、最近はハリウッド俳優がゲームに出演するようになった。やっぱり実在俳優の存在感は大きい。さらに次世代機ではローディング時間がカットされる。今まではローディングが入るから、「ああゲームだな」「これからムービーが入って、鑑賞するだけのシーンに入るんだな」と思っていたが、次世代機ではこれがなくなる。全てがシームレスに繋がる。
するとどんどん映画とゲームと境界が曖昧になり、曖昧になるところか、そこから受ける体験の方はゲームの方が上、という時代が来る。映画の優位性は、イケメン俳優の芝居と「2時間で終わってくれること」しかなくなってくる。
これからは「ベストセラー小説の映画化!」よりも「ゲーム化!」のほうが注目度が高くなってくるかもしれない。
ゲームの性質について「インタラクティブ」という言い方がある。私はこれは要するに「物語体験」と考えている。
ゲームには色んなものがある。昔ながらのゲームの作り手とゲームプレイヤーの一対一の戦い、ゲームの作り手が仕掛けたコースをプレイヤーがしっかり向き合って解いていく、というゲーム。さらにプレイヤー同士の洗練された技術のぶつけ合う戦い……これはeスポーツという形でいま花開こうとしている。
でも私はeスポーツにはあまり興味がないので、こちらの話は置いておく。
ゲームは結局のところ、「物語体験」をさせるためのものだ。だからそのためにいかに世界観を作り上げ、プレイヤーに何をさせるか、が大事だ。例えば『風のタクト』でスキップトラベルするたびにタクトを振らねばならない。面倒くさいが、タクトを振るという、その世界観・物語にあるべき手順を踏むことで、プレイヤーはその物語の当事者という気分を作ることができる。これがもしも機械的なウインドウを開いて、場所を指示して移動する……というだけのものだったら、どんなに映像を美しく作り込んでもそのゲームの物語世界に没入することができない(そういうゲーム、時々あるんだわ。「物語を語るのが下手」なゲーム)。
駄目なゲームの例は、マウスカーソルを合わせてボタンを押せば、仕掛けが動く……というタイプのゲームだ。こういうゲームにはどうやっても没入はできない。ゲームの世界観は「緻密に作り込んでいること」よりも、そのゲームの中のものに直接触れられるという気持ちを作り出すことの方が大事なのだ。
そしていかにプレイヤー側が物語体験を深めていくか。これに私は「物語教養論」というものを掲げようと考えている。「物語教養論」はちゃんとしたところで、ちゃんと語りたいと考えているのだけども、今回はイントロだけ。
「物語教養論」……要するに、物語を読むためにも「教養」は必要ですよ、ってこと。物語を理解する、語る、解説する、という能力は今の時代に必須な能力になっている。これができる、できないである種の格差が生まれますよ……というもの。いや、すでに格差は生まれている。
例えば私の知人は、「伏線」というものを理解できない。その物語の途中で、予告がありましたよ、フリがありましたよ……と作り手が仕掛けていても、これを理解できない。だから物語の後半で展開が変わっても、なぜそうなるのか理解ができない。その時々の場面が面白いかどうかしかで感想を言うことができない。
ついでに同じ知人は「パロディ」と「パクリ」の区別も付けられない。「パロディ」を見かけると、全部まるごと「パクリだ」と言ってしまう。パロディの元ネタを知らなければ笑えるけど、知っていたら怒り出すのだ。
パロディの系統によっては、怒り押さえられず、そのままクレームを入れようとする始末だ。
まあこの辺りはまだいいほうで、私の父になると「フィクション」と「ノンフィクション」の違いが判らない。映画やテレビドラマはすべて事実に基づく話だと思っている節があり、その物語が「事実ではない」と知ると「なんだ漫画か……」とその時点で興味を失ってしまう。要するに実写→ノンフィクションで、漫画→フィクションという認識らしいのだ。
で、この彼らは馬鹿なのかというと、世間的にはそうじゃない。前者の例については、学校成績だけでいえば、私より上だ。これを読んでいるあなたよりも上かも知れない。ただ致命的にストーリーリテラシーが低いだけだ。
なぜ彼らが馬鹿ではないのかというと、社会的に「ストーリー・リテラシー」という評価基準がないからだ。そんなもん理解できなくても、生きていくのになにも困らないのだ。
(というか、ニートの私の方が誰がどう見ても社会的に「バカ」だと見なされる)
これまでは、ね。
これからはそうではなくなってくる。物語を深く理解すること、語ること、解説すること、はそれなりの重要性を持ってくる。
例えば観光業に就き、地元の歴史や文化について面白く語ってください、という時、物語的な感性なしにこの仕事がうまくこなせるかというと駄目だろう。
もっとわかりやすい事例は、現在のテレビ業界だ。今のテレビが面白くない、と言われる理由は、作り手に物語を語る能力が欠落しているからだ。なにしろプロデューサークラスの人が企画書を書くことができなければ、読むこともできないという。教養がなさすぎる。だから面白い番組が誰も作れない。「ストーリーリテラシー」という評価基準がないから、その感性を持たないバカばかり集めてしまった……といのが今のテレビ業界だ。
(知的階級の高い人でも、社会的地位が高い人でも、ストーリーリテラシーの概念がポンと抜けちゃっている人はそこそこ多い。「物語を読む能力」がこれまでの社会、まったく重要視してこなかったからだ)
でも「物語教養論」の話は慎重に進めなければならない。なぜなら、変に教育の世界で取り上げられると、だいたいおかしなことになるからだ。
アートの世界がすでにそうなっている。アートの世界では、なんだかわからない絵に価値を与えるようになってしまった。なぜああなるかというと、頭のいい人が「知的マウント」を取るための道具にしてしまうからだ。だからアートの世界は完全に意味不明で無価値な世界になってしまった。
頭のいい人は、やたらと無暗に複雑でわかりにくいものを「上級」、シンプルで誰にでもわかりやすいものを「低級」という分け方をしたがる。シンプルでわかりやすい物語の中にもいくらでも名作はある。しかし「知的マウント」世界に入っていくと、そういった作品がまるごと「低級」扱いにしてしまう。
これに影響された一般人は、よく「写実的な絵はつまらない!」と言うが、じゃあ現代アートや抽象画について語れるのか、というとまったく語れない。「写実的な絵はつまらない!」という言葉に奥行きがないのだ。絵を語れない人が無理に絵を語ろうとすると、こういうことになる。という以前に、そういうことは自分が描けるようになってから言え、って話だ。
(私はアートについていろいろ調べたけれども、調べたうえで「あ、これは駄目だ」という認識に至った。これ何か権威化してすごいもののように言われいるけど、ゴミだわ)
でもこういう言い方が一般層に広がるくらい、アートの世界は滅茶苦茶になってしまった。何が価値があるのかわからないような状態になった。どんな教養も「権威化」「官僚化」し始めた途端、訳が分からなくなる。だから「物語教養論」も慎重に話を進めなければ……と考えている。
「物語」とは単に受け身的に受容し、いくらでも快感が与えられるものではない。そういう快感装置としての「物語」が良いわけでもない。
「物語」をきちんと知り、理解するためにも、学ぶべきことは一杯ある。
例えばリドリー・スコット監督の映画『エイリアン:コヴェナント』。私はこの映画を見たとき、どうにも意味が分からなかったが、映画中に描かれている様々なものが実は宗教的隠喩、暗喩で構成されているという解説を聞いて、見方が変わった。『エイリアン』という娯楽映画を見るためにも、西洋宗教がどのような考え方を持っているのか、きちんと知らないと充分に楽しめないわけである。要するに、私も「ストーリーリテラシーはたいして高くなかった」わけだ。
(ハリウッド映画は意外に西洋宗教をモチーフにした作品は多い。ハリウッド映画を楽しむのに必要な教養といえば、宗教だ。宗教観を理解していると、より深く楽しめるようになる)
こんなふうに物語をきちんと読むための勉強も必要だし、物語そのものを何度も見る、何本も見る、このことが教養を深めていくためにも必要なものになる。その対象は、もちろんゲームも同じだ。きちんとゲームを遊びこむ、本数をこなしていく、その過程で、体験を深めていくための知識と経験を身につけていく(ゲームだけでなく、ゲームを深く理解するために映画を見て本をたくさん読むことも大事だ)。このことが大事になってくる。
ここでつい先日、香川県で可決された「ゲーム規制法案」の話を突然出してくるが、この規制法案については、まあ彼らが決めたことだから、他人である私たちがどうこう言うべきではないだろう、と私は考えている。他人の家の決め事に、口を挟むべきじゃない。
しかし香川県民は後年、後悔する可能性がある。これから数年後、数十年後、香川県民の子供たちはストーリーリテラシーが他地域より一段低い状態で社会に出ていくことになる。今のテレビ業界みたいに、企画書が書けなければ、読むことができない……物語を読む・書くことができない若者たちがあそこから増えていくだろう。
いやいや、小説もあるし、漫画もあるし、映画もある。物語が描かれているのはゲームだけではない。が、先にも書いたように、これからはゲームが漫画や映画よりも上の文化として君臨するかもしれない。それを受容する機会が失われる。受容する機会が失われるということは、深化させる機会も失われる。
いろいろ書いたけれども、そうはいっても日本人はストーリーリテラシーは非常に高いほうだと思っている……他の国の状況とか知らないから想像で書くけれども。根拠としては、物語が様々なところに根付いていること。漫画や小説、何かしらのキャラクター……目に映るありとあらゆる場所に「物語」が展開されている。こうした物語漬けで過ごしている日本人のストーリーリテラシーが低いわけがない。
「日本のこれからはコンテンツビジネスだ」、という話はあちこちで聞くが、コンテンツはキャラクター、物語、世界観の3要素で成り立っている。日本人は「世界観」を作るのが下手くそだが、キャラクターと物語作りには本当に長けている。そのなかでゲームが今以上に進化していく、となるとストーリーリテラシーのグレートも一つ上がる可能性もある。それは「個人」ではなく、もはや「社会全体」で、ストーリーを見る教養のレベルが一段上がる。でもその中で、香川県出身者は一段低いまま……ということも今後ありうる。香川県出身者は、今後クリエイティブ関連の仕事には就けないかもしれない。香川県が文化レベルの一段低い県になる……という未来もあるかも知れない。
そうは言っても、他人の家の決め事だ。私が口出しすべきじゃない。そういう可能性があったとしても、彼ら自身で総括すべき問題だ。私は知らん。
長々と書いてきたが、次世代ゲーム機への興味というのは、「ゲーム」という価値観が一段上に上がるんじゃないか……という予感だ。スペックが上がる、という以上に社会全体を俯瞰して、映画よりも一段上へ行くかもしれない。
(そうは言っても、現実的にはゲームはまだ「暴力」に取り憑かれすぎている。何かを破壊すること、攻撃すること、これを物語を進行させるキーになっている。映画と並ぶ文化という地位を獲得するには、「暴力」以外で物語を語る方法を手にする必要があるだろう)
でも世間的にはそんな話をしても、誰も聞いてくれないし、鼻で笑う人の方が多いだろう。なぜなら「映画」というのは「権威」だからだ。人は「社会的権威」が付与されているかどうかで物の価値を決める傾向が強い。映画は巨大なアートだから非常に優れた文化であり、権威だ、という価値付けがなされている。その権威だけで語られているうちは、「ゲームが映画を文化価値として追い抜くかもしれない」なんて言っても誰も聞いちゃくれないだろう。
でも勘のいい人は、「映画よりもゲームの方が凄いことやってるんじゃないか?」と気付くだろう。「ゲームの方が面白い」という快感原則に基づく話ではなく、「表現として凄いことやってるんじゃないか」「映画よりも新しい表現に踏み出そうとしているんじゃないか」みたいに気付く人は出てくるかもしれない。そういう人が、密かに密かに「これからはゲームだ!」とそれを深めていくための勉強を始めていくのじゃろう。
……知らんけど。
(一応念のために補足しておくけど、PS5を買えば、誰もが感性がアップデートされるわけじゃないよ。バカはPS5買っても、PS6を買ってもバカはバカのまま。作られるものがそこまで高度になると、それを読み取るほうにも知識・教養が必要になってくる。もうこの先、ハイクオリティゲームを遊ぶために勉強が必要……という時代が来るかもしれない)
目下の悩みというと……私個人的に貧乏すぎて、PS5が買えないってことかな……。いや、次こそはきちんと買おうかと考えていたんだけど、お金の計算すると無理だということが判明した。残念。
……発売したら欲しいものリストに載せておこう……。
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