4月3日 【雑談】パロディが作られるのは愛されている証拠
またしてもラジオで聞いた話。
「あの映画のパロディは一杯見ていて、パロディを見ていたときは「しょーもなッ」って思っていたけど、元ネタ映画を観るとすげー良かった」
っていう話をラジオでしていた。
あーあるよね。パロディのほうを先に見ていて、元ネタ作品のほうをぜんぜん知らない……ってこと。
そもそもの話、私たちはパロディとして再生産されている作品の元ネタ作品ってどれくらいちゃんと見ているんだろう? 最近では『アルプスの少女ハイジ』のパロディCMがたくさん作られたけれど、元になっているアニメ作品を見たことがある……という人はどれくらいいるだろう。実は案外知らない……っていう人は一杯いるんじゃないだろうか。ここからさらにヨハンナ・シュピリによる原作小説を読んだ……という人はどれくらいいるだろう。
私もそういえば初代『ガンダム』ってパロディが先だったような気がする。「こいつ、動くぞ!」「親父にもぶたれたことないのに!」……パロディで再生産されまくったけど、元がどういった作品のどういうシチュエーションだったか知らない人も多かろう。
『巨人の星』くらい古い作品になると、もはやパロディでしか知らない。星一徹のちゃぶ台返しって実は本編中1回しかやっていないらしい……パロディであんまりにも繰り返し見るものだから、しょっちゅうやっているものだと思い込んでいるけど、実は1回だけ。『ガンダム』の「アムロ、行きます!」の台詞も実は本編中1回だけ。『ご注文はうさぎですか』の「心がぴょんぴょんするんじゃ~」に至ってはそもそも作品の中に存在しない。ファンがネット上で使っていたスラングが広まったもの。
パロディでよく見かけるけど、実は元ネタを知らない……そういう作品って一杯ありそうだ。
あまりにもパロディで作られてそっちの印象が強くなってしまうと、実は本編中1回だけ、しかも別にものすごい名シーンでもなんでもないのになにか特別なシーンという扱いになってしまう。『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえによる「訳がわからないよ」も別に名シーンでもなんでもない、普通の台詞。でもパロディで再生産されまくったせいで、なんとなく名台詞のような扱いになってしまった。
(少女の同性愛を賛美する時の「きましたわ~」も、『ストロベリー・パニック』という作品の中の何でもない台詞。今ではそこから派生して「キマシタワー」みたいな言い方すらあるけど、元ネタを知っている人はどれだけいるだろうか? ちなみに私は元ネタ作品を見ていない)
現代のようにありとあらゆるメディアが発達した時代に、パロディより元ネタ作品のほうを先に触れられる……という事例はどれだけあるのだろうか。
アニメや映画といった映像作品がある種の二次創作的なものだとすると、元ネタとなっている原作を読んだ……という人はどれくらいいるだろう。実は原作は映像化作品とまったくの別モノ……ということはよくある話。
『攻殻機動隊』と映画になった『GHOST IN THE SHELL』シリーズはキャラクターを除いてほぼ別作品。原作と映像化作品がまったく違う……ということを知っている人はどれだけいるだろう。
テレビアニメとして放送された『母をたずねて三千里』は1年にわたる長編ものだった。しかし原作は短い。ペーパーバックにしてたったの46ページだ。
ディズニー映画はたくさんの童話を元ネタにしているけど、ほとんどの原作は数ページの作品。昔の児童文学が映像化されると、全くの別モノになる。でも多くの人にとって、映像化されたものが「原作」という扱いになってしまう。
パロディの弊害は、パロディとして作られたもののほうが元ネタ作品よりも印象が強くなってしまうこと。
とあるアイドルは、ある歌唱曲をコンサートで披露するとファン達が失笑するようになった……という。物真似芸人がその曲のパロディをやって、しかもそれが流行ったせいだ。以降、コンサートで披露しても盛り上がるのではなく失笑……。それでその曲を封印しなくてはならなくなったという。
これがパロディの弊害。本当はなんでもない一場面だったのに、なんでもない音楽だったのに、パロディが有名になりすぎると、元ネタ作品を見るとそれが「笑える場面」のように誤解してしまう。そのシーンが来ると反射的に「笑う」という反応をしてしまう。元ネタの作品がものすごく素敵なシーンだったとしても、感動的な一場面だったとしても、パロディのほうが有名になってしまうと「笑う」という反応をしてしまう。それは作り手にとっていい気分ではない。なぜならパロディのせいで、オリジナルが持っていた「伝えたいニュアンス」が伝わらなくなってしまうからだ。
(例えば加藤茶のストリップ劇場をパロディにした「ちょっとだけよ」というネタは非常に有名だ。あれのせいで本職ストリッパーの人が、「客が笑うようになった」と怒ったそうな……)
そういえば……ふと思い出すのだけど、私が子供の頃、テレビで芸人がやっている「物真似」のほとんどは元ネタを知らなかった。パロディのほうが先だった。元ネタを知らず、「なんだかヘンなもの」……と思って笑っていた覚えがある。
ギャグ漫画で描かれていた当時のタレントさんをネタにした作品も、子供だった頃はよくわからなかった。
パロディのネタにされるもの……というのはその時代に瞬発的に流行ったものではなく、1世代くらい古くなったもの……という場合が多い。その作品が隆盛を誇って、その輝きに陰りが出た頃……そういうタイミングでパロディにされやすい。
実はパロディにされやすいタイミング……というものがある。確かに元ネタ作品が大ヒットしている最中にパロディが作られることもある。それ以上にパロディが作られやすいのは、時代の認識が変わる瞬間。
その一つ前の世代によく使われがちだった表現。時代が変わって振り返って見ると「あれはおかしいよね」という感じでパロディのネタにされやすい。ジャンルそのものがネタにされてしまう場合だ。
でも実はそういう過去作品の表現も、その時代では革新だったもの……が多い。『マトリックス』のブレッドタイムだって当時は驚きの表現だった。革新だったものがパロディとして扱えるようになったのは、つまりその技術が安く使えるようになった……という証。それだけ表現のグレードが上がってきた証拠でもある。
その表現を子供が触れるのはパロディの中。子供にとってそれらの表現は、「ギャグ表現」として認識されてしまう。
そんななかで「奇妙なパロディ」も存在する。
少女漫画で主人公の女の子が食パンを加えながら「遅刻遅刻~!」と走っていく場面。「少女漫画で描かれがちな導入部のパロディ」……として知られるこの場面だが、実は元ネタとなっている作品が存在しない。
(これには色んな説があって、元ネタはこれじゃないか……と作品を挙げる人もいる)
これはどういうことかというと、少年漫画のほうで「少女漫画ってこういう感じでしょ。知らんけど」と表現されたものの方が広まって……ということのようらしい。するとそれを逆輸入してそのパロディをシーンとして採り入れた作品も登場するようになった。(そういえば私も結構少女漫画を読んでいるのだけど、これに該当する場面を見たことがない)
元ネタが存在しないパロディもある。
(一時テレビで流行った、えなりかずきの物真似「だから言ったじゃないか」も元ネタは存在しない。これは、これをネタにした芸人が、「そういう場面があったような気がする」という脳内メージで演じたもの。後で「そういえば元ネタはどのシーンだったかな」と確認しようとしたけど見つからず、そこでやっと「そんなシーンの元ネタがない」ことに気付いたという)
テレビの世界では「オタク」という存在を揶揄したパロディは山ほど作られたけど、ああいったものも大半は実在しない。「オタクってこういう感じなんでしょ。知らんけど」という感じだった。「お前らは一日中オンラインゲームをやっていて、アイドルの握手券目当てに大量のCD買い込んでるんでしょ」って。それは私たちとは別の人種だ。みんな実在しないものを揶揄して、陥れて笑っていた。あれは見るたびに、「テレビの界隈にいる人って下劣だな」とか思っていた。それを笑っている人も。
こういったパロディにも弊害があって、その相手をパロディを評価基準にして見るようになる。少女漫画をちゃんと読んだことのない人たちは、「少女漫画はどの作品も食パンくわえながら「遅刻遅刻~!」ってやっている」と思い込むし、オタクを知らない人はみんなテレビで揶揄されて表現されたものを見て「オタクはああいうものだ」と思い込む。
こういった話、突き詰めると人種差別を作り出した偏見にも繋がりそうだ。こういうパロディは控えたいところだ。
その一方で、パロディが作られつづけるのは、その作品が愛されている証拠でもある。
パロディが作られる作品、二次創作される作品、パクられる作品……どの場合も元ネタへのリスペクトがある。普通の作家の感覚で、元ネタへの愛情がなければパロディも作ろうとは思わない。パロディが大量に作られるのは有名であることの証拠。
作品発表から20年や30年も経っているのにそのキャラをネタにしたエロパロディが作られ続けているのは、そのキャラクターがそれだけの強さを持っていることでもある。長年愛されている証。オリジナルが作られなくなっても、その後も何度もパロディが作られたり、作品が引用され続けたりする。そういう作品が真に“強い”といえる作品だ。
中には元ネタ作品のことをぜんぜん知らなくて、「流行っているネタだから」……でやっている人もいるだろうけど(「キマシタワー」とかよく書く人も、元ネタを知っている人は少ないだろう)。でも知らない人すらパロディをやるのは、それくらい元ネタ作品が有名だから。
パロディが作られているうちは、その作品が人々の心の中でまだ「生きている」という証でもある。元ネタを知っている人がまだそれだけいるから、笑ってもらえる。パロディが作られなくなった時が、その作品が本当の意味で「死ぬ」とき。忘れられる瞬間である。
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