ゲームボーイ_イメージ

5月8日 ファミ通の「平成ゲーム特集」を読んだよ、という話。

 ファミ通(No1587)の「平成最後の大特集! ありがとう、平成」を読みました。
 こうやって俯瞰して見ると、いろいろあったんだねぇ……。ファミリーコンピューターの発売が1983年(昭和58年)で、ゲームボーイの発売が1989年(平成元年)。その翌年にスーパーファミコンが発売。ということはゲームボーイの発売から現在に至るまでのゲーム史が平成の中にすっぽりおさまってしまう。そう考えると平成という括りでゲーム史を考えてみることに意義はありそうだ。

 「平成ゲーム史」……最近はいろんなゲーム系サイトでこういったタイトルの記事が一杯掲載されているけど、こういったものは、終わるからこそまとめられるもの。終わるからこそ総括され、俯瞰して見ることで一貫した像のようなものが見えてくる。
 こういったカテゴリは例えば「80年代的」とか「90年代的」といった言葉にまとめられやすくて、その時代の人達は「80年代的なものを作ろう」とかは思っていない。しかし終わる頃になって、「80年代的」という括りが生まれ、その時に80年代的というまとまりの中の1本と見られるようになる。作品と時代というのは結びつくもので、その時代によく使われがちだった言葉や、その時代特有の思想、デザインの傾向、ギャグセンスなど、時代の支配を受けていたことが後々に見えてくるようになる。
 どんな創作物も時代と無関係でいることはできないし、時代感覚を無視した作品はだいたいヒットしない。例えば『ブレードランナー』(1982年)は公開当時まったく受けなかったが、その後10年経って再び名作として光を当てられた。『ブレードランナー』で描かれたセンスが10年早かったからだ。

 ところで、今は「昭和的」といった言葉があって、「昭和的」といえば若い人はなんとなく共有するイメージがあるそうだが、私はピンと来ていない。なぜなら昭和は64年。間に戦争があり、戦争後の混沌と高度経済成長があり、バブルとバブル崩壊までまるっと昭和の中に入っている。「昭和的」と一言で言われても、時代によってまるっきりイメージが違う。文化やファッションも違う。60年は長すぎで、1つのイメージで捉えるには難しすぎる。
 一方、「平成」といえば昭和ほどの長さはない。昭和ほどの激動の変化はない。30年程度の歴史だから俯瞰して見えてくるものもある。

 「昭和的」「昭和生まれ」といって嘲笑っていた平成生まれの人は、これから令和時代の若者に「平成的」といって笑われたり、見下されたりするんでしょうね。それで「昭和的」と言われるほうの気持ちも、やっとわかるというものでしょう。……いや、もうとっくに自分の言ったことも忘れて「今時の若者は」というモードに入ってるのかな、平成生まれは。

  私は平成時代について、ある1つのことを除いて全てクソだった。と、前からブログに書いている。なぜ平成はクソだったのか。それは個人的に何もかも上手くいかなくてクソみたいな経験しかしていなかったということと、時代的に平成の始まりと共にバブルが崩壊し、その後消費税が始まり、いろんなものが衰退し、荒廃した。個人的にも社会全体を見通してもクソしかなかった。
 平成は昭和時代に栄えた色んなものが崩壊した。昭和時代なら一度就職したら終身雇用で退職後も年金付きという厚遇だったが、平成以後はそんなものはない。歴史ある大手企業もいつ倒れるかわからず、どこも生き残りのために必死。企業がバタバタと倒れると、日本経済を支えていた中流階層が崩壊し、貧困と格差が広まり、つられて教育のレベルも治安のレベルも文化のレベルもどんどん悪化。企業ばかりか、個人もたった一瞬の「勝ち組」になりたいばかりに隣人同士でマウント合戦をやりはじめて、人間同士の関係も荒廃した。
(この後に及んで、老人世代は未だに昭和感覚……企業は終身雇用で雇ってくれていると思い込んでいて、社会変化を理解せず若者を見下している。若い世代に起きている問題が自分たちから発していると気付かず、若者自身の自己責任だと思い込んでいる。この思い込みが世代間に溝を生むという状況を作っている)
 「平成」と名付けられた時代であるに関わらず、実態は平成とはほど遠く、衰退、荒廃、頽廃、凋落……平成にあったものに言葉を付けると、だいたいこういったネガティブなワードでしかない。
 そんな最中にも関わらず、政府はなぜかどんどん増税して日本人を追い詰めていく(だから私は増税には断固反対するわけです)。なにやってんだか。

 私がその中の「たった1つの例外」として挙げたのはゲーム。時代は衰退していったのに、なぜかゲームだけはものすごい速度、勢いで成長した。ゲームは平成時代にたくさんの革命、刷新を繰り返し、様々な進化を遂げて今に至っている。

 アニメはどうだったかというと、確かに2000年あたりでデジタル化して、手法もテーマも洗練されてきたが、しかし私の考えでは「アニメは昭和の時からすでに凄かった」だ。アニメはすでにたくさんの名作を抱えていたし、1995年(平成7年)の『エヴァンゲリオン』以後、真にエポックと言える作品は登場しなかった。
 アニメの何が変わったかというと、アニメ自体ではなく、アニメを取り巻く状況のほうが変わった。
 平成初期の頃、アニメと言えばもっとネガティブイメージ。「オタク」といえば「犯罪者」のイメージのほうが強かった。「オタク」といえば「犯罪者」あるいは「犯罪者予備軍」で、アニメやゲームといった作品を好む人はだいたいそういった犯罪者になる傾向があると当時の人は本気で思っていて、“そういう視点”、という“色眼鏡”で作品に対しても接していた。
 なにが原因かというと、ぜんぶマスコミ。マスゴミが悪い。マスコミが少年犯罪が起きると、「少年の自宅からゲームなどが押収され」と、わざわざ「ゲーム」に言及したし、その後のスタジオでは必ず“有識者”と呼ばれるおじさんが「アニメとゲームの影響ですね。間違いありません」と断言する。ここまでがワンセットだった。当時のテレビドラマを見ると、犯罪者が暗い部屋でアニメやゲームを1人こもって熱中するシーンが必ずといっていいほど描かれた(だから私はテレビドラマを全く見なくなったんよ)。当時はテレビの影響力は絶対的だったから、みんなテレビが流すものを信じていた。
(私はテレビの「さあ今からこの人を日本中で叩きましょう」という空気を作ってくるのが大嫌いだった。回りのみんなは、その作為的なメッセージに気付かず、のせられていた。最近になって本当に良くなったのは、それが「おかしい」と多くの人が気付き始めたことだ。マスゴミだけが、何で自分たちが叩かれるのかわかっていない)

  それがいつ頃から変わったのか……変化の時を私は察知していなくて。2006年(平成18年)の『涼宮ハルヒの憂鬱』あたりだったりするんだろうか。おそらく「オタク=犯罪者」イメージを知らない世代達だろう。無邪気で純粋な感覚で「アニメ、面白いじゃん」と、偏見の色眼鏡を持たず、率直な気持ちで作品と接するようになった。アニメが面白い、アニメが凄い、ということに世間の多数派が気付き始めた。……って、私はこのターニングポイントがいつだったのか、知らないんだけどね。『らき☆すた』のほうが切っ掛けになっているのかな?
(で、一方でテレビがつまらない、ということに多数派が気付き始めた。ネット時代に入って、テレビがやらかしていた色々にみんな気付くようになった。マスコミはずっと一部の人たちをラベリングして、日本中を先導して叩かせる、ってことをやってきた。ネットのせいで、それがバレちゃった。だからテレビはネットを憎んでいる。……私は「テレビがおかしい」ってずーっと前から気付いていたけどね)

 結果的にアニメは若者文化の大きな1つとして定着するに至ったけども、でも「日本を代表する文化」という意味をどれだけの人が理解しているのやら。あれだけのクオリティのものを、毎年大量に新作が作られているのは日本だけなんですよ、という意味なんだが。
 やはり日本の文化に深く根づいているものだから、日本をよく知ることができるもの、としても見ることができる。だからこそ日本を代表するものになっている。

 そろそろゲームの話をしよう。
 平成はゲームにとって、様々な変化が生まれた時代だった。しかしこれを語ろうと思うと、様々な軸で見ていかないと難しい。
 まず平成元年にゲームボーイが発売された。ゲームはテレビを間借りして遊ぶもの。当時のゲームと言えばチープだったし、時代の偏見もあったから大人達はテレビを横取りされて不満。子供は大人達の憎悪を背中に浴びながら、ゲームを興じていた(私もよくゲームをやっていて怒鳴られたし、殴られたこともあった)。「ゲームができる家」を探して、友達の家を点々とする子供も結構いた。それがゲームボーイによって初めてテレビを間借りしない、個人のためのゲーム機が登場した。
 思えば任天堂の流れって、ずっとこっちのほうだったんだな……とこうやって俯瞰して気付く。任天堂は個人とゲーム、それから延長して個人と個人を結びつけるものとしてゲームを考えていた(そう考えると、最初が“ファミリー”コンピューターというのも何か繋がっているような気がする)。ゲームボーイで個人のためのモニターが登場し、通信ケーブルで対戦。だいぶ後になるが『ポケットモンスター』でキャラクターのやりとりを始めたり、“繋がること”をずっと強く意識していたように感じられる。

  「携帯ゲーム」を開拓した任天堂だが、どうも据え置きゲーム機を携帯ゲーム機に近付けたかったんじゃないか……という気がしている。ゲームキューブ(2001年・平成13年)の頃、ハンドグリップが付いていて、“持ち運びができる”ことが意識されていた。が、実際にはそのまま友達の家に持ち込むことなんてできるわけがなく(持って行くにはケーブルやアダプターも必要だったから)、せいぜい、ゲームキューブのハンドグリップは鈍器として使用されるくらいのものだった(実際に鈍器として使った人がいるのかどうかは知らない。ただ、ゲームキューブはかなり丈夫なものなので、殺人鬼やゾンビに襲撃されたときの反撃に使える)。

  いまいちだったゲームキューブは短命に終わり、大ヒット商品Wii(2006年・平成18年)では、いかに「お母さんが邪魔もの扱いしないか」を中心に考案された。パッと見、ゲーム機には見えないデザイン。コントローラーもあえてリモコンのような形。“ゲーム機”としての存在を消そうとしていた。これに、当時としては画期的だったモーションコントローラーが登載された。ゲームキューブでは外に持ち出そうと考えていたが(できなかったし)、Wiiで再び“ファミリー”コンピュータに戻ってきた。ゲームはリビングの不和を呼ぶものではなく、繋がるものという意識が現れた。

 WiiUのことはスルーするとして、2017年(平成29年)NintendoSwitchが発売される。私はここで、任天堂が長年考えていた本懐を成し遂げたように思える。ゲームキューブで試みた「据え置き機を持ち出す」ということ。サイズ的にもデザイン的にもリビングの邪魔にならないこと。そして携帯ゲーム機と融合させてしまったこと。ゲームボーイ時代から夢見ていた終着点がNintendoSwitchだった……そんなふうに感じられる。
 平成の始まりにゲームボーイが出て、平成の終わり間際にNintendoSwitch。任天堂の試行錯誤が、平成の30年をかけて完結したように思える。
 だから逆に、NintendoSwitchの次はなにがあるのだろうか? という疑問もある。一旦ゴールに辿り着いた任天堂は次に何をするのか。単にスペック的な天井を上げるだけなのか、それともさらなる社会への融合を試みるのか。NintendoSwitchは終わりなのか、次のスタート地点なのか、興味があるところだ。

 NintendoSwitchについてだが、「任天堂の本懐を成し遂げたゲーム機」と表現したが、パーフェクトなゲーム機だとは思わない。スペックは低いし、ジョイコンはすぐに壊れるし(任天堂製品だとは思えないくらい壊れる)、ネットには繋がりにくい。
 すでにソニー&マイクロソフトが次ハードの準備に入っており、2020年にはゲームの世代は1つ上へ上がる。STADIAを始めとするクラウドゲームも間近に迫っている。いまSwitchは非常に好調だが、1年後、2年後も同じように好調であり続けられるとはとても思えない。PS5が発表されたらその直後、あっという間に古びるんじゃないか、という気がしている。

  一方、ソニー、プレイステーションサイドはどうだっただろう。最初のプレイステーションの発売は1994年(平成6年)6月。
 プレイステーションの目論見は当初から高度なテクノロジーとの融合。最初のプレイステーションの頃から当時最新鋭だったポリゴン技術を次々に見せて圧倒してくる。最初のデモの時、リアルな恐竜が3Dで登場し、自由にカメラを移動させられる映像は忘れられない(私は恐竜に生殖器が付いているかどうか、確かめた。ついてなかった)。あれができるという凄さがプレイステーションだった。
 技術的なものから「すげー」と思わせるもの。任天堂の「枯れた技術の水平思考」とは真っ向から対立する発想によるものだった。

 技術と創作は、切っても切れない関係にある。
 少し昔の話になるが、ミッキーマウスデビュー映画である『蒸気船ウィリー』(1928年)。世界初のサウンドトラック付き映画であった。
 今ではイメージしづらいことかもしれないが、音楽と絵が連動して小気味よく動く映像に、当時の人達は驚いたし夢中になった。当時の人からすれば「初めて見る物」だった。『蒸気船ウィリー』は当時の最先端だったのだ。
 創作は常に最先端を追いかけ続けなければならない。表現においても、技術においても。昔から芸術家の使命は「模倣か、革命か」といった言葉があるが、芸術家でいるためには宿命的に「革命」を選択していかなければならない。自己模倣に陥った瞬間、もはや芸術家ではないと言われる(マンネリ化と言われる)今の世の中である。
 ではどうすれば芸術の革命家で居続けられるのか。その1つの選択が技術だ。誰も見たことのない映像を表現しようと思ったら、積極的にその時代最先端の技術に触れていかなければならない。
 技術だけではなく、最先端の表現方法や、最先端の思想を啓蒙したり……と様々な考え方はある。
 例えば『ゴジラ』(1954年・昭和29年)。「特撮」という表現はすでにあったが、ああいったふうに巨大な怪獣が登場するという発想は当時はなかった。「怪獣映画」というジャンルすらなかった時代。最初の『ゴジラ』公開当時、人々の度肝を抜いた。
 『スターウォーズ』(1977年・昭和52年)もやっぱりすでにある技術から作られたが、宇宙空間に超巨大な宇宙船が次々と登場する映像に、当時の人は唖然とした。
  1990年・平成2年の『ジュラシックパーク』はまさしく最先端の技術によって生まれた映画だ。映画がデジタル時代に入った、記念碑的な名作である。まさに「技術の申し子」と呼ぶべき作品である。『ジュラシック・パーク』は初めてCGの恐竜が登場した映画というだけではなく、「恐竜は爬虫類ではない」といった今では常識になったような知識を当たり前にした。技術だけではなく常識感に対しても1つ革命を生んだ映画である。
 『マトリックス』(1999年・平成11年)のバレットタイムは当時、大量の模倣作を生むほどに強烈な影響力を持っていたが、実は技術自体はすでにCMなどで使われていて、ウォシャウスキー監督はおそらくこの辺りを見て発想したのだと思われる。
 『ターミネータ2』以降の全てのジェームズ・キャメロン映画も忘れてはならない。ジェームズ・キャメロンは常に最新技術とエンタテインメントを一致させて作品を作ってきた。ジェームズ・キャメロン映画はある意味、最新技術を見るための映画だ。ジェームズ・キャメロンの実績がいかにすごいかは、制作した映画のほとんどが「アカデミー視覚効果賞」を受賞していることからもわかる。
 『ジュラシック・パーク』とジェームズ・キャメロン映画を除けば、どちらかといえば「枯れた技術の水平思考」側かも知れないが、その技術で何を表現するのか、どうすれば誰も見たことのない表現に行き着けるのか。作家は常にこのことを考えねばならない。誰も見たことのない映像を作ろうと思ったら、最先端の技術で表現するしかない。だからこそ最先端の技術、最先端の学術研究、最先端の思想を追いかけて見る人の考え方、認識自体を啓蒙しなければならない。そして、芸術家は過去の模倣をしてはならない。

 プレイステーションは一貫して、この技術の側に立って、業界を牽引していたハードである。技術的な“基準”を刷新していったゲーム機だ。
 『メタルギア』シリーズや『ワンダの巨像』、『HEAVY RAIN 心の軋むとき』……どれも高い技術があって初めて表現し得た世界観だ。
 私の個人的な考えだが、もしもプレステがなかったら、ひょっとすると任天堂は未だにSD画質でゲームを作っていたかも知れない。プレステがあったからこそ、ゲーム技術の平均値は上がった。

 PSシリーズ(プレイステーション、プレステと表現が定まらないが、以降PSとする)は技術の申し子だけに「ふるい落とし」も多かった。ハードが新しくなるごとに、それまでゲームを制作していた様々なメーカーが、技術的に、あるいは高額になっていく制作費に「追いつけない」と撤退していった。

  PS2は当時発売されたばかりで高額だったDVD再生機も登載していると話題となり、大ヒットとなった。が、実はソフト販売はその後あまり進まなかった。ソフト展開は鈍足だった。私もPS2はあまりソフトを買わず、専らDVD再生機として利用していた(PS2ソフトは10本も買わなかった)。当時、そういう人が多かった。最終的にPS2は非常に多くのタイトルを抱えるゲーム機となったが、その寿命が続いたのはDVD再生機としての存在感だった。
 2006年・平成18年PS3発売。さらなるふるい落としがあり、多くのメーカーが脱落していった。ファミ通記事にもそこのことに言及されているが、PS3タイトルは1年目で発売タイトル数がPS2時代の3分の1。3年目となると4分の1以下となった。

 多くの日本のゲームメーカーが手を引いて行く一方で、台頭していったのが海外製ゲーム。いわゆる洋ゲーだった。
 なぜここで洋ゲーが勢いを伸ばしていったのか。それは欧米の発想の方向性が「リアルシミュレーター」だからだ。リアルな世界観で、リアルな人物を登場させ、リアルな物語が展開していく。さらに欧米は映画で大きな予算を使って大きなものを作ることに慣れている。ゲーム機のスペックが上がったことで、欧米が得意とするスタイルが可能になった。今までのゲーム機だと、なんとなく不完全・中途半端なイメージがあったが、それはゲーム機のスペックが低かったからだ。PS3時代に入って、欧米が好み、作りたいものが作れるようになった。
 だからハードのグレードが一段階上がることによって、日本勢が一回負ける……ということは初めからわかっていたことだった。日本のソフトメーカーはこの辺りの危機意識をほとんど理解していなかった。理解できていなかったから、追いつくのに何年も苦戦するという現象を作った。

 技術の上端が上がったからこそ、今までに見たことのない表現、驚きが描けるようになる一方で、そこに追いつけないものを容赦なくふるいい落とす。寂しい話だが、いつまでもゲームは子供だけのものではない。PSシリーズによって、ゲームはその以前の「子供のもの・子供だましのもの」ではなく、大人でも驚くような、大人でも夢中になるような、優れたアートメディアであることが証明され、それが1つの常識感にまでなった。PSシリーズは間違いなく、そういったゲームの社会的地位向上に貢献したはずだ。
 これからPS5に突入していくが、やはりさらなるふるい落としがあるだろう。これまでいくつものゲームを制作した老舗が傾いて、撤退するかも知れない。そのぶん、より凄いゲームが生まれ、アートとしての地位は高まるだろう。

 ちょっとだけ、傍流にも触れていこう。最近は低予算、低規模で制作されるインディーズの流れも生まれている。ゲームが高度化、高予算化していくなかで、ふるい落としが出る、という話をしたばかりだが、その一方でミニマムなインディーズという傍流も生まれている。さらにその間を埋めるミドルクラスのゲームも存在している。
 ゲームは確かに高度化していったが、しかし一方で「下りてくる技術」も多くあり、その「下りてくる」ものだけでも充分良質なものを生み出せるくらいになっている。中にはAAAクラスタイトルに負けないくらい注目される作品も生まれている。
(ただし、本数が増えてすぎて市場がアポカリプト化しているが)
 PS5が登場すると、追いつけずふるい落とされる老舗メーカーはきっとあるだろうが、それは「最先端を追い続けることを諦める」だけ。最先端AAAゲーム競争から降りるだけであって、消滅はしないだろう。たぶん。最先端を追うことを諦めても、今ならそこそこの予算規模でもいいゲームが作れるくらいになった。
 なんなら「その時代の最高品質」ではなくても、あえてPS4くらいのスケールに、自らキャップをかける……という手もある。そういうメーカーはきっとあるだろう。
 ゲームの高度化によりゲームの幅は小さくなっていく……そう思われるかも知れないが、実際はその下に様々なクラスのゲームが生まれる、という傾向もある。この傾向と最先端のゲームは、今後同時進行で進んで行くだろうと思われる。

 さてさて。任天堂とソニーの話をして、セガやマイクロソフトの話をスルーしちゃったけど。この辺りの話は、また今度ね。スマートフォンゲームの話もしてねーや。
 ゲームは常に最先端技術を取り入れて、変化していく。任天堂とソニー、対比するとその方向性は正反対。任天堂はいかに遊びの横幅を広げていくか。ソニーは直線的に、技術をいかに高度化していくか。案外、いい組み合わせだと思っている。さっきも書いたけど、ソニーがいなかったら任天堂は未だにSD画質のゲームを作っていたかも知れないわけだし。ソニーが天井を上げていく横で、任天堂は遊びの可能性を広げていく。技術をどのように活かしていくか、任天堂とソニーははっきりと違う方向を向いて、それぞれの信念に基づいて邁進している。それで少しずつ影響を受け合っている。これを見続けるのが面白い。
 と同時に、ゲームと社会の有り様は確実に変わった。任天堂はずっと個人のものであると同時に、リビングの邪魔物扱いされない、友達との関係を邪魔しない、むしろ接ぎ穂となるような、グループを生むことに視点を置いていて、これは成功している。
 一方ソニーは、リビングにどすんと腰を据えているが、その圧倒するような映像で、否応なく「ゲームは凄いもの」と認めさせてしまった。映画と並ぶ価値観を持つものとして、認められるほどになった。
 平成はゲームが超絶的に進化した時代ではあったが、同時に社会とゲームの有り様もはっきりと変わった。ゲーム機と社会感覚、この両方が劇的に変わった。社会の中のポジションも定めていった。それが平成という時代だった。
 平成がどんな時代だったのか。ネガティブに語るなら、不況によって頽廃が進んだ時代。ポジティブに語れることがあるとしたら、たった1つ、ゲームの時代だった、と言えるだろう。


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