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12月22日 海外ドラマを観ながら、文化の差を考えてみた

 Netflixドラマの『ウィッチャー シーズン2』を見終えた。
 あー、シリラ王女役の子が大きくなってる。あの年代の子は成長が早いから仕方ないか。
 でもあの子って年いくつなんだろう?
 シリラ役のフレイヤ・アーランは……2001年生まれで、現在20歳だった! 『ウィッチャー』第1期の頃は18歳!
 えー! 絶対13~14歳くらいだと思ったのに……。あの顔と体格はどう見てもそれくらいの年齢だぞ。えー、本当に18歳以上? 今回の『ウィッチャー』を見てても、ドラマの前半と後半、オッパイの大きさも変わってたように思えたのだけど……。あー気のせいか。

シリア役フレイヤ・アーラン。この顔と体格で18歳?? 13歳くらいだとずっと思ってた……。

 見た目が幼い人は、欧米にもいるってことか……。日本人は幼年成体の性質があるから、まあまあいるけども。
(欧米って「児童ポルノ」に対する規制が強いから、「子供っぽい顔の大人」はエロコンテンツに出られない……って聞いたけどアレは本当かな?)

 メイキングを見ても、やっぱり15歳くらいに見える……。

 お話のほうは……よくわからなかった。1年前に見た第1期の内容をあまり覚えてなくてね。イェネファーってなんで魔力使えなくなったんだっけ? 前回の最後、砦の戦いがあった記憶はあるけど、どういう経緯だったか、どういう結末だったかも覚えてない。
 『ウィッチャー』シーズン1の問題は、3人の主人公ゲラルト/シリラ/イェネファーが登場するわけだが、実はそれぞれのストーリーの時間軸が違う。作中は、あたかも「3つの事件が同時に展開している」かのように演出されているけれど、実はそれぞれ違う……という変な作り方をしていた。
 いやいや、これはネタバレ要素じゃない。「実は時間軸が違う」ということが何かしらの叙述トリックとかそういうものじゃない。むしろ逆で、「実は時間軸が違う」ということを事前に頭に入れて見たほうがいい。ドラマシリーズを見終えた後、Netflixによる「解説動画」の存在に気付いて見たのだけど、そちらのほうで全部説明されている。ただ、ドラマ中で「実は時間軸が違う」ということが説明されていない。だから混乱の元になった。
 私も見ている時、「前のエピソードで死んだはずのキャラが当たり前のように登場している」ということに結構混乱した。エピソードごとに話が前後しているのだけど、その説明もしてくれないんだよね。本当にわかりづらかった……。
 だから、わざわざ「解説動画」のようなものを作ったんだろうけど。

 そういうわけで、『ウィッチャー』シーズン1は無闇にお話の順序を混乱させて、わかりづらい話として作っていたから、「現在」の時間軸で起きている事件や状況がどうにも頭に入ってこなくて……。
 第1期では迫害を受けて流浪の民と化していたエルフが、第2期ではニルフガードと共闘しているのだけど、なんでそうなったのかもよくわからず……。
 第1期シリーズはお話の順序が特殊……ということを頭に入れてもう一回第1期シリーズを見れば理解できると思うのだけど、さすがにその時間もなくて……。
 そうそう、第2期のあるエピソードで、「第1期シリーズは吟遊詩人ヤスキエルが語った物語」ということになっていて、「時間軸が混乱してわかりづらい」というツッコミが入っていた。作り手側もわかりづらいという自覚はあったのね。

 で、第2期シリーズ『ウィッチャー』は時間軸の混乱はなく、一つの事件を追いかけていく構成になっている。第1期シリーズは全体が「設定説明」のような内容で、第2期シリーズでいよいよ本格的なドラマへと入っていく。
 前提となる設定が頭に入ってないから、すべてを理解して見ることはできなかったのだけど、第2期に入ってからのドラマやバトルは見事なクオリティで、これだけでも見る価値は充分にある。それだけに第1期のあの内容が残念だ。

 第1期シリーズでよくわからなかった設定といえば「天体の合」。第2期シリーズに入って改めて「天体の合」について解説された。
 『ウィッチャー』の世界観はかつてはごく普通の中世騎士道物語の世界だったが、ある時「天体の合」という現象が起き、異世界の住人であるエルフやドワーフや怪物といった魑魅魍魎たちが一つの世界に集まるようになり、混沌とした世界が生まれてしまった……。
 要するに、「異世界転生もの」ならぬ「異世界来ちゃった」という世界観だった。これを中世ヨーロッパの文明観を背景に描いた作品……それが『ウィッチャー』だった。

 ここで日本人が構想する「異世界もの」との差異が見て取れる。日本人がイメージする「なんとなく西洋風」世界観は、実際の「西洋」とはかけ離れたものだ。よく「ナーロッパ」みたいな言われ方もするけれど。その世界観がどこから来ているか……というとアニメやゲーム。
 日本人が想像する異世界ものには大抵、「勇者」と「魔王」が対として設定付けされて登場するけれど、そもそも「勇者」って何? 「勇者」はJRPGの世界から出現したもので、「勇者」なる職業なんぞ存在しない。なんとなく「集合無意識」的概念で「勇者」なる職業や役職が「魔王バスター」として存在するように思われているけど、あんなものはどこの世界観においてもない。ゲームの世界からやってきたものだ。

 どうして日本人がそんな発想法でファンタジーを作るのかというと、私たちの文化観の中で「ファンタジー」的なものを掘り下げようとすると、どうしてもイメージをアニメやゲームから引っ張ってこなければならなくなる。「サンプリング」の引用元がゲームとアニメしかない。
 一方の『ウィッチャー』みたいな作品を見ると、自分の文化観をベースにしている。そこで「深さの差」が出てしまう。『ウィッチャー』という純然たるファンタジー作品を見ても、やはりどこかしらに自身の歴史観が現れてきてしまう。風景の描き方や衣装の作り込み……。ロケーションというと、『ウィッチャー』にはいろんなロングショットが登場するけれど、あんな風景は日本人の「なんちゃってヨーロッパ」妄想の中では出てこない。
 『ウィッチャー』はロケーションが見事で、ほんの数シーンのために山に登って、風景の奥の奥まで見えるような「映える絶景」を背景に撮影をしている。あんな自然の風景を背負って世界観を見せてくれると、本当のことのように感じられてしまう。日本人の考えるファンタジーは「キャラクター」で異世界を表現しようとする。こういうところでも文化観の差を意識してしまう。

 小道具の作り込みも凄かったなぁ……。あるシーンで小刀をクローズアップで見せていたのだけど、本当に工芸品にしか見えなかった。小道具の作りに自信があったから、あれだけのクローズアップで見せたのだろうけど。お城の、王様のベッドには天使のレリーフが彫られていたけれど、1回しか使用されないドラマのセットで、よくもあそこまで作り込むよね……。
 ファンタジーを作ろう……と考えると、どうしても西洋風にならざるを得ない。なぜなら、ファンタジーは西洋から輸入してきたものだから。ファンタジーを描こうとすると、石造りのお城やドレスを着たお姫様とか、カタカナの名前のキャラクターを登場させてしまう。

 それじゃ、日本人には本当にファンタジーっぽいものは描けないのか? というとそんなことはない。日本にも中世はある。戦国時代や江戸時代といった芳醇な歴史観がある。その歴史の厚みを意識しながら異世界を構想する……という考え方もあるはずだけど、その発想でファンタジーを描く人がなかなか現れない。そういう作品は過去に一杯あるけど、良い作品はなかなか出てこない。『天外魔境』のような名作がかつてあったのだけど、あの名作の存在を知っている人は今は少ない。『もののけ姫』や『犬夜叉』もあったね。日本を舞台にしたファンタジーで良いものは結構ある。
 そもそも、日本人はそういう世界観で異世界を見せる……ということをあまりやらない。キャラクターが主、世界観が従の発想だから、それは仕方ない。
 逆に、もしも欧米の人が日本風のファンタジーを構想したらどうなるか……こういうパターンの作品もあるけれど、ものすごく安っぽく薄っぺらくなる。とりあえずテンプレート的な和風楽器使ったりね。欧米の人から見て、安っぽく見えることを、日本人はよくやりがち……ってこと。これは注意したい。

 ところで、先日の『カウボーイビバップ』と較べると、何が違うって「画作り」の差。『ウィッチャー』はどのシーンもロケーションが見事なんだ。こんな風景よく見付けてきたな……という大自然を背景に、ちゃんと絵画に見えるように構成している。
 『カウボーイビバップ』の良くなかったところは、絵力。
 作品のスケール感、というか「予算」感はだいたい同じくらいだと思うんだ。そこを「絵」にできるかどうか……で。『カウボーイビバップ』は背景やセットの作り込みはさておくとして、構図が絵になってなかった。
 『ウィッチャー』だって、全てのシーンが素晴らしいわけじゃない。モンスターとの戦いがなんとなくショボかったり、いかにもCGだなってところはある。でもその前後の絵をしっかり組み立てていたから、引っ掛かるカットがいくつかあっても、スルーできる。CGと合成した画がどうしてもショボくなることは織り込み済みだから、その前後でしっかり画を見せて、ショボいシーンが入っても見ている側に同じくらいのレベルだと思わせるような工夫がなされている。『ウィッチャー』だって無限に予算があって、ひたすらあらゆるものを作り込んだ上であの世界観を作ったわけではない。予算の限界を見据えつつ、いかにすればいい絵に見えるか……をきちんと考えた上で作られている。

 予算が無限にあったらいい画が撮れる。
 これは当たり前。でも現実ではよほどの超大作くらいにならないと、それだけの予算は下りない。あとはいかにして「それっぽく見せるように撮るか……」それを工夫すること。
 例えば『ジュラシックパーク』の第1作目は予算と準備期間が足りず、撮影日までにセットが完成させられなかった。そこで発想の転換――まだ「ジュラシックパーク」開演前で施設を作っている最中なのだ……という設定にして、セット建設のための足場を残したまんま撮影した。むしろセットを完成させるより、そっちのほうが雰囲気が出た。
 大抵の映画はこういう様々な発想の転換を繰り返して、「いい感じの画」を作ったりするものだ。映画監督はそうやって、いつでもどうやったら「いい画」を撮れるか考えねばならぬのだ。
 『ウィッチャー』だって大予算が出ている映画だけど、「超大作映画」ほどの予算は出ていない。あとはいかにしていい絵を撮る勘があるか。そこで『カウボーイビバップ』との差が出ちゃってる。『カウボーイビバップ』はどのカットを見ても、画が安っぽかったからなぁ……。

 『ウィッチャー』シーズン3のシナリオはもう完成している……とのこと。早く続きが見たいものだ。


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