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12月11日 50歳過ぎたおじさんの悲哀――『ブレイキング・バッド』感想文

 米ドラマの『ブレイキング・バッド』ってのが面白いらしいぞ……という話を聞いて見始めて2ヶ月。ようやく5シーズン全て見終えた。2ヶ月も掛けて見ていたから、最初のほう、だいぶうろ覚えだけど……まあ、感想文を書いていきましょう。

 まず『ブレイキング・バッド』の基本情報から始めよう。『ブレイキング・バッド』は2008年から2013年にかけて制作・放送された米テレビドラマだ。ドラマシリーズの後に劇場版も作られ、さらにスピンオフシリーズも作られて、このスピンオフシリーズが2022年にようやく完了した……というから、これだけでも人気作だとわかる。
 だが本当に凄いのは本作への“評価”のほうで、批評集積サイトMetacriticによればシーズン1が100点満点中74点。シーズン2が85点。シーズン3が89点。シーズン4が96点。ファイナルシーズン5はなんと99点! 「テレビドラマ史上もっとも評価が高かった作品」としてギネス認定もされた。(名作映画といわれている作品でも90点越えはそうそうない)
 アワードも凄いことになっていて、エミー賞、ゴールデングローブ賞、サテライト賞、全米映画俳優組合賞、サターン賞、テレビ批評家協会賞、批評家協会テレビ賞……実に2008年から2013年のテレビドラマ関係のアワードを総取りしまくっていた。
 本作を絶賛する著名人は、アンソニー・ホプキンス、フィリップ・シーモア・ホフマン、スティーブン・キング、村上春樹、ビートたけし、小島秀夫……とにかく業界人が手放しで褒めちぎりたくなる作品だ。

 とにかくも凄い評価を受けた作品だったのだが、私はその存在をまったく知らなかった。「面白い作品があるらしいよ」くらいの話を聞いて見始めて……という感じだった。見終えた後、Wikipediaを見てこの作品が全米ドラマシーンを席巻するほどの人気作だった……ということを知ったのだけど、それも納得というくらいの見事な作品だった。是非見るべき。見て損は無しの1本である。

 お話しの始まりは、どこにでもありそうな、ごくごく平凡なものだった。
 主人公のウォルター・ホワイトは50歳になったばかりの高校教師だった。あるとき、ちょっとした不調で倒れ、病院に運び込まれてしまう。大袈裟だな、なんともないのに……しかしウォルターの体の具合を見た医者は顔色を変えて、「もっと検査しましょう」と提案。しばらく待って、「肺ガン」であることがわかった。しかも余命はあと2年。
 あと2年……。ウォルター・ホワイトは愕然とする。高校教師の仕事を20年勤めているが、貯金はあまりない。住宅ローンも一杯残っているし、間もなく第2児を出産しようとしている妻、脳性麻痺の息子。ウォルター自身、どうにか家計の足しに、と教職の傍ら洗車場のアルバイトをしているような状態だった。
 こんな状態で自分が死んだら、家族に何が残るんだ……。ウォルターは愕然とする。
 そんなあるとき、義理の弟(妻の妹の夫)ハンクがDEA(麻薬捜査官)なのだが、「一度捜査現場の見学に来ないか」と誘われる。この時のウォルターは「何かしなければ」という想いもあって、ハンクの仕事の見学へ行く。
 そこで偶然会ったのがジェシー・ピンクマンだった。ジェシーはウォルターの教え子で、今は麻薬製造をやっているチンピラだった。
 ウォルターは犯罪現場で偶然出会ったジェシーをあえて見逃し、その後、彼の家を訪ねる。そこでこう提案する。
「私がメスを作る。お前がメスを売れ」
 こうしてウォルターは麻薬製造の仕事を始めるのだった……。

 「メス」というのは「メタンフェタミン」のこと。「覚醒剤」の一種で、強い中枢興奮作用を引き起こす一方、依存症に陥りやすい危険な薬物だ。日本では「シャブ」「エス」「スピード」といった名称で流通している。英語では本作にあるとおり「メス」の名称の他、「アイス」という呼び名がある。映画などで聞いたことがあるだろう。
 お話しの始まりを見てわかるように、ウォルター・ホワイトは高校教師なのだが、専門は「化学」。しかも凝り性の質なので、メス製造を始めるとかつてない品質の高さのものを作り上げてしまう。ウォルターの作るメスは「ブルーメス」と呼ばれ、裏社会でブランド的存在になっていき、ウォルター自身、自分の作るメスにプライドをかけるようになっていく。そこで次第に人生が狂っていき……。

 というお話しだけど、ウォルター・ホワイトという人物について見ていこう。

 ウォルターは高校の化学教師で、性格はいたって穏やか。理知的でなにごともきちんと正さないと気が済まないタイプだ。生徒からの評判は、ある場面で「今日はウォルター先生がお休みなので、代わりの先生が来ました」というと生徒達から溜め息が漏れる……という場面があったので、生徒からの信頼は厚かったのだろう。
 容貌も、メガネできちんと切りそろえられた髪、ちょっとしたヒゲ……とパッと見「どこにでもいるおじさん」。ウォルター・ホワイトを演じたブライアン・クランストンのフィルモグラフィーを見ると、たくさんのドラマ、映画出演があって、そのいくつかは間違いなく見たのだが(大作映画、名作映画にも出演している)、彼を見た記憶が無い。「どこにでもいるおじさん」という風貌なので印象に残らなかったのだ。とにかくも印象に残らない平凡な顔……それがドラマ制作者が求めていた風貌だった。
 そんな「平凡なおじさん」だった人が、シリーズ全体を通していかに変貌していくのか……がある意味での本作の見所だ。
 確かシーズン1の第1話だったと記憶しているが、妻とベッドで「誕生日だから今日はしてあげるわ」と(妊娠中だから)手コキをしてもらう……という場面がある。しかし50歳にもなろうという体なのでなかなか“勃たない”し、妻は妻で途中で飽きてしまって手コキしながらノートパソコンに映し出されている株価の推移のほうに夢中になってしまう。
 ウォルターは「男性性」を致命的に欠いた人物だった。男性性を発露する場面が実社会の中でほとんどない。常に誰かに服従しなければいけない……という立場だった。特に洗車場のアルバイトでは、嫌な雇い主に毎日見下されたり、からかわれたりしなければならなかった。
 間違いなくその反動で、裏社会で地位を築いていく過程で、これみよがしな「男性性」を発揮するようになる。あんなに穏やかなおじさんだったのに、「裏の顔」になるとなにかと高圧的にマウントを取るようになるし、もっと金が欲しい、もっと地位が欲しい、と貪欲になっていく。抑圧された男性性が歪な形で解き放たれたようになっていく。
 もう一つ、ウォルター・ホワイトを語る上で重要なポイントは、大学卒業した頃、大学の仲間とともに企業を興したことがある……というエピソードだ。若い頃のウォルター・ホワイトは「天才物理学者」として大学の仲間達から称賛されるほどの人物で、その彼らとともに会社を立ち上げ、いくつかの特許を取得したのだった。
(大学生時代のもう一つのエピソードは、ノーベル賞受賞の研究に助手として関わっていたこと。それくらいのポテンシャルをウォルターは有していた)
 ところがその大学の仲間達とちょっとしたいざこざがあって……それでウォルターは1人その企業から離れたのだが、その後、件の企業は大企業へと発展し、創業者である仲間達は豪邸住まい。ウォルターがかつての仲間達のパーティに招待される場面があるのだが、あまりの豪邸暮らしに愕然とする。台詞であったわけではないが、「あのとき我慢して会社にいたら、自分も豪邸暮らしできていたんじゃないか」……そんなふうに思ったはずだ。というのも、件の会社が取得した特許というのは、主にウォルターが中心となって研究し、発見したもの。なのに、なんで俺だけ……。
 男としてのプライド……天才物理学者としてのプライド……。人生の選択を間違えていなければ、充分な地位と名誉を得ていたはずなのに、今はしがない高校の化学教師という立場。そういうものが裏社会にのめり込んでいく過程で、メラメラと燃え始める。

 もう一人の主人公、ジェシー・ピンクマンという人物を見てみよう。

 登場したはじめは、いかにも「チンピラ」という風情の薄っぺらい人間のように描かれていたが、お話しが進んで行くと、この人物にも次第に厚みが生まれていった。
 まずジェシー・ピンクマンはそこそこいい家庭のお坊ちゃんだった……ということ。しかもジェシーは手先が器用で絵を描いたり、小物を作ったりといったことに才能を持っていた。しかし両親はジェシーに対し「自分たちが思ったような息子じゃなかった」ことに落胆し、突き放すような態度を取り、それに対してジェシーも反発して、気付けば「街のチンピラ」まで転落していた……という青年だった。
 ジェシーの生い立ちについては、冷淡で身勝手な親が悪い。一見して上流階級に見えるので“無自覚な毒親”だ。
 ジェシーの背景史を見ていてわかるように、実は繊細で優しい性格。チンピラぶっているけれども、いったん仲良くなったらとことん仲間思いだし大事にする。ウォルターとの接し方を見ても、誕生日になったら忘れずプレゼントをするし、癌の経過が良くなったと聞いたときは素直に喜んだりもした。本当は優しい若者なのだ。

 このジェシーという人物がウォルターとの対比になっていく。
 お話しが進んで行くとだんだん追い詰められていくのだが、ウォルターは躊躇なく人を殺すようになっていく。殺した後もあっけらかんとして、罪の意識を感じたりしない。
 一方のジェシーは追い詰められても「人を殺す」ということには最後まで躊躇い続ける。ドラマ全体を通して一度だけジェシーは殺人を犯すのだが、拳銃を握って引き金を引くまで長く逡巡し、涙を流し、やっと撃つ……という感じだし、殺した後も精神的ダメージが大きく、薬物に頼る生活に陥ってしまう。
 薬物に頼るような人間は実は心が弱い……そういう典型例だ。
 シーズン5に入って、ちょっとした事件のように見えて大きなターニングポイントになった出来事がある。「メスカリン強盗計画」を打ち立てて、計画は首尾良く達成したのだが、その現場を子供に見られていた。子供を殺すことになったのだが、ジェシーはそのショックをしばらく引きずるようになる。一方のウォルターは平然。ショックで仕事への意欲を失ってしまうジェシーに対して「あれは仕方なかったんだ。やむを得なかったんだ」と説得するのだが、説得した後、口笛を吹いて仕事の続きを始めてしまう(このシーンはゾッとした)。「平凡なおじさん」だったウォルターは完全に人間性を喪ったサイコパスになってしまう。最後まで道徳心を喪わなかったジェシーと、道徳心を完全に喪っていくウォルター――これが後半へ進めば進むほどにくっきりとしたコントラストを作るようになっていく。
 ウォルターとジェシーの立場が入れ替わっていく……というのではなく、お互いの本質が現れていくような構造になっている。ジェシーはチンピラぶっているけれど実は優しい気質が表れていき、ウォルターは優しいおじさんのように見えて実は冷酷なサイコパスの本質が現れてくる。
 ウォルターも最初の殺人の時……クレイジーエイト殺人の時はあんなに逡巡していたのに……。最後には人を殺した後でも口笛を吹くような人間になってしまう。

 不思議なことに、ウォルターとジェシーは次第に親子の情で結ばれていくようになる。ウォルターは最後にはただのサイコパスになってしまうのだが、しかしどんなことがあってもジェシーだけは手放さない。ジェシーが煩わしいと感じたときでさえ、ジェシーは殺そうとはしない。
 なぜならウォルターはジェシーこそ「本当の息子」と思うようになっていったから。自分の強さも弱さも知っていて、側に付き添ってくれる、本当の息子。
 そうすると可哀想なのは実の息子であるウォルター・“フリン”・ホワイトJr。フリンは最後まで父親が何をしていたか知らず、なのに無条件に父親を信じ愛する、天使のような存在だ。なのにフリンはドラマの最初から最後まで放ったらかしにされてしまう。ウォルターとジェシーとの関係性の濃さに対して、フリンとの淡泊さは、見ていて不憫に感じてしまうほどだった。

 ウォルター・ホワイトの行動動機はいつも「本音」と「建前」が2重になっている。
 そもそも麻薬製造を始めたのは、家族のため……。自分は間もなく肺ガンでこの世を去ってしまう。その前に家族に財産を残すため……。というのは確かに始まりの切っ掛け、動機であったが、この動機にも建前と本音がある。天才物理学者である自分がメスを作れば、そのへんのチンピラが作るものとは圧倒的に品質の良いものが作れるはずだ。その自意識を発動させたい、自分の力を見せつけたい、という思いが確実にあった。
 ウォルターがシーズン1の頃に抱いていた「目標」は73万ドルだった。2人の子供が成人するまでに必要なお金が73万ドル。残された親子が苦労せずに生きていけるお金は、73万ドルで充分のはずだった。
 ところが、麻薬製造を始めると73万ドル程度のお金は、あっという間に稼げてしまう。そこでウォルターが麻薬製造をやめるか……というとやめられなかった。もっと稼ぎたい。もっと上へ登りたい……これまで封印されていた「出世欲」が一斉に噴き出していく。「自分の凄さを認められたい!」という欲求だ。
 しかし裏社会には危ない連中が一杯。第1シーズンの頃にはトゥコという麻薬密売の元締めが出てくる。薬物中毒者でいつでもブチ切れている危ない男だ。ウォルターはこのトゥコに自分の作ったメスを委託してお金を受け取る……というところから始めるのだが、次第に我が身が危ないと思うようになってトゥコを殺す計画を立てるようになる。
 ウォルターは毎回「我が身が危ない」……で相手を殺す計画を立てるのだが、基本的には全て我が身が原因。いつも余計な欲をかいて相手を殺さねばならない……という事態に陥る。なぜウォルターは危険と知りながらこんな行動を取るのか?
 ウォルターは「我が身が危ない」という理由で人を殺すようになっていくのだが、その裏で「もっと上へ登りたい」という欲求がいつも隠れている。「我が身が危ない」というのは理由付けに過ぎないものであって、本当は自分が元締めになりたい、もっと稼ぎたい、自分が闇社会のボスになりたい……。家族のために金を残したい……というのはウソではないが、もっと金が欲しい、もっと名誉が欲しい……!
 よくよく考えれば、ウォルターはそこまで人を殺す必要はなかった。大人しく麻薬製造に徹していれば、我が身が危険に陥ることもなかったし、人を殺さねばならないような事態にもならずに済んだはず。だが日常生活で抑圧されてきたウォルターの出世欲が、裏社会という場でふつふつと顔を出し始めていく。もっと、もっと金が、もっと地位が……その欲望に突き動かされて、やがて障害になる相手をどんどん殺すようになっていく。
 肺ガンで余命2年を宣告され、「死」を意識するようになった元・天才物理化学者がやりたかったことというのが「名誉」の獲得だった。ウォルターは金がほしかったが、それがすべてではなかった。「俺というすごい化学者がいたんだぞ」という痕跡そのものを残したかったのだ。大金を欲したのは、大金こそ名誉の証だったからだ。
 最初からそちらのほうが「本音」だったのだけど、その本音が出始めたのはシーズン5に入ってようやく。実際に「私は闇社会の王になりたいんだ」と言葉にするようになって、そこで私もどうしてウォルターがこうも無茶な行動を取り続けたのか理解した。天才物理学者としてのプライドをかけていたのだった。

 するとウォルターの容貌も変化していく。ごく最初のほうは、「どこにでもいそうな平凡なおじさん」という風情で、印象にも残らない顔だったが、次第に眼光鋭い「裏社会のヤバい奴」という顔になっていく。こうなるともはや「忘れられない顔」だ。最終シーズンでシーズン1との顔の対比が出てくるのだけど、最終シーズンになると頬もこけて、目つきもトロンとしている。俳優がこの役にとことん入れ込んで、体つきも顔つきも変えてきたことがよくわかる。
 最初はあんなに優しい顔だったのに、どうしてこうなるんだ……。顔の対比を見て愕然としてしまう。

 実はシーズン1の頃は『ブレイキング・バッド』はさほど面白いとは感じなかった。面白いといえば面白いが、そこまでではない。しかしシーズン2、シーズン3とお話しが進むにつれて、どんどん面白くなっていく。Metacriticでの評価がどんどん上がっていったというのも納得だ。
 なぜ面白くなっていったのか……というと理由は単純で、ウォルターの立場がどんどん追い詰められていくからだ。エンタメ作品は主人公が追い詰められれば追い詰められるほど面白くなるんだ。エンタメの本質とは「脱出」。追い詰められた状態から、いかにして離脱するのか。追い詰められるというストレスに対して、いかにして解放させるのか、そのストレスの掛け方と解放のさせ方でエンタメの良し悪しは決定する。
 そこでいうと『ブレイキング・バッド』はお話しが進むごとにどんどん状況がヤバくなっていく。最初はキャンピング・カーでひっそりブルーメスを作っているだけ……のお話しだったが、やがてメキシコの殺し屋に狙われるようになり、カルテルの抗争に巻き込まれるようになり、最後にはDEA(麻薬捜査官)に追い詰められる。ウォルターの置かれる立場が段階的にやばくなっていく。さあどうなる……そこで毎回引きつけられる緊張感が生まれる。だんだん視聴が止まらなくなるのは、このためだ。

 ドラマの最後はなんともいえない「無常観」のお話し。ウォルターは受けるべき制裁を受けるのだけど……。最初から追いかけていたほうとしては「どうしてこうなってしまうんだろうか……」と茫然とするしかない。なんともいえない「やるせない」気持ちが後に残る作品だった。

 ドラマシリーズの後、劇場映画『エルカミーノ:ブレイキング・バッドTHE MOVE』へと続く。ドラマの最後、監禁状態から脱出したジェシーのその後はどうなったのか……それを描く作品だ。
 「映画だけで内容がわかるか?」というとわかりません。ドラマ5シーズン見ることは必須の作品となっている。
 『ブレイキング・バッド』のラストがちょっと尻切れ感があったというか、ジェシーが外に飛び出したところでポンと終わっていたから、あの彼がその後どうなったか……は気になってはいた。劇場版はその答えとなる作品となっている。
 ドラマの続きとして作られた作品だし、ちょっとした「補完」的な作品であるので、エンタメ映画としてそこまでプロットが敷き詰められた作品ではなかった。
 お話しも非常に短い。監禁状態から脱出したジェシーだったが、ジェシーは指名手配犯。警察から掴まらず、アルバカーキの街から脱出できるか……というごくシンプルなお話しだ。最初に書いたようにプロットが敷き詰められているような作品でもないので、回想シーンや「間」が多い。よくある「ドラマの映画化」みたいなやたらと派手志向の作品ではなく、むしろドラマ版より地味。劇場版ならではの大仕掛けもなし。心情的な総括をするような作品だった。
 『ブレイキング・バッド』という作品の「締め」としてむしろこっちのほうが心情的に重くくる。ジェシーの心情を総括し、アルバカーキで起きた悪夢から逃れようとしている……そんなふうに感じる作品だった。
 感想文の途中にも書いたけど、ジェシーはチンピラぶっているけれど、実際には気のいい繊細な性格だ。それがウォルターと関わったことで精神のどん底まで追い詰められてしまった。その心の闇からの脱出と、アルバカーキという街からの脱出が重ねられている。ジェシーの人生が再出発する切っ掛けが生まれる瞬間が描かれている。ジェシーもまた、ウォルターという狂人に振り回された人生だった。

 劇場版は昨日までドラマ版を見ていたから、ちょっと変な違和感があった。というのも、カメラの質が明らかに良くなっている。カメラワークもめちゃくちゃに凝っている。それが昨日まで見ていたドラマ版とあまりにも違うもので……。そこで変な戸惑いがあった。
 もちろん、全てにおいて良いこと、だけど。
 日本のドラマの劇場版は(ルックという面に関して)そんなに変化がないのに対し、本作は劇的に変わりすぎて……という戸惑いだった。

 ただこの劇場版には一つ突っ込みたいところがあって……それはジェシーが明らかに太ったこと。ジェシーはシーズン5の後半、およそ1年にわたり監禁されていたはず。なのになぜ太ってる?
 ひどかったのはトッドだ。ドラマ版のトッドはシュッとしていたはずなのに、劇場版ではお腹が出て二重顎になっている。「誰だお前は!」と一瞬思った。映画の撮影があるんだから、撮影日までに痩せましょうよ……。


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