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2022年冬期アニメ感想 明日ちゃんのセーラー服【アニメ版】

 ここからはアニメ版『明日ちゃんのセーラー服』について掘り下げていく。
 まず原作版・アニメ版共通の設定を改めて確認しよう。

明日小道というキャラクターについて

 第1話に登場した、明日小道の生活環境・住居環境を見てみよう。

第6話。木崎江利花と待ち合わせした場所。湖を挟んだ向かい側に明日小道の家が見えている。

 明日小道が住んでいる場所の画を見て、勘のいい人はもうピンと来たはずだが、この場所は「異世界」である。
「オイオイ、『明日ちゃんのセーラー服』は異世界転生ものじゃないぞ」……と、言う人もいるかもしれないが、そういう「設定」話ではなく、創作上の意図・ニュアンスの話。
 もう一度、家とその周辺の自然環境を見てもらいたいんだ。
 まずいって、日本には見えない。日本は理想的な日照・降雨量である温帯湿潤気候で自然の生育が早く、上の画面のような環境にしようと思ったら、しっかりと下草を刈り込んで整えなくてはならない。自分の家周辺の環境だけではなく、湖周辺まで整えることを考えると、あの4人の一家だけではとうていやりきれるものではないはずだ(おそらくあの湖までが明日家所有の敷地だと思われる)。こうした風景はどちらかといえばもう少し寒冷な地域の風景に見えてくる。
 もう一つのポイントは家の前に作られた小川とアーチ型の橋。以前にも「橋」というモチーフは「現世」と「異界」を切り分ける意味があると書いた。橋の中でも「アーチ型の橋」は神社建築の中にも使われ、そこをまたいだ向こう側というのは「神」の世界ということになっている。そうした意味のある橋を、家の手前に作られている。
 その家というのが、鱗屋根を載せてしかも煙突まで付いた洋建築だ。
 なんの予備知識もなしに(このアニメを知らない人に)この画像だけを切り抜いて見せると、大抵の人は「車」に気付くまではなにかしらのファンタジーものの風景画だと思うだろう。というか、この風景画の中に近代的な車はもはや「異物」のようにすら見える。

 明日小道が育った環境はご覧の通り、ほとんど俗世から峻別された自然空間である。といっても完全に「自然のまま」の風景ではなく、田んぼが見られる。日本の田舎の風景は「自然のまま」作られたものではなく、農家が作り上げたものだ。日本は自然の生育が非常に早い環境なので、本当に自然のまま放り出すと、あっという間に鬱蒼とした密林になってしまう。
 全てが「自然のまま」ではなく、ある程度の「管理」された自然……。「管理された風景の美しさ」が作者・博の理想風景であり、そういった背景の申し子が明日小道というキャラクターだ……という立ち位置になっている。
 しかし明日家は農家ではない。母はどうやら服飾の仕事をしているらしい。父は間違いなくホワイトカラーで、街まで出て仕事をしている。
 農村の只中で生活していながら、実は農家ではない。その場所を仕事の拠点にしていない。これも明日小道というキャラクターを作り上げる上でのポイントとなっている。素直に解釈すれば「貴族階級」だが、そのように言及していないし、そのような設定はない。
 キャラクターとその風景と接地していない、そこにある環境とはどこか違った存在。明日小道という存在を意図的に曖昧にしている。

 明日小道の小学生時代の風景。教室には明日小道1人しかいない。
 先生と生徒の二人きりの教室。こうなると、ほとんど「家庭教師」状態だ。
 どうやら妹の明日花緒も一緒の学校らしく、しかもこの学校にはもはや明日姉妹しか通ってなかったという。するとどうして教室は合同でないのだろう。生徒数の少ない学校では複数の学年が同じ教室で学ぶ……というのが普通だが。それに2人しか通ってなかったのなら、なおさら教室は合同であるべきだ。2人しかいない生徒に対して、わざわざ先生を2人立てるというのは、効率が悪い。
 ではどうしてこのように描いたか……を考えていこう。「設定上の話」ではなく、何を意図していたか。明日小道をどういう存在として描きたかったか――。
 農村を背景にしていながら農家ではなく、あえてその背景から峻別された存在として描いている。あの風景の中に子供は明日姉妹しかおらず、その2人のために学校があって、生徒1人に対して教師1人が付いていた……。ということはやっぱり「家庭教師」だった、ということになる。明日小道を「特別な存在」として作り上げるための「仕立て」であった、といえる。
 でもここであえて設定をぼかして、「学校」としている。舞台を「現代」に置くために、わざとグレートを下げて表現している。明日小道はある種の「貴族」であることを、ぼかすために。

 ちなみに、明日小道の学校成績は、「試験科目英算理のうち1つ満点かつ総合5位以内に入ること」という条件を突破し、唯一の奨学金対象者になっている。中学時代に入ってからの成績は学年1位の座にいる。
 貴族的存在である明日小道。単に「家柄が良い」という背景設定ではなく、「人間として特別」な存在として描くこと。周りの女の子とははっきり出自の違う存在として描くこと。これら全てが明日小道を特別な存在として描くための仕立てである。

 作中の謎の存在であるのが、「福元幹」と呼ばれる謎の少女。物語に一切絡んでこないキャラクターであるのに、異様な存在感を持っている。なにかしらのアイドルらしいが、どういったアイドルなのか……どんな活動をしているか一切深掘りされない。明日小道は福元幹に憧れていて、行動原理の根拠としている……ということになっている。
 福元幹が何者なのか、という説明はできない。なぜなら福元幹に関するエピソードが全くないからだ。やたらと目立つ存在として描写されながらも、それ以上のことは何も描かれない、象徴的存在でしかない。
 まず、そもそもの話、明日小道というキャラクターからして存在が曖昧。明日小道の「具体的な設定」がことごとく現実から峻別されたもののように描かれている。そんな明日小道が「精神的存在」として夢想する福元幹が何者なのか。

 推測できるパターンは2つ。
 1つは福元幹は明日小道のもう一つの姿。実は「同一人物」。
 もう1つは、「明日小道が実は福元幹の妄想」ということ。

 明日小道と福元幹は同一人物じゃないのか……と思って私がまずやったのは、声優の確認。そういう意図を含みに持たせていれば、同じ声優として設定するはずだ……と思ったが声優は別の人(明日小道:村上まなつ・福元幹:斉藤朱夏)。ある種の同一人物説はハズレということになる。
(「ある種の同一人物」とはどういうことか。例えば、『ピーターパン』では伝統的にウェンディの父親と、フック船長が同一人物が演じることになっている。これは最初の舞台版から決められているらしく、後の映画版でもこの伝統は踏襲されている。これには、“ある種の同一人物”であるという含みが持たされている)
 ではもう一つ、実は「明日小道が福元幹の妄想」だった、というパターン。明日小道は明らかにいって「虚構」の側の存在。一方の福元幹は、アイドルとはいえ「俗世」の存在。俗世の存在たる福元幹が「内面の自分」として明日小道という虚構を妄想していたとしたら……。
 しかし、これは漫画の最後まで明らかになることは絶対にない。そういう話にした途端、『明日ちゃんのセーラー服』という作品が持っている幻想が壊れてしまうから。そういうところまでお話を言及してしまうと、ただの「楽屋オチ」になってしまう。観客に「舞台裏」を見せてしまうような行為だ。
 もしもそうだったとしても、最後まで明日小道と福元幹の関係性は明らかにされない。曖昧にされ続ける。そうすることで両者の幻想は守られるわけだから。

 最後に舞台である「私立蝋梅学園」の立地を見てみよう。山の中にぽつんと作られていて、その周囲には住宅は一切ない。完全に俗世から峻別された場所。俗世の毒から隔絶された空間に作られ、そこには美しい少女しかいない……。
 ほとんど2004年のフランス映画『エコール』の世界だ。
 なぜこのように設定したかというと、これも作者の理想が込められた空間だから。俗界から峻別された理想郷。そこに住まう穢れなき存在、なかば妖精のような少女像を描きたい。それを理想としている。
 そしてこの理想郷・蝋梅学園は明日小道の属性の一つとして描かれる。森の中で俗界から峻別された空間、管理された美の空間……というのは明日小道が持っている属性と同じ。
 その一方で、蝋梅学園に通う生徒達は「俗界から来たる者」……実は生徒達全員が客人というポジションになっている。例えば谷川景は自宅から通学しているが、そのアパートとその周辺風景を見ると、急に世界観が変わったようにすら感じられている。なぜなら谷川景がやってきているのは“俗世”で、俗世からやって来た人、というポジションで描かれているからだ。

 明日小道は蝋梅学園の中でただ1人、セーラー服を着ている。それは主人公として存在を浮かび上がらせるための設計だ。
 でもこうともいえる。蝋梅学園の“真の生徒”は明日小道1人なのであって、それ以外の生徒は実はたまたまやってきている“客人”である。蝋梅学園の“異物”は、実は明日小道以外の全生徒だったのだ。
 もちろんこれは「設定」ではない。あくまでも「創作上の裏の意図・ニュアンス」の話。このような裏の意図があったうえで、世界観構築があり、さらに描写を徹底することでそこに説得力を持たせている。何でもない描写でも、様々な意図がある。描写されていることが全てではないが、そこから読み取れるものはたくさんある。そこにこそ、創作の広がりはある。

 以上の『明日ちゃんのセーラー服』の基本設定、描写から何を意図しているのか、明日小道がどういう存在であるのか、どういう存在であって欲しいのか、という部分から作品を見てみた。明日小道には明らかに、その他の女の子とは違った「特別」な存在であって欲しい、という意図……いや、意図を越えた「願い」が込められている。「理想の美少女」をいかにして構築するか。その模索の末に、明日小道周辺の環境が描き込まれている。たった1人のキャラクターだけで完結するのではなく、環境を含めて1人のキャラクターとして描いている。
 とはいえ、作者からすれば「そんなつもりはない」と言うかもしれない。作者は自身の創作の全てを理解し、語ることはできない。なぜなら創作の大半は「無自覚」の産物だからだ。すべてが自覚的に描写していたら、そこに「魔力」は生まれない。創作とは未知なるものに向かって行く行動のことを指す。それを言語として分解するのが、解説者の役割だ。
 そんな私という解説者が見ると『明日ちゃんのセーラー服』は以上のように見えている……という話だということを書き添えていこう。

角が削れたアニメ版・物語作品としての再構築

 次に原作版とアニメ版の差異がどういうところにあるのか……を見ていこう。

 まず絵について。原作版は、それこそコマごとに絵が変わる。最近の漫画にありがちな、「目の形」や「輪郭線」への自意識が薄いから、コマごとに作画が変わっているし、さらに作者自身が成長していっているので絵もどんどん変わっていってしまう。明日小道というキャラクターにしても、ページによって顔が変わっている。
 こういう絵の変化や成長も漫画の醍醐味なのだけれど、アニメも同じように描くわけにはいかない。アニメ版では全体を通して一貫した「キャラ設定」が導入される。漫画は(もちろんアシスタントはいるが)基本的には1人で描くものだから、その時の作者の気持ちでキャラ絵が変わっていても問題ないのだけれど、アニメは20人以上のアニメーターが関わるので、その全員が同じ絵を描けるよう、共有できる「設定」が必要になってくる。
 原作からアニメへ、そうした過程で原作にあった「角」が削ぎ落とされていく。
 まずキャラ絵だが、象徴的な明日小道のキャラ絵を見てみよう。

 原作は非常にリアルなスタイルで描かれている。セーラー服のシルエット、皺の動き、体勢の崩し方……おそらくは写真を参照に描かれたのだろう。実際人物が衣装を着て立つと、原作絵のようになるはずだ。
 それに対して、アニメは非常に高い技術で描かれているのだが、原作版が持っていたリアリティからかなり遠ざかっている。まずセーラー襟のシルエットが現実ではあり得ない形をしている(何度も書くが、前当てはあんな形になることはない)。肩が変な尖り方をしている。袖のシルエットや皺の形もおかしく、袖口には開く場所があるのだけど、これが大きすぎる。
 アニメは精密に描かれた背景に、色彩豊かなキャラクターにはブラシも入っていて、密度の高い絵になっているので非常に説得力がある。しかし、セーラー服描写として正しいのは原作の方。
 どうしてこのように描くかというと、これがアニメのスタイルだから。アニメ絵は実写の人物をトレースしても成立しない。「アニメらしいフォルム」……最終的に色彩を載せて背景を載せて「映える形」というのがある。線の流れ方は「リアル」よりも洗練された美しさがなければならないし、影の形もデザイン的に捉えなければうまくいかない(写真を2値化させてアニメ絵っぽくなるかというとならない。トゥーンシェーダーさらたCGキャラの影付けが何となく変に見えるのはこのため)。アニメ絵として「映える絵」を目指した結果、アニメ版のようになる。アニメ版はアニメ版ならではの最適解を目指した結果が、アニメ版の絵というわけだ。
 アニメのどのシーンを見ても、「原作絵」の再現をしているようで、アニメ調のスタイルにうまく変換されている。これこそ、「漫画」と「アニメ」が似ているようで違うメディアという説明になる。

 ここで原作からアニメへ変換される過程で、「角」が削り落とされていく。
 原作版はいうまでもなく、「制服フェチ」による作品だ。どのページも、セーラー服への愛が溢れている。
 ところがアニメ版を見ると、原作ほどセーラー服に対する愛着は感じられない。もちろん、アニメーターの技術は素晴らしいもので、どのカットも非常に高いクオリティに達している。ただ、「フェチ感」は相当に薄れている。原作では実在感を持った少女の身体が表現されていたが、アニメ版はどの絵を見ても「アニメキャラクター」になっている。すると原作版にあった匂い立つようなフェチ感がどこか漂白されていく。私のような「セーラー服ガチ勢」が見て、「ん? この描写はおかしいな」という感じになる。どうして「おかしい」と感じるのかは、これまで書いてきたとおり。アニメスタイルのフォーマットに載せる必要があったから。テレビシリーズの描写としては正しい。でも「ガチ勢」が見ると、「あれ?」という感じになる。
 そもそもの話、アニメ絵のスタイルはフェチ感が載りにくいというのもある。アニメは「アニメーション=動き」にこそエロスを表現するものであって、描写でのエロスは表現しづらい。日本は様々なアニメを生産してきたけれども、アニメ絵でエロスが表現された例は非常に少ない(エロアニメでもなんとなくエロさに欠けるのはこのため)。アニメ絵にフェチ感が載りづらい……というのは、フォーマットがそもそもそういうものだから仕方なし、というところもある。

 アニメキャラクターとしてのフォーマットに載せているから、どこか身体に対する執着も弱くなっている。原作はもっと身体の表現がエロチック。シャツ姿でも服の下にある肉感がわかるように描かれている。

 お尻のラインを比較するとわかりやすいが、原作はもっとヒップラインがグンと突き出て、パンティラインがうっすら浮かんでいる。お尻に実在感がある。率直に言って、「エロい」。
 ところがアニメ版はこれも「角」として削られている。アニメは原作と違って、動きが加わるからもっと少ない線で表現しなければならないし、原作で勢い余って描写したところでも「角」として削り落とさなければならない。すると、原作にあったエロスがどこか欠けたような印象になっていく。「角」が全体に削られたような絵に見えてしまう。
 これは「作画技術が……」という話ではない。アニメというメディアの限界。線や色彩の量を増やしたところで、描写にエロスが宿ることはない。「アニメはそういうもの」なのだ。

 物語にも大幅な改変が施されている。
 原作の物語はもっと断片的だった。個々のエピソードを読むと女の子達の存在感、生活観、フェチ感に圧倒されるものがあるが、通して読んでも「物語」としての一貫性は弱い。それぞれのできごとは、連続した物語として描かれていない。原作漫画の弱点といえば、間違いなくここ。ただ「女の子の実在感」があるだけだった。
 アニメ版では、23分1本の作品として、一連の物語があるかのように描かれている。
 これはフォーマットによる作り方というものがあって、もしもアニメ『明日ちゃんのセーラー服』が10分程度の短編ミニシリーズだった場合、原作通りでも問題ないんだ。しかし23分12話というフォーマットを選択した。するとその中にひと連なりの物語があるように描かなければならない。
 例えばアニメ版第4話では谷川景が明日小道の写真を撮りたい、という導入部から、個々のキャラクター達を描いていき、最後には兎原透子に導かれて満月寮へ導かれる……という展開を取っている。実は原作では、これらはすべてバラバラのエピソードだ。原作では谷川景は満月寮にはいかなかったし、途中のクラスメイトの描写も、別々のエピソードとして描かれていたものだった。演劇部部長にいたっては、この段階ではまだ原作未登場だった。これらがすべてひと連なりの物語として、スッと見られるように描かれているのがアニメ版だ。
 基本的には明日小道がクラスメイトと交流することによって、キャラクターが掘り下げられていくと同時に、キャラクター達が抱えている葛藤が解放されていく……という形式を取っている。

 オープニングのワンシーン。明日小道は、「誰か」の手を引っ張って駆けていく。この場面はあくまでもクラスメイトの「誰か」。これから明日小道がみんなの手を引っ張って、駆け出していく……という物語の今後を描いている。

 谷川景は、「真面目な自分」という他人から思われているイメージに葛藤を抱えている。本当は、好きで「真面目な自分」を演じているわけではない。ただ親や大人に怒られるのが嫌だから。安全に安全に生きて、結果としてつまんない人間になっていて、そのつまんない自分に対して葛藤を抱えていて……。
 そうした最中、誰からも愛されて快活な明日小道が羨ましく思えてしまう。自分とは正反対の存在。それでいて、大人達から怒られたりしないどころか、愛される存在。
 谷川景は明日小道と交流して、(事故的に)自分自身の半裸姿を送信してしまい……。ここで「ただの真面目な私」という殻から抜け出す切っ掛けを作っていく。

 メインヒロインである木崎江利花お嬢様育ちで品行方正、成績優秀、ヴァイオリンやピアノを得意とする典型的な箱入り娘(そして匂いフェチである)。谷川景と同じく、「活動的な遊び」に憧れている。「山に登る」部活を選択したり、図書館で釣りの本を読んだり……「お嬢様の自分を乗り越えたい」という願望を持っている。
(“お嬢様の火遊び”……がアウトドアに向かうというのは、なんだか面白いし、健全で良い)
 木崎江利花は最初から明日小道にかなりの好意を持っている。最初の頃から明日小道の姿を楽しげに眺めているし、兎原透子の冗談に載せられようとしている時でも「変な虫が付かないようにしないと……」と保護者の気持ちにもなっている。明日小道が「いつかおじゃましてもいいですか?」と尋ねると、笑顔で「すぐきて」と答えている。
 第6話『明日、お休みじゃないですか』では念願叶って明日小道と一緒に遊びに行く。そこでこれまで封印していた快活さを解放し、自然の中での営みを満喫する。
 その後は明日家へ誘われ、明日家の優しげな温もりに感激する。おそらく、木崎江利花がこれまでの生活で感じてこなかった解放感と愛情を明日家で得たのだろう。

 第7話では蛇森生静のエピソード。こうした「美少女アニメ」には珍しく、そこまで優れた容姿ではない、特別な能力・才能を持っているわけではない、「ごく普通の女の子」のごく普通の日常が掘り下げられた。何もかもが普通、その普通の女の子がほんの少し頑張って、ほんの少しの成功体験を獲得するお話。「美少女アニメ」といえば少し癖のある女の子達が……というなかで、ここまでごく普通で、平凡な女の子を掘り下げ、情感たっぷりに描いたエピソードはなかなか貴重だ。

 これを書いている時点でまた第7話が放送された後だが、一つ一つのエピソードにきちんとした連なりを持っていて、全体を通してもあるエピソードへ向けて集約していく……という実感がある。
 原作でも明日小道と交流して、クラスの女の子達が精神的な何かから解放されたり、何かを得たり……という展開が掘り下げられている。でもそれぞれのエピソードはバラバラだし、そうしたテーマはやや薄い。アニメはこれら全てに一貫性を与え、「明日小道とクラスの女の子」という関係性を色濃く打ち出している。原作のフェチ的な部分は減退した代わりに、物語的なテーマ性ははっきり強まった。アニメではそもそもフェチ的な表現は描ききれないから、その代わりに23分1エピソードという尺の中でしっかりした物語を描く。アニメの作り手がそちらに振り込んで、『アニメとしての明日ちゃんのセーラー服』を再構築しているのがわかる。
 アニメでできることはなんであるか、アニメならではの魅力はどこにあるのか、そういうところからうまく答えを出しているといえる。魅力の焦点が少し変わってしまったが、アニメ版『明日ちゃんのセーラー服』は独自の良さを発揮している。

原作のリスペクトと、あと余談も

 アニメ『明日ちゃんのセーラー服』は原作の要素を引き出しつつ、映像作品として成立させるために再構築されている。そのために多くの「角」が削り取られていったが、だからといって「原作無視」というわけではなく、むしろ原作のエッセンスを抽出し、むしろその魅力を増幅させている。映像化として理想的な形を取っている。

 福元幹のテレビCM。走りのフォームとしてちょっとおかしくない? 実はこのポーズも、原作準拠。

 時折、変な顔を見せる明日小道。これも原作通りの画。作者がその時勢いで描いた絵を再現している。

 アニメを見ていて引っ掛かりを感じたのは、質感の貼り込み方。やたらとリアルに見える床板は、テクスチャーを貼って仕上げているのだけど、これがセル画の質感と合っていない。
 ちなみに机と椅子もCG。影もおそらくはデジタル的に計算を出して描画したものだろう。そうすると床や影はやたらと硬質なのに……ということになる。トゥーンシェーダーでレンダリングした椅子や机の質感も合っていない。線画と背景画の馴染ませ方を再検討したほうがいいカット。

 動画中の1コマ。一瞬だが、絵を止めると原作とほぼ同じポーズを取っている絵が現れてくる。他にも、「1コマ」だけ原作再現した瞬間がいくつかある。原作をとにかく大切にしよう、という意思が見えてくる。

 絵としてはややおかしい。頭の形も変だし、手つきもおかしい。自分でこのポーズを取ってみるとわかるが、こういう手の動きは普通しない。これも原作通りの画。作者のその時の感覚を再現するために、おかしな手の動きも忠実に再現している。

 制服を脱ごうとする瞬間、ちょっと手を止めてしまう。セーラー服フェチらしい、気持ちのこもった瞬間だ。
 アニメ版と原作版を比較して見ると、アニメ版にはスカーフネクタイを着けたまま。スカーフネクタイを着けたままなのが正しい。原作版はおそらく描き忘れ。原作の作画ミスを補完している。

 軽く唇を噛む描写。これも原作通り。

 原作とは違う絵だけど、アニメ版は「動き」で原作コマを表現している。こういう表現ができるのはアニメならでは。アニメの利点を活かしたワンシーン。

 アニメ版だけを見ると、第4話の謎のエンディング。なぜ明日小道は縄跳びをしているの?
 実は原作では縄跳び遊びをしていて、泥を被ってしまい、それで満月寮に行くという流れだった。アニメで採用されなかった縄跳びシーンを、エンディングアニメに持っていく。しかも、ものすごく詳細な動きで表現されている(兎原透子のリアクションも、完全に原作再現)。動画で表現できるアニメならではの映像になっていた。

 第6話に入ってメインストーリーに戻り、メインヒロイン木崎江利花との交流が描かれる。原作再現シーンもバッチリ。

 個人的にお気に入りのカット。肩から髪を払いのけて水着の肩紐を外す。動きが非常に丁寧。こういう動きを見せてくれると、キャラクターに実在感が出てくる。


 第7話のワンシーン。木崎江利花がピアノ演奏を始めた瞬間、絵柄が変わる。音の広がりを表現するために、背景を全て手書きで、1コマ1コマ線画で描き起こしている。光のエフェクトまでも線画の手書きで。上に掲げた画像は兎原透子の後ろ姿。背景のカメラ移動は(伝統的な「背景動画」ではなく)もともとはCGでレンダリングしたものだが、レンダリングされたものの上に手書きで1コマ1コマトレースで描き起こしている。非常に時間と手間がかかる。
 すると思いがけず、空間の揺れ動きが表現された。背景も1コマ1コマ手書きの線で再現するからどうしても線が揺れる。揺れることで音が響いていく印象を作り出していく。この描写で、木崎江利花のピアノが、突き抜けた腕前に達している……ということが表現されている。アニメでしかできない表現。アニメ全体を通しても会心のシーンだ。

 アニメと漫画はメディアが違う。漫画をアニメにしようとすると、エッセンスの一部は死ぬが、別のエッセンスが現れてくる。漫画のほうが有利な表現はあるし、アニメの方が有利な表現はある。その違いを見極めながら、原作を見事に映像化した『明日ちゃんのセーラー服』。アニメ変換の良き手本となる作品であった。

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