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2019年8月18日 実は算数ができない話

この記事は2019年8月18日に書かれたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 こういう話は、今更な感じもするが、実は私、5足す5以上の足し算ができない。2桁を越える引き算もやっぱりできない。
 といっても、そこそこ人生経験があるから、「6+7=13」「7+8=15」であることは“知って”いる。知っているから、問題として出されてもすぐに答えられる。掛け算の九九と同じで、この形を覚えているんだね。
 が、“納得”はしていない。腑に落ちていない。「本当にそうか?」と疑ってしまう。それで、5足す5以上の足し算になると5の部分を取り……例えば8なら3、9なら4にして足し算をし、その後5を戻す、という作業をする。そこまでしないと「8+9=17」に納得ができない。

 という話をすると、まず出てくるのは「努力問題だ」という意見だ。充分な努力をしていないから、数学の理解が遅れているのだ、と。
 いやいや。皆が思っている以上に私は数学に時間を費やしている。まず、私は暗算検定にも合格しているわけだし……一番下のやつだけど。
 5足す5以上の足し算ができないのに、暗算検定合格できるのか? と疑問に思われると思うが、問題なくできる。すでに書いた通り、「7+8=15」という形は覚えているわけだから、あとはそれを高速化し、積み上げていけばいい。それだけの話だ。

 その一方で、国語は学年トップにいた。実際、テストで学年1位になったことがある。
(といっても、学年1位は一回だけ。以降は2~4位をウロウロしていた)
 漢字テストはだいたい高得点だし、抜き打ち難問テストでも上位高得点リスト入りしたこともある。

 という話をすると、やっぱり「それは努力問題だ」という意見だ。「どうせ国語の勉強をたくさんしたけども、算数を疎かにしていたんだろう」と。
 いやいや。私は国語の勉強なんてほとんどしたことがない(テスト前予習ゼロでも、成績上位だったし)。数学の勉強にどれだけ時間を割いてきたと思っているんだ。でも数学はどれだけがんばっても、まったく身につかなかった。
 それで私は、これはどんなに頑張っても身につかないスキルだと諦めることにした。

 私はこんな風に、極端すぎる極端な文系タイプだからよく知っているのだが、国語の成績がどんなに良くても、親に褒められることはまずないし、友人たちから尊敬されることもない。
 たぶん、国語は感性の問題であるから、「知性とは別」と解釈されていたからじゃないかな。あるいは将来、就職するときには何の役にも立たないから。
(もしかしたら……今にして思うのだが、クラスの人たちから「ズルしている」と思われていたかもしれない。私が高得点獲得リストに載っていた時も「なんであいつが?」みたいな空気だったような気がする)
 実際、社会には国語的な感性が大事。国語的な読み取る能力が大事なのだが、これが軽視されている。これが、この国が抱えている一つの問題ではないか――という話は別の機会に用意しているので、その時にガッツリ語ろう。

 それで、私みたいに極端なほど算数ができない。国語に長けているのは「努力問題」ではなく、「素質問題」だ。
 でもこういう話はなかなかできないし、すべきじゃない。不用意にブログになんか書くと、炎上する可能性が高い。なぜなら現代の認識では、知性は完全に「素質、才能」のほうではなく、「努力」の産物と考えられているからだ。「絵画」と「音楽」に関しては大抵の人は「素質」と「才能」と認めるが、それ以外のあらゆるものは「努力」で確実に獲得できるはずだ……と多くの人が考えている。だから努力さえすれば、実りが出るはず。「素質」であると決めてしまうと、努力そのものを否定することにも繋がる。
 日本人の民族的なメンタルとして、「才能」よりも「努力」を称賛する傾向があるし、この努力の過程を「物語」化して賛美したがる傾向が強い。
「努力することは素晴らしい!」
 と、ちょっと宗教にも似たような考えを持っている。この努力に対する信仰が、「才能」などというよくわからない要素に打ち負かされるのを心底嫌悪する。

 「絵画」と「音楽」について、どうして学校教育の絵画・音楽で才能が開花する人が少ないのか。なぜむしろ学校教育ではさっぱりな成績の人が、後に世に出て成功したりするのか。国語や算数のように、絵画と音楽に限って学校教育の中で素地が見えない理由はなんなのか?
 理由はシンプルだ。学校教育の絵画・音楽のシステムに欠陥があるからだ。学校教育は子供の感性を引き出すことに、何一つ貢献していない。
 私はこれを証明することができる。なんならほとんど絵が描けない人を、数日でそこそこの絵を描けるくらいにまで引き上げることができる。すでに私自身がサンプルだ。才能がないから決定的に伸びなかったが、私くらいの絵描きに引き上げることはできる。ただし、プロにはなれないが。
 この辺りも別の機会にがっつり語るとしよう。

 はっきり言ったほうがいい。
 これは「才能と素質」だ。「才能と素質」という素地に勝てるものはないんだ、と。

「才能なんてものはない。全ては努力だ」
 という話はよく聞くけど、これって欺瞞だなって思う。こう言っている人は、たまたま挑戦してみたものに対して優れた素質を持っていただけの話だ。どうせまったく手が出なかったものに対しては、都合よく記憶から消しているんでしょう。運が良かったね……というだけの話。

 私は一時、頑張って絵を描いていたけれども、あれでもそこそこ努力したつもりだった。が、最後まであの程度だった。三流はどんなにがんばっても三流。いや、私の場合は三流以下。才能ある人間には、どんなに頑張っても手が届かないものだ。

 なんでこんな話をしたかというと、『もっと言ってはいけない』を読んでいるときに思ったから。やっぱり生まれついての素地ってあるよな……って。読んで妙にホッとした気持ちになった。
 だって私はあれだけ数学の勉強したのに、結局「7+8=15」という答えにすら納得することができなかったんだもの。あれを「努力問題」にされると本当にキツい。
 絵にしてもやっぱり駄目だったしね。才能なかった。
 得意なもの、苦手なもの、好きなもの、嫌いなもの。こういうものは生まれついてのものとしてあるんだ……と言われた方がだいぶ楽。

 むしろそういうものを徹底的に把握して、その得意なもの、好きなものを「能力」に変えて、いかに社会にジョイントできるか。そういう考え方を持った方がいいんじゃないか。
 まあ、それも「できればいいね」「できたら幸運だね」くらいの話だけど。
 これを読んでいる大抵の人も、私も、それができなかったらこうしているんだもんね。

(そういえば任天堂の社長だった岩田聡さんは、社員のマッチングにものすごい力を入れていたとか。あの能力の人はどこに入れれば最大の力を発揮できるか……。これがものすごくうまく行ってたとか。有能な社長が上に就くと、社員は幸福だ)

 私は「平均的な能力」と呼べるものを持っておらず、「平均以上」と「平均以下」の差が極端なタイプの人間だ。
 でも生きていくには「平均以上」の能力を活かすことはなく、これでお金を得ることもできず、「平均以下」の能力の方でなんとかやっていくしかない。
 「平均以上」の能力の方に目を向けても、それでお金を得られるほどのポテンシャルもなく。なんでこんなに中途半端な生まれ方をしたのやら。

 日本人の思考のクセとして、「全ては努力」である――努力さえすれば、どんな人間も変わることができる! どんな人間も平等である! 素質なんてないし、あってはならない! 禁句だ! 努力せよ!!
 この考え方がどれだけ人を追い込むか……。
 私は「適正」があると考えている。その分野が得意な人に、その仕事をまるごとお任せしたほうがいい。得意なものがあればそれを伸ばせばいい。そのために社会を作るんだもの。この世界にたった一人しかおらず、自分一人で生きるならすべてのスキルにポイントを振り分けなければならないかも知れないけど、現実はそうじゃないから、できないことは他の人に丸投げしてしまったほうがいい。
 ところが日本人は得意なものがあってもそれを称賛しない。否定して、なぜか遠ざけようとする。私なんか極端な文系人間だが、「意味がない」とさんざん言われてきたもの。
 日本には「適材適所」といった言葉があったはずだが、なんでこの言葉がこうも軽んじられてきたのだろう。
 一人一人が得意としていることは引き出さない。社会の中で活かそうとしない。
 努力さえすればいくらでも変わることができるから、素質には意味がない。この考えのほうが一人一人の力を抑え込んで、社会全体がパワーを発揮できない原因を作っているような気がする。

 ところで、残った問題としては、私は極端な国語得意。算数苦手という素質を持っているが、私の家族はその逆。みんな算数得意。国語苦手の方だ。
 さて、私のこの資質は誰から継承したのだろう?


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