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Netflix映画 ラブリーボーン

 ピーター・ジャクソン監督が『ラブリーボーン』の映画化権を取得したのは2004年。『ロード・オブ・ザ・リング』大ヒットの後のことだった。
 普通、『ロード・オブ・ザ・リング』のような大ヒット作が出ると、監督のもとには企画が次々と舞い込むものだ。なにしろ『ロード・オブ・ザ・リング』は制作費340億円という途方もない予算だったのに関わらず、第1作目で予算分を回収。あとの2作はボーナスステージだった。
 しかし2005年、ニューラインシネマに『ロード・オブ・ザ・リング』の興業収入不正計上発覚。監督料不払い問題が起きる。この問題が長く尾を引くこととなる。
 2005年に『キングコング』公開。『HALO』実写版は制作中止。スピルバーグ監督との共作『タンタンの冒険』は資金難でなかなか進行せず。『ホビット』の企画に入るも、ニューラインシネマとの対立は続いたままで、進行せず。『HALO』中断で繰り上がりとなったプロデュース作『第9地区』が進行。
 2007年ようやく『ラブリーボーン』の撮影に入るも、初日から父親役ライアン・ゴズリングとの対立が起き、その後マーク・ウォールバーグに変更となる。
 2009年、やっとこさ『ラブリーボーン』が完成し、全米公開。
 ……と色んなトラブルを経てようやく完成した『ラブリーボーン』だが、その後もピーター・ジャクソン監督を巡るトラブルは続き、思うように企画が進行しない、映画がなかなか制作されない事態がつきまとうことになる。

 前置きはここまでにして、本題へ。
 映画の舞台は1973年。モールのシーンで『指輪物語』のポスターなんかが貼ってあったが、そういう年代なのだろうか?(わざわざ字幕でフォローされている) 年代的なものはちょっとわからないが、人々のファッションが微妙に古くてダサい。映画の冒頭は赤や黄色といった暖色系が中心で、全体的に明るくノスタルジックな画になっている。
 主演のスージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)はかなり可愛らしい。ちょっと面長のような気がするが、かなりエルフ顔。映画前半は顔の輪郭線に照明が入っているのだろうか。肌と髪の色が美しい。
 温かみのある画面が20分を過ぎた辺りで青味が入ってくる。青い服を着ているスージー。少し冷たさを感じる絵だ。スージーがトウモロコシ畑を通り抜けようとする。そこに隣人であるジョージが現れる。この辺りから映画の空気が変わっていく。
 ピーター・ジャクソン監督は美と醜の極端な描き分けをする監督だ。その両者がバランスよく描かれたのが『ロード・オブ・ザ・リング』だ。しかしやろうと思ったらどぎついホラーやスプラッターも制作する監督だ。
 『ラブリーボーン』は惨劇が起きるが、表現としてはかなりソフトに。決定的瞬間は描かれない。しかしホラー的な恐さを感じさせるシーンはきっちり描かれる。
 殺人鬼に襲われ、逃げ出すスージー。逃げ切ったと思って街へ行くが、そこには人の気配はない……すでに死んでいるのだ。

 ここからは色彩が落ち着き、娘の死に嘆く家族の姿が描かれていく。死体は発見されないが、遺留品だけが見付かる。落胆する母親と、犯人捜しに躍起になる父親。
 その一方で、あの世へ逝くスージー。天国へ行かず、あの世とこの世の端境に置かれた世界に留まる。「三途の川」みたいな場所なのかな?
 娘の死に落胆する家族と、天国の手前に留まり、美しい光景の只中で過ごすスージー。奇妙な対比が描かれていく。
 あの世の光景が美しい。『ロード・オブ・ザ・リング』的なファンタジー感ある描写に、様々なイメージが重ねられ、イメージがめくるめく変化していく。そんな世界の中に留まるスージーの立ち姿が様になっている。あのエルフ顔はこのイメージを前提にしたんだな、という気がする。
 端境の世界は時々、こちら側世界に干渉する。スージーの遺留品が水中に投げ込まれたとき、あの世のスージーも水の中に沈む。おそらくは遺留品に魂のようなものが残されていて、影響を受けてイメージが作られているのだろう。父親がボトルを割るシーンも、スージーの世界で干渉を受ける。あの世界観は、あくまでもスージーの世界なのだ。

 ただこの映画、ミステリとしてみるとかなり拍子抜けというか、がっかりするところがある。物語作りとしてはバランスが悪い。
 映画の主軸は飽くまでも娘を失った家族の再生物語と、それをあの世から見守る娘のお話。娘の死を切っ掛けに対立が始まり、一度バラバラになりかけるものの、もとの絆を取り戻し、最終的には死を乗り越えていく物語。その過程を見守り、スージーは天国へと去って行く……。
 この辺りの描写はまあいいとして、問題なのはミステリパート。まず事件が解決されない。事件の真相を知っているスージーが、あの世から家族にメッセージを送るのだが、これがあまり合理的ではない。ジャックとリンジーが犯人に気付くも、その過程が納得いかない。
 死者と交流ができるルースは事件解決に向けて何かしら関わってくるかと思ったら、そちらの方では何も干渉しない。途中、映画から完全に姿を消し、その間にちゃっかりレイ(スージーの初恋の相手)を奪ってしまっている。ルースの役割といえばそれだけ。あまり意義あるキャラクターといえず、物語全体を見るとバランスが悪く見える。
 映画の最後の最後で、ルースの体に憑依し、レイとキスするシーンがあるが、いや、ちょっと待て! 窓の外でもっと重大な事件が起きてるぞ! お前の体が捨てられようとしているぞ!
 結局そっちの件はスルーしてしまったために、事件は完全に迷宮化。犯人を追い詰めたのにも関わらず、逃亡されてしまう。
 事件解決しないまま中途半端に投げられた状態で、それとはまったく別の話として再生していく家族。それ自体はいいとして、エンターテインメント作品としてスッキリしない。事件解決を経て家族再生の物語……なら腑に落ちるのだが。そもそも解決しない物語なら、途中のミステリ仕立てはむしろ余計。やらないほうが良かった。
 例の犯人はその後どうなったかというと……結末はあまりにもあんまりだったので……。それはないよ……。

 後半は「今はそれどころじゃないのでは?」という微妙におかしなシーンが多い。これだと何を見せたい映画なのかよくわからない。おばあちゃんもいてもいなくても、どーでもよかった。中盤はただただ感傷的なシーンばかりが続いて話がモタモタしすぎるし。ピーター・ジャクソン監督はずいぶん奇妙な映画を作ってしまったなぁ……。

6月5日

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