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9月28日 私たちに「自分の意思」なんてものはほとんど存在しない。

 先日、ふと思いつきで『プラダを着た悪魔』という映画を観た。2006年公開映画で、当時の大ヒット映画だ。映画はアメリカファッション雑誌『ランウェイ』の内実を掘り下げられており、その編集長であるミランダ・プリーストリーの独裁者ぶりが当時話題になっていた。主人公であるアンドレアはファッションに興味はなく、ただ有名雑誌で経験を積み、出世の足がかりにしたいだけだったが、次第にファッション業界に染まっていく……というお話しだ。

 この映画のはじめのほう、ファッションにまったく興味がないアンドレアは、ベルトのほんのささいな色違いだけで難しい顔をして討論している一同を見て失笑してしまう。そんなアンドレアに対し、独裁者ミランダは言う。

ミランダ「こんなのですって? あなたには関係ないことよね。家のクローゼットからその冴えないブルーのセーターを選んだ。“私は着るものなんか気にしない。真面目な人間”……ということね。でもその色はブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。知らないでしょうけど、2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレを。サンローランがミリタリー・ジャケットを発表。セルリアンは8つのコレクションに登場。たちまちブームになり、全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され、あなたがセールで購入した。そのブルーは巨大市場と無数の労働の象徴よ。でもとても皮肉ね。ファッションと無関係と思ったセーターはそもそもここにいる私たちが選んだのよ。“こんなの”の山からね」

 ファッション業界でやっていることなんて、ごく普通の人々には関係ない。……世の中のだいたいの人がこう思っている。でも実際はその業界で一流のデザイナーが提唱したものが、希釈して希釈されきった末に私たちのもとに下りてくる。私たちは知らない間に、一流の人々が選んだものの、“切れ端”を手に取り、「これいいわ」なんて言っていたわけだ。

 要するに私たち一般人は、ごく浅いところで、何も知らないくせにすべて知ったふりをしている……それだけの存在でしかないのだ。

 これは私たちの色んなところに引っ掛かってくる話で、ちょっと前まで、「写実的な絵画」に対し、「写真のような絵は誰にでも描けるんだ」という批判があった。ほんの10年くらいまで誰もがこういう言い方をしていた。写実的な技法の絵が発表されると、コメント欄はだいたいは「写真のような絵は~」というコメントで埋め尽くされた。それこそ、絵画なんて人生でまともに描いたことも学んだこともないような人が、ちょっとイキって使う言葉であった。
 私に言わせると、「そういうのは描けるようになってから言え」だけど。まったく描けない人までこう言うのはどうか、という感覚があった。
 この言い回し、あるいは考え方にどんな弊害があったかというと、第一に「じゃあ良い絵とはどういうものですか?」と尋ねたときに誰も答えられなかったこと。ここで答えられないのは、特に絵画に対する理想もなければ、言葉の意味もよくわかってないで言っていただけだったから。
 もう一つの弊害は、絵学生の問題だが、みんなちゃんと絵画の基礎たるデッサンを学ばなくなってしまった。「芸術家はとにかく変なことをすればいい!」「絵画の基礎なんてものがあったら、基礎に引きずられて独創的な作品は生まれなくなる!」……その結果、素人目にも玄人の目にも何が描かれているのかわからないような作品……いや、ゴミが大量生産されてしまう。
 ある時、公園の水道で風船に水を入れ、それがぴゅーっと噴き出している動画が発表されて、それを「夏の儚さを表現したアートです」って言っているのを見た時、さすがに私はモニターを蹴り飛ばしたくなった。それはアートではなくただのゴミだ。
 でも一時、「アーティストはこういう訳のわからないことをする人のこと」みたいに思われていて、なんとなく反論しづらい雰囲気になっていた。反論すると「わかってない人」という扱いを受けるからだ。アーティストを自称する若い人たちはみんな「頭の中がお花畑」みたいになっていた。
 最近はその反動で絵学生がガチガチにデッサンを学んで、写真そのものを再現することに取り憑かれている。あれもさすがにどうかとは私も思う。「ちょうどいい」はないのだろうか……。

 ではなんで「写真のような絵は誰にでも描ける!」という言い回しが広まったのか。それは遡っていくと20世紀初めのヨーロッパで起きた潮流だった。アカデミズムが権力を失っていき、印象派が生まれようとしていた時代。こういう時代に、多くの日本人がフランスに絵画を学びに行っていた。で、ほとんどの日本人がその当時フランスで流行っていた「新しい絵画」にどっぷり浸かり、「アカデミズム的な絵画はいかん!」「写実的な絵を描きたければ写真を撮ればいい!」とか言い始めていた。
 で、ユトリロやセザンヌが素晴らしいんだ……みたいな話になったけど……。
 でも冷静な目でよくよくユトリロやセザンヌの絵を見ると、あんまり上手くない。今で言うヘタウマというやつだ(最近まで「ユトリロはただの下手な絵」とは言ってはいけない雰囲気だった)。ああいうものに影響を受けちゃったから、「むしろ下手に描くのがいいんだ!」という感じが広まって、それが「権威化」してしまって、だんだん訳がわからなくなっていく。

 「写真のような絵は誰にでも描けるんだ」というのは、そういう時代の流れの切れ端を切り取った言葉でしかなかった。言っている人たちのほとんどはそういう流れがあったことも、どういう内実があったかも知らずに言っていた。要するに「格好いいから」そう言っていただけの話だった。私からしてみれば、「中身のない言葉」の代表例みたいなものだった。

 私が昔から「独創性に欠けるなぁ」と思っている対象がヤンキー。
 不良達のメインテーマは今も昔も変わらず「体勢からの反抗」だ。体勢が押しつける価値観にいかに反抗し、“自分らしさ”を表現できるか……。ということになっているのだけど、その結果として不良達が選択したファッションというものがどれもこれもありきたり。ハンコで押したようにみんな同じ格好をする。不良達の一群を見ると、全員同じ人間に見える(だいたいの不良漫画はみんな一緒、同じ顔の人が同じことをしている……ように見えていた)。「体勢からの反抗」をしたつもりが、別の体勢に吸収されていってしまっている。
 どうして不良達が無個性的なテンプレートにはまっていくのか……というと彼らに教養がないからだ。表現力もない。教養もないから自らテンプレートにはまっていっていることに気付いていない。独自の表現力を持っていないから新しいスタイルの提唱もできない。結局はバカは所詮バカだった……というだけの話だ。
 それで不良達がどんな末路を辿るのか……というとヤンキー界隈のなかで共有されている「集合無意識ヤンキー像」を目指してどんぐりの背較べをし始めてしまう。いかに集合無意識ヤンキー像に近付けるか……という闘争になっていく。それは「新しい体勢」を作ってしまっているが、ヤンキー達はみんなバカなのでその実態に気付かない。「大人達が押しつける体制への反抗」が、自ら作り出した「体勢」に飲み込まれていく。
 しかし、そうやってバカのてっぺんを目指している間は充実感を感じているようなので、わざわざ横から口出しするようなことではない。関わりたくもないし。

 昔から言われる話で、「子供はみんな独創性に溢れるアーティストだ!」ってな話。これも大嘘。子供の話をきちんと聞いていると、だいたいみんなありふれた話しかしない。世の中の上辺で言われていることをただなぞってマネしているだけ……そういう子供がほとんど。そこに独創性なんて欠片もない。
 ごくまれに独創性のある発言や行動をする子供もいるけど、それは単にその子のセンスがいいだけの話。「子供はみんな」ではない。独創性ある子供は100人の中の1人くらいで、それは大人社会の中で独創性のある人間が100人の中の1人くらいしかいない……というのと同じ
 独創性のある人は子供時代から独創性を持っている……それだけの話だった。

 私たちが普段から何気なく考えたり、言ったりしていることの大半は、こういうものばかりだ。その言葉がどこからやって来たのかもわからない。どういう内実があるかもわからない。ただ単に、そう言ったら格好いいから……というだけで使っている。
 今はSNSで色んな人が常にいろんなことを主張したり表現したりしているけど、独創的だったり賢明だと思えるものはほぼゼロだ。みんな誰かが言ったこと、考えたことをコピーしているだけ。
 ある程度の知識があると、「ああ、これはあの人が言ってたことだな」「この人の思想はあちらの界隈から拾ってきたものだな」……というのがわかる。みんな元ネタがあって、それを別の場所でコピーしているだけ。自分が生み出した言葉で表現している人は本当にぜんぜんいない。
 時々、誰かからの受け売りでしかない言葉でお説教をしてくる人間に出くわすことがある。そういう人に対しいつも思うのは、「この人は自分が考えた言葉で話すことができないのかなぁ」だ。
 着ているもの、使っているものも同じで、「これを身につけていたら自分らしい」……とか思って買っているのだけど、それは誰かが作ったものを選んでいるだけ。あなたの個性は市場が決めているに過ぎない。市場にあるからその個性が生まれているだけであって、あなた自身でその個性を生み出したものではない。
 しかもそれは一流のデザイナーたちが作ったものを、ひたすら薄めて引き延ばしてスライスして、大量に安く生産されたものに過ぎない。私たちはそういう断片に過ぎないものを手に入れて、「これオシャレでしょ」「こういうのは私らしいわ」なんて言っているだけ。

 でも大多数の一般人というものは、そんなものだ。自分で何かを考えることはできない。自分で何かを生み出すことはできない。大多数の人々とは今そこにある社会を守るために存在する。そういう人たち全員が“独創的に”なにか始めたり言い始めたりしたら、それこそ世の中は混乱する。一般人は一般人のままでいいわけだ。

 じゃあ「おみゃーはどうなんだ」……とみんな聞きたいでしょう。こういう文章を書いているお前は自分でそう言うほど独創的かつ賢明なものごとを考えられるのか?
 そんなわけはない。私も誰かが言ったり、考えたりしていることのコピーしかできない。私自身で生み出したもの、というものはほとんどない。
 というか、いかなる天才であれ、完璧に独創的なもの……なんてものはない。だいたいがその時代に生み出されたものを足がかりにして作られている。“土台”がないなかで創造的なものが生まれるなんてことはない。

 そういう理屈を知っているから、私は常にいろんな本、いろんな映画を観ている。そこから新しい何かを吸収できるんじゃないか……という視点で見ている。とにかく、「出せる引き出し」を一杯増やさないと、何も新しいものは生み出せない。それがわかっているから、いつも勉強し続けている。
 そうやって色んな知識を吸収し、その過程でふと「あれはこういうことじゃないか……」と思いつきにいきなり巡り合う。その時に、やっと私自身で導き出した「オリジナリティ」が出てくる。
 ただし、そういうのも色んな文献を探っているとだいたい他の誰かがすでに検証済みだったということに行き着く。新しいレールを敷けるかも……と思ってもだいたいすでに誰かがレールを敷いた後だった……というのがいつものパターンだ。独創性を巡る挑戦なんて、いつもそんな感じだ。

 これも最近は言われなくなったことだけど、昔は「勉強してはいけない! 勉強すればするほど知識という鋳型にはめ込まれて、独創的な発想ができなくなる!」……と言われていた。
 絵画の勉強なんかもしてはいけない、とよく言われていた。「絵画の勉強なんかしてしまったら、鋳型に嵌められてオリジナリティのある絵は描けなくなる」……と。私もこれは実際に言われたことがある。「絵の学校なんか行ったら、個性的な絵は描けなくなるぞ」と。
 これこそ大嘘の言説で、知識や教養のない人はただひたすらに誰かが言ったりやったりしたことをコピーするだけだった。絵画も、絵の教養のない人の描いた絵って不思議なくらい昔、同人誌で流行っていたような絵になる。なんとなく頭の片隅で“知っているもの”をコピーするだけに留まってしまい、しかもそれは一昔前の流行だったりするし、そこに技術が伴ってないから碌なものではない。勉強しない人ほど、ありきたりなものを作って満足する……というのが現実だ。
 すでに話したけど「子供は社会常識といったものがないから、独創性あるものを創造する」ってのも嘘。だいたいの子供は世の中にあるものをオウムのようにコピーするだけ。自分で考えてなにかを判断して決めて、発言する……それができる子供なんてそうそういない。それができる子供、というのは大人になっても独創的な物事を考えられるけど、そういう子は100人に一人くらいなもん。
 新しいものを生み出したいのならば、むしろしっかり勉強し、勉強したことを足がかりに「その前の時代になかったもの」を生み出さなければならない。そういう基礎固めなしに新しいものが生み出せるわけがない。もしできたとしたら、それは単なる偶然の産物だ。「才能」や「知識」の話ではなく、「運」の話だ。そういう創作物はヒットしたとしても偉大なものとは言えない。

 私たちに「自由意志」なんてものはほとんどない。私たちが言ったりしていること、振る舞いもだいたい世の中の誰かがすでに範を示したもの。そういうものを「自分で考えたつもり」「自分で選んだつもり」になっている。私たちの上には超一流の人達がいて、そういう人たちが猛烈に勉強し、努力し、世に発表したものを、薄く希釈してスライスしたものを手にしているだけに過ぎない。しかもほとんどの人々は、それは誰が考え出したものか、生み出したものか知らない。私たちがしているのは、そういうものに対し、小さな「価値」を与えているだけ。
 もしも「誰かのコピーではなく、真に独創的でありたい」と思ったら、ひたすらに勉強すること。努力すること。一流の人々に認められること。そうやってやっと独創的な個人は生まれる。
 そして、その後ろに薄くスライスされたコピー人間が大量に生み出されていく……。


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