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2022年冬期アニメ感想 明日ちゃんのセーラー服【原作版】

 実は「アニメ化」の情報が出た時から放送日を心待ちにし、珍しく原作本を買い(残念ながら貧乏なため、3巻までしか買えなかった)、しっかり熟読した上でアニメ視聴に臨んだ作品だった。
 なぜ私がこの作品に心惹かれたのか――それは主人公の女の子がセーラー服を着ていたから。ただ単にセーラー服を着ていた……というだけではなく、セーラー服の描写が正確だったから。最初はネットで絵を1枚発見した、というところから始まったのだが、ザッと勢いのある線を走らせたような絵なのに、セーラー服特有の皺の流れが正確に活写されている。
 なんだこれは……。
 こんなふうに驚く理由は、漫画に描かれるセーラー服描写のほとんどが間違っているから。描写が正確なのに、その正確さをあえて崩すかのような動きのある線。妙にアンバランスだけど、魅力を感じる。
 私が1枚の絵に感じたのは――「同類」の匂い。……作者である博からすれば迷惑極まりない片想いに過ぎないが。しかし私は作品に同類の匂いを感じ、実際の原作を読み、アニメを見て、予感が的中したのを確信した。

 今回の感想文はアニメ作品『明日ちゃんのセーラー服』の論評ではあるのだけど、その前段階として原作版の話をしよう。原作版がどんな内容で、アニメ版とどのような差異があるのか。そうしたところから、話を深めていこう。

 『明日ちゃんのセーラー服』という漫画作品には他の漫画にはあまり見られない特色がいくつかある。作者が明らかにそうしようと意図して構築した部分と、作者が意図しないうちに結果としてそうなり、それが作品の「持ち味」になっていった部分だ。後者の「持ち味」の部分の大部分はアニメ版には反映されていない。
 よくある「女子校生美少女アニメ」でありながら、そのフォーマットを維持しつつ、実は相当に尖った作品だ。ありきたりに見えて、ありきたりではない。ただし、その尖った部分はふとすると見過ごされやすい。ではその尖った部分をどのように見ればいいのか、そういうところを含めて、原作本『明日ちゃんのセーラー服』を掘り下げていこう。

 『明日ちゃんのセーラー服』という作品を語る上で欠かせないのが、制服を着た女の子の存在感だ。よくある漫画、アニメと比較しても、特別な存在感がある。まるでこの女の子が実在するかのような……。
 それはなぜなのか?
 答えは至って簡単。身体描写、制服の描写が正確だから。詳しく見ていこう。

 まずはセーラー服のディテールから。上から細かく見ていこう。

 セーラー襟のラインが3本線描かれている。実は漫画では珍しい。アニメ作品では省略されることが多い。
 なぜ省略されるのかというと、案外面倒くさいから。私はイラストでセーラー襟は3本ラインで描くが、これが「面倒くさいなぁ」と思いながら描いている。
 こういった面倒な作業は、「キャラクターをたくさん描く」必要のある漫画・アニメでは後々の作業を考慮して、キャラクターデザインの段階で省略されやすい。

 アニメ『氷菓』ではラインは2本。線の合計は4本。これがアニメで描ける上で妥協できるラインだったのだろう。
 さすがに3本ラインを描くと面倒くさい。3本ラインを描いた場合、線の本数は6本ということになり、線画の段階だと目が滑ってしまってだんだん何本描いているのかわからなくなってしまう。
(余談。コスプレをやる時、わざわざアニメのディテールに合わせてラインの本数を減らしたセーラー服を作る人が多い。しかしあれはアニメの制作上の都合による省略であって、実際人物が着るものとしては変に情報量が減ってしまうので、3本ラインでやったほうがいい)

 アニメ版『明日ちゃんのセーラー服』ではシーンによる、作画担当によるのだが、セーラー襟のラインは「線」で表現される場合が多い。線で表現される場合は、線の数は3本。これもアニメで妥協できるラインだ。

 クローズアップされる重要なシーンではちゃんと6本の線で表現されている。

 アニメ『響けユーフォニアム』での前当て。
 アニメでありがちな間違いは、前当ての上端にゆるやかなカーブが付いていたり、波打っていたりする表現。前当ては胸部分に当たっているものなので、本来あのような形になることはない。おそらくは前当ての部分に質感を出そうとしているのだろう。

 『明日ちゃんのセーラー服』の原作を見ると、前当てに変なカーブは付いていない。前当てがしっかり胸(鎖骨)に密着しているように描かれている。これも正しい描写。

 セーラー襟の裏側は「白」。この辺りも、作画が面倒になるので、省略されがちなところ。

 比較画像として私の絵も掲載しよう。
 セーラー服作画でありがちな間違いは、肩の縫い目をTシャツのように描くこと。これが非常に多い。セーラー服の縫い目の位置は、正しくはブレザーと同じ位置。肩を上げると、ブレザーと同じようなシルエットが現れる。

 細かなディテールの差だが、一般的にはセーラー襟下のパーツはボタンで閉じるようになっている。私の描いた絵のほうがよく見られる形だ。
 『明日ちゃんのセーラー服』ではこのパーツがファスナーになっている。このあたり、作者のこだわりの部分だ。

 一見すると『明日ちゃんのセーラー服』で描かれるセーラー服はスタンダードな感じに見えるが、よくよく見ると胸から下へ向けて「ダーツ」が入っている(パネルラインとも言う)。この一本の線が作者のこだわりだ。

 私もセーラー服にダーツを入れた絵を描いたことがある。キャラクターは『カードキャプターさくら』の大道寺知世。なぜ制服にダーツを入れたのかというと、実際のコスプレ衣装にも入っていたから。
 ダーツを入れると、どんな効果あるのか? セーラー服は服飾の性質上、胸から下は真下に降りるようにデザインされている。胸の大きな人が着用するとシルエットが大きく見えるし、お腹との間に隙間ができる。
 そこでダーツを入れると、胸から下がキュッと絞られ、ラインがエレガントに見える。『明日ちゃんのセーラー服』の原作本を見るとそこを踏まえて描写されており、ちゃんと胸から下がキュッと絞るようなラインで描かれている。

 市販されているセーラー服のディテールを再現するだけでは満足できない、オリジナルをそこに入れたいというこだわり。だからといってアニメにありがちな「現実であり得ないようなコスプレ感」は出したくなり。現実にあるかもしれないという雰囲気を出しつつ、ウソを描いている。服飾の知識を持った上でオリジナリティを打ち出している。
 ただし、あまりにも「細かすぎるオリジナリティ」だから、見ている人には気付かれないかもしれない。
 アニメ版にもダーツは描かれているが、しかしシルエット感が間違えている。これはなぜなのだろうか?

 このように見ると、『明日ちゃんのセーラー服』のセーラー服描写がその筋のマニア(つまり私)が見ても納得の描写であることがわかるだろう。
 それにしてもなぜ漫画・アニメに出てくるセーラー服はどこかおかしいのだろうか。しかも「似通った間違い描写」がどの漫画でも見られる。セーラーブラウスをTシャツのように表現したり、セーラー服を前から開けたりできるようにしたりと(こういうのは実際にあるけれど、やはりAVの影響だろうな……)、漫画・アニメに出てくるセーラー服はことごとく間違えている。ブレザーや他の服飾はそこまでおかしな描写はないのに、セーラー服だけがなぜかおかしい。なぜなのか?
 私が考える理由は3つ。1つ目はみんな「実際のセーラー服」を見ずに、「漫画で描かれたセーラー服」を参考に描いているからだ。実際のセーラー服がどんなものか確かめずに、過去に描かれた漫画絵を再現している。だからおかしくなっているし、おかしくなっていることに気付かない。「漫画が好き」だからこそ起きた間違いだ。
 ではその間違ったセーラー服の起源はどの作品なのだろうか……これはわからない。だがこうもどの漫画もどのアニメも同じような間違い描写するということは、それなりに長い歴史を持って、間違いの再生産を続けてきたのだろう。
 もう2つ目の理由は、現実でセーラー服を見る機会がないから。後で詳しく取り上げるが、セーラー服のシェア率は1割以下だ。中学・高校を通じて「本物のセーラー服」を現実で見たことがない……という人が多数だろう。私もセーラー服の学校には通わなかったし、周囲でもほぼ見なかった(だから私も実際のセーラー服を手に入れるまで、脳内にあったセーラー服のイメージがぜんぜん違っていたことに気付かなかった)。セーラー服がもはや「漫画世界の産物」になっている。「漫画で見た記憶」のものでしかないから、「漫画で見た」ものを再生産するしかなくなってしまう。
 セーラー服はもはやレアポケモンよりもレアな産物。ある種ファンタジーの産物。だから絵で表現しようとしたら「幻想」の再生産になってしまうのは仕方ないのだろう。

 3つ目の理由は、アニメーターはアニメの絵を「テンプレート」として考えている。「キャラクターはこう描くものだ……」というパターンの集積で描く悪癖がある。
 よくある問題は、スカートに股間の影を描く問題。アニメ絵を描く時、股間位置に影を描くことが約束事になっている。どのアニメキャラクターでもそのように描かれているので、それが当たり前であるように多くの人が思っている。
 ところが、実際にはあんな影出てこないんだ。脚を前に出している時なら影はできるが、普通の立ちポーズ状態で影は発生しない。それで、そういうアニメ界の「約束事」を知らないコミュニティの人が突然アニメ絵を見ると「スカートの上に股間が描かれているいる!」とビックリされてしまう。
(『明日ちゃんのセーラー服』原作では、スカートに変な影が描かれているカットは1枚もない)
 でも、そういう絵の描き方をするのが「約束事」「テンプレート」だから描いている。実際の観察で得たものよりもテンプレートで絵を描くことの方が大事だから、おかしいことに気付かない。
(「乳袋」表現もそうだよね。あんなの現実にない。でもああいうふうに描くことがマンガ・アニメの業界で「当たり前」になってしまっている)
 セーラー服も漫画・アニメの歴史の中で集積されたテンプレートで描かれているけれど、そのテンプレートが実は間違っている。実際のセーラー服を観察したものではなく、多くの人が「セーラー服ってこういう感じでしょ?」という「テンプレート」に従って描いている。
 というこれも、結局のところ「理由2」で描いた、「現実世界でセーラー服を見たことがないから」という理由にも繋がってくる話だ。

 ではなぜ『明日ちゃんのセーラー服』ではセーラー服のディテールがここまで正確に描かれるのだろうか。巻末を見ると「セーラー服・制作協力」とある。ああ、なるほど、モデルを立てて、写真を撮影して、それから絵に描き起こしているわけだ。
 この手法ならセーラー服描写が正確である理由がわかる。だがここに、『明日ちゃんのセーラー服』の漫画としての強味と弱みが同時に現れている。

 まずやはり写真をベースに描いているから、人物描写が正確。もちろん写真をそのまま引き写しているだけではなく、デフォルメも多く取り入れられている。人物の顔は大きいし、ウエストはやたらと細いし、ヒップラインはグンと張り出し、非常にセクシーだ。それに、足も長い。写真をトレースしたのではなく、漫画的なプロポーションに変換しながら描いている。
 そうやって絵を作っているから存在感が出ている一方で、漫画的な飛躍がなく、全体に地味なイメージがつきまとっている(セーラー服のオリジナリティにしても、細かすぎて気付かない人が多いだろう)。また作者の作画技量との噛み合わせもうまくいっておらず、そこで奇妙な印象になっている。

 ではどこが「奇妙」なのか。
 まず「漫画技法」から作品を読み解いていこう。

 『明日ちゃんのセーラー服』ではよくある描写だが、コマ割りを排除して、人物の描写のみに集中する場面がよくある。上の場面だと、長い髪をまとめ上げ、ポニーテイルにする一連の仕草が描かれる。
 その動作を捉えたい……その想いが前面化しすぎて、物語作品としては展開が緩慢になっている。

 こちらは第1巻、セーラー服を着る瞬間。腋下のファスナーを上げる動作だけで2コマも消費している。

 アニメでも印象的なメガネの裏側から息を吹きかけるこの動作……。なんと1ページ全体使って描写されている!(その前後の動作を含めると、3ページ!)

 その時々の仕草・動作を表現したい……その意識が前面化しすぎて、漫画作品としては展開が緩慢になっている。例えば、第1巻の給食のエピソードだが、なんとご飯を食べながら会話するだけのお話で2話も消費している。そこ、そんなに描く場面か? 『週刊少年ジャンプ』だったらとっくに打ち切り候補だ。
 それでも「描きたい」という欲求を抑えられず、その気持ちを素直に吐き出すような描き方をしている。こんな作品を商業誌で見ること自体が奇跡的(やっていることが同人誌的)。確かに漫画として緩慢だけど、気持ちが全力で噴き出しているからそこに得体の知れない魅力が現れている。私は「緩慢だ」と繰り返し書いたが、しかし「つまらない」わけではないのだ。むしろずっと追いかけていきたい……そういう魅力に溢れている。だからこそ「特異な作品」だといえる。

 という話はちょっと横に置いておくとして、こうした漫画技法をどのように捉えるべきか。
 スコット・マクラウド著『マンガ学』では、漫画のコマ割りを6つの型に分類している。
「瞬間→瞬間」
「動作→動作」
「主体→主体」
「場面→場面」
「局面→局面」
「関係なし型」
 スコット・マクラウドは「日本の漫画の特徴」として「劇的な瞬間」をリズミカルにコマの中に描くと解説しており、「主体→主体」「局面→局面」のコマ描写が多いとしている。
 一方アメコミは「動作→動作」が多いとする。アメコミが「動作→動作」を重視するのは、バイオレンスシーンを見せ場とするために強調しようとした結果ではないか……と推測する。
(ただし、このお話には後日談があり、後に学生が最新の日本の漫画、アメコミを買って細かく比較したところ、アメコミも「主体→主体」「局面→局面」の作品が多くなっていたという。「コマ割り」の作法という面に置いても、アメコミは日本の漫画に大きな影響を受けて変化していた。アメコミの「日本の漫画の影響」といえば、「目の大きなキャラクターが増えた」という印象で語られやすいが、実は技法・作法というところから見ても確実に影響しているといえる)

 『明日ちゃんのセーラー服』という作品を改めて見ると、「所作」の描写を重要視するあまり、「動作→動作」型コマ割りが非常に多い。その瞬間を描写したい……その異様なこだわりがコマ割りにも現れている。
 すると漫画として物語として劇的な展開に欠ける。さっきも書いたが、こんな漫画は『週刊少年ジャンプ』だと1ヶ月で打ち切り候補だ。しかし繰り返すが「面白くない」わけではない。むしろなんともいえない居心地さがあって、ずっと追いかけていきたいという気分になる。
 物語作品としてはっきり弱いが、少女達のなんともいえない空気感、絵から匂いを感じてしまいそうになる。その仕草の描写、動作の連続こそが、作品の核となっている。
 もしかすると『明日ちゃんのセーラー服』の漫画を見て、「なんだ漫画の物語はこんなんでもいいのか」と思う人もいるだろう。だが同じように作品を描いて、同じように成立するわけがない。度を超した「濃度」が出ているからこそ、この作品は魅力的に映るのだ。ここまでの濃度はそうそう出せるものではない。意識的に出そうと思っても出そうと出せない。押井守監督ふうにいえば、「ここまで躊躇いもなくパンツを脱げるか」だ。
(漫画制作の通常のセオリーを全無視した上で、この作品は成立している。「マネしちゃいけない」作品だ。マネしたところでうまくいくわけがない)
 だからこそ、「ありきたりのように見えてありきたりではない」。「特異な作品」と言うしかないものになっている。

 『明日ちゃんのセーラー服』の漫画が技法的なところでもユニークなことをやっているのがわかったが、他にも特異な点がある。その絵にもかなり変わった特徴が現れている。
 漫画の絵を見ると、どうやら写真を参照に描いているのはわかるのだが、一方で、作者の作画技量はそこまででない。頻繁にデッサンは崩れているし、パースは歪んでいるし、なにより線が整理されていない。絵全体が洗練されていない。絵を見ていると、まるで高校生が描いた絵のようにすら見える。
 見せ場となる絵ほど、作者の自意識が前面化しすぎて、奇怪な歪みが現れている。

 顔のデッサン、手のデッサンが崩れている。現実世界でこんな手つきをする人間はいない。
 しかし不思議も不思議で、ハッと惹きつけるものがある。このおかしな手つきは、アニメ版でもそのまま再現された。
 おかしいけど、なんともいえない魅力を発揮させている。強味と弱みが同時に現れている。

 踊り出す小道。絵を見ればわかるが、詳細に描かれた制服に対して、手と足がザッと線を走らせたような描き方になっている。ここでデッサンが激しく崩れている。しかしデッサンが崩れているからこそ、この瞬間に「動き」が現れている。もしも正確なデッサンで描写していたら、この「動感」は死んでいただろう。

 以前も提示した絵だが、デッサンというものは必ずしも「正確であれば良い」というものではない。このドミニク・アングルの描いた絵では、キスをする男性のデッサンが崩れている。崩れているが、男性がどのように動いた瞬間なのかがわかる。時には「デッサンを崩す」ということが大事な時もある。

 『明日ちゃんのセーラー服』の原作絵を見ているとあちこちで崩れているところがあるのだが、しかし不思議なことに、それがマイナス点になっていない。絵をパッと見た時に、全体にリズム感があるように思えて、居心地がよく感じられる。それが主人公明日小道が動く場面になると、心地よさが一気に跳ね上がる。要するに、「味」のある絵なのだ。
 この「味」の上に、いろんなものが乗っている。だからやたらと魅力的に輝いている。
 ここで私の絵と比較してみよう。

 私の絵と比較すると、似たような絵を描いているように見えて何が違うかわかるだろう。私の絵には「動き」がない。「静」の絵だ。私の絵には「動」が宿らない(私が明日小道を描くと、「木陰で読書」とかしていそうになるでしょ)。1枚絵として見た時にはそれなりの魅力を持つが、「漫画」という形式にすると絵一枚一枚が止まって見えて、どことなく面白味を感じない作品になってしまう。
 『明日ちゃんのセーラー服』の存在を知った時、私は「同類」に匂いを感じたのだが、決定的な違いがどこかといえば、私の絵は「静」であって、博の絵は「動」であること。似ているようで相容れない個性を持っている。

 私は以前から「作り手の欲求」と「作品のテーマ」が合致すると、どんなものでも良作になる……と考えている。『明日ちゃんのセーラー服』のまさにそういう作品。
 まず「セーラー服の女の子をどこまでも徹底的に描きたい」という欲求と漫画の物語の合致。それに主人公である明日小道はとにかくもよく動く。いつも走っているし、頻繁に踊り出すし……。そういうときの絵は線の一本一本が踊り出しているかのようにリズミカルだ。作者の「女の子の動きを描きたい」という欲求と、作品のテーマ、作中の絵がすべて合致している。
 こうなると作品が気持ち良くなるのは当たり前だ。「作り手の欲求」と「作品のテーマ」が合致すると、どんなにクオリティが低かろうが、物語として破綻していようが、並みの作品にはない魅力を持つようになる。『明日ちゃんのセーラー服』はまさにそういう作品だ。
(もしも私が『明日ちゃんのセーラー服』を描くと、絵全体が止まって見えて、「作り手の欲求」と「作品のテーマ」が不一致になる。こうなると、どんなに背景やシナリオを作り込んでも、面白くなることはない。「作り手の欲求」と「作品のテーマ」を一致させていたほうがいい、というのはそういう意味)

 『明日ちゃんのセーラー服』の絵にまつわる見逃せない特徴は、キャラクターの描き方だ。キャラクター絵を見てすぐに気付くが、目の形や輪郭線のラインがコマごとに変わっている。固定されていない。ということは、その「目の形」や「輪郭線のライン」に自意識を持っていない……ということだ。
 日本の漫画・アニメでは目の形、鼻の形、口の形、髪型、輪郭線のラインに強烈な自意識を持っている。これが少しでも違っていると「キャラが違う」(「作画が違う」という言い方もある)となってしまう。
 なぜ「日本の漫画は」という書き方をしたのかというと、アメコミはそうじゃないからだ。アメコミは会社で制作していて、会社には様々な「ペインター」つまり「作画担当者」がいて、一つの作品の中でも毎回作画担当者が変わる。するとキャラクター絵もまるっきり変わってしまう。
 『X-MEN』の原作漫画を見てみても、それこそエピソードごとに絵が変わっていて、日本の漫画になれている視点で見ると、どのキャラクターが誰なのか、わからなくなる瞬間がある。キャラクターとして基本的な特徴……サイクロップスならゴーグル、ウルヴァリンならあの体型に尖った髪型……などを踏まえれば作画担当者がどう描いても構わない……という決まり事になっているので、ぜんぜん違う絵になる。日本のアニメのように「作画監督」がおらず、それぞれの描き手が描きたい放題描いている。
(余談。日本の漫画が実写化すると違和感になるのは、キャラクターの目の形や輪郭線のラインに強烈な自意識があるから、これを実写の人物で演じた時、どうにも受け入れがたく感じられる。それに、空想の中のキャラクターという前提で描くから、どうしても「コスプレ感」が出てしまう。アメコミも場合、そこはどうとでも解釈してもいい、という考え方があるから、実写化する場合もあるポイントさえ抑えておけば……サイクロップスならあのゴーグル……よいという発想になる。ついでに少女漫画の実写化もうまくいく例が多いのは、少女漫画もそこまで目の形や輪郭線に自意識を持っていないから)

 『明日ちゃんのセーラー服』という作品を見ると、日本の漫画にありがちなキャラクター造形に対する自意識を持っていない。明日小道というキャラクターを見ても、コマごとにまるっきり違う顔になっている。ただその特徴……ロングストレートの黒髪と、セーラー服さえ押さえておけばいかにように変えても「小道は小道」という描き方になっている。ある意味でアメコミに近い考え方で絵を作っている。制服を着た姿や身体表現の方こそ「主」であって、目の形や輪郭線といったキャラ構築の要素は「従」という考え方だ。
 その代わりに『明日ちゃんのセーラー服』にあるのは、絵としての魅力。日本の漫画によくある慣習には従っていないが、ページごとに、コマごとに絵としてきちんと作り上げたい……その意思が前面化している。
 それが見て取れるのは、唐突に挿入されるカラーページ。パートカラーの場合もある。漫画界の慣習では「カラーページ」は編集部に与えられなければ描いてはならない……という考え方がある。だが『明日ちゃんのセーラー服』はそれさえ無視して「ここは色まで付けて絵として仕上げたい!」と思ったらカラーで仕上げてしまう。
 描き手の欲求だけがダダ漏れのような漫画だが、だがそこが良い。そこにこそ魅力を感じる。描きたいようにやらせているからこそ、良さが希釈されず原液そのままの感性が漫画に載っている。そういう魅力の方が前に来ているから、デッサンやパースが崩れていても、さほど気にならないどころか、絵としての魅力に変わっている。

 ただ、ここまで挙げたような話は、ある意味、博という作家の未熟さによって浮かび上がって見えていた……というところもある。
 コマ構想の「動作→動作」という特徴だが、2巻の半ば辺りには「主体→主体」の描写がおおくなっている。漫画家としての技量がジワジワ上がってきて、動作をカットする方法を学んできたのだろう。
 絵については3巻までの内容を見てもいまだに線は荒れているような感じが見えるが、最近のTwitterで見かける絵を見ると相当に洗練されている。洗練されているが、しかし3巻までに見られたような線の躍動感は喪っていない。良い感じに成長している。
 最新刊がどうなっているのか、私は確かめることはできないのだが、おそらく漫画の技法的にも、あるいは絵の作りにおいても、技量が上がっていることだろう。
 ただし博という作家にとって、『明日ちゃんのセーラー服』にとって初期衝動的な感性は1~3巻の間にこそ現れている……と私は見ている。ただひたすらに女の子の身体を描きたい、女の子の何でもないやり取り、言葉のやり取り、仕草を描き続けたい……。たとえ物語として希薄だったとしても。その意思が感じられるのは漫画前半においてだ。
 それにしても最新刊ではどんなふうに成長したのだろうか……。博という作家の“いま”を見届けられないのが残念だ。それに、明日小道とそれを取り巻く女の子達がどのように変化していったのかも見届けたい。私の気持ちはもうすっかり蠟梅学園の中なんだ。収入が出たら、その最新版を見届けたい。

 最後に蛇足を一つ。
 ブレザーとセーラー服の割合は……
中学校
70% ブレザー
20% セーラー服
10% その他
高校
87% ブレザー
9% セーラー服
4% その他
(上のデータは2011年の書籍から。2019年のトンボ学生服によれば、ブレザーは86%のシェア率だったそうだ。セーラー服は6%……さらに減っている)
 セーラー服は圧倒的少数派である。全体の1割ほどなので、ちょうど明日小道の教室のような割合になっている。現実のブレザーとセーラー服の割合を教室で表現しているともいえなくもない(そういう意図はなかったはずだが)。
 なぜここまでセーラー服は少数派になってしまったのか。この理由は定かではない。噂程度に流れる話として、セーラー服はあまりにも可愛すぎるせいで痴漢を誘発する(これ本当?? じゃあセーラー服の方がデザインが優れてるって話じゃないか)という話、また90年代後半は不良がセーラー服を改造してロングスカートを履いたりなど、セーラー服に悪イメージが付いた……。また制服製造メーカーが学校側にブレザーを熱心に売り込んだから……みたいな話も。
 どれも噂話程度の話なので、何が本当なのかよくわからない。
 私といえば、圧倒的にセーラー服派(ご存じかと思うけど)。だって、可愛いじゃない。どうして女の子をより魅力的にしてくれるはずのセーラー服がこうも数を減らしてしまったんだろうか……。ブレザーにはまったく魅力を感じない。女の子の衣装の中で、ブレザーはかなり下の方だ(私にとって、は)。
 女子よ、セーラー服を着るのだ!
 私はこれからもセーラー服の女の子を描き続ける。ブレザーは描きません。

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