雲の向こう_約束の場所20170113191854

Netflix映画 雲の向こう、約束の場所

 新海誠作品2本目。
 えっと……新海誠作品は、この『雲の向こう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』しか見ていないので、私がいま参照にできるのは『秒速5センチメートル』だけ。見終えてから気付いたのだが、『雲の向こう』が新海誠2作目で、『秒速5センチメートル』は3作目。あっちゃー、順番間違えた。
 私が足がかりにできる作品は、『秒速5センチメートル』だけなのだが、続けて見ると驚くほど同じモチーフで作品が作られている。弓道部の設定や、電車、空……。ほぼ同じ画が出てくる。同じモチーフを追い続けている作家なのかも知れない。
 『秒速5センチメートル』との決定的な違いは“境界”の描き方で、『秒速5センチメートル』では主に電車が境界として描かれてきた。が、『雲の向こう、約束の場所』では空へ視点を移している。『秒速5センチメートル』では第2話『桜花抄』で少し空に触れていたが、こちらではただ見上げるだけ。その境界へ向かうことはできず、ただ立ち尽くし、その向こう側にいるはずの“彼女”とはついに再会かなわずだった。
 『雲の向こう、約束の場所』ではSF設定ががっつり導入され、“境界”という心象風景に実像を与えようとしている。そして最終的にはその境界を乗り越えて、彼女と再会する……そういう物語だ。
 なんの予備知識を入れずに『秒速5センチメートル』『雲の向こう、約束の場所』の2作を続けて見たから、「再会かなわず」で終わった物語が「再会かなう」物語と流れているように見えたので、むしろこっちの順序で見たのは正解だったような気がする(間違いだが)。この2作は描かれているモチーフがほぼ同じで、どうにも精神的地続き感が強いように思えた(沢渡佐由理が見ている並行世界の一部が『秒速5センチメートル』だったのかも知れない)。
 ただ、物語に強い力がないのがこの作家の弱いところ。SF設定が導入されたが、そこに物語はない。途中、岡部と富澤の対話がかなり長く入るが、あれは“対話”というより“設定説明”だ。
 境界というモチーフにいかに実像を与えるか、がこの作品の課題だったように見えるが、そこに“物語”だけがすっぽり抜け落ちている。
 物語の実体を説明するためのエピソードがほとんどなく、学生時代の心象風景から、その後への物語へといきなりジャンプし、さらに戦争の物語へともう一度ジャンプする。その周辺の“物語”はほとんどなく、ただただ積載量超過の設定がドスンドスンと導入されて、彼女との再会の物語がクライマックスとして描かれてしまう。交戦相手となっているユニオンの正体は最後まで不明で、ただ“乗り越えるべき境界”に佇んでいる障害物にユニオンという設定を与えただけのものに過ぎない。
 新海誠を比類なき作家に押し上げ、一群の作品を特別なものにしているのは、そうした物語の描き方のほうではなく、情景描写の驚くべき美しさ。1カットも無駄に思える画がなく、どの画も何も言わず鑑賞したくなるほどに美しい。そこに流れる詩的な台詞が見事にマッチしていて、映像そのものが詩としての美しさを持ち始める。
 情景描写には圧倒的な美学が貫かれ、文句なしの画ができあがっているのだが、やはり引っ掛かるのはキャラクター作画との落差。主演3人の演技も良くない。
 どうにも人物描写にはあまり関心があるようには見えず、肝心の沢渡のクローズアップショットも、台詞を言い終わる前にさっと切って、ロングサイズへ、キャラクターからカメラを遠ざけてしまう。
 むしろ「背景で語り尽くしてしまう」のが新海誠作品の真骨頂ではあるのだが、アニメーション作品でこうもキャラクターに関心を持たない作家は珍しい。

2/9

こちらの記事は私のブログからの転載です。元記事はこちら→http://blog.livedoor.jp/toratugumitwitter/archives/51617094.html

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