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片付けられなくたって

 ――片付けの最中、出てきた物を見て思い出に浸る人に苛立ちを覚える

 以前、「片付けの得意な人が、片付けられない人に対してイライラすること」について、テレビでこんな意見が出てきたのを見たことがある。私はまさに、イライラされる側の人間だ。

 片付けられない人間なりに、何度も部屋を片付けようと試みる。その度に、ゴミなのかそうでないのか分からない物の山を目の前にして、気が遠くなる。収納スペースの中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた物をなんとかしなければならないと、私だって焦ってはいるのだ。

 山の表面を少し崩してみると、一度も使っていないセンスの悪いリュックを見つける。「大学生のときに、お父さんが誕生日プレゼントで買ってくれたやつだ。外でこんなダサいリュックなんて使えないけど、きっとお父さんは一生懸命選んでくれたんだよな」なんて、思い出に浸る。

 もう少し山を崩してみると、予備校時代の参考書を見つける。「〇〇ちゃんたちと励まし合って、毎日つらい日々を一緒に乗り越えたんだよね。私の人生の中で一番努力して、一番充実した時間だったな」なんて、思い出に浸る。

 完全に山を崩して、底に手を入れてみると、小学生のときに使っていた連絡帳を見つける。「私って、体調不良でこんなに休んでいたんだ。お母さんってば、行き過ぎるくらい丁寧に先生にメッセージなんて書いちゃって......。少しは私のことを心配してくれていたのかな」なんて、思い出に浸る。

 部屋を片付けるはずが、辺りに物が散乱させたまま、一向に片付く様子がない。数時間が経過して足の踏み場もなくなった頃、物を捨てるためのスイッチが、ぎこちないながらもやっとオンになる。

 何を残したいのか、何を捨ててもいいのか、じっくりと吟味する。だが、捨てたい物というのはそうそう出てこないものだ。「これは思い出の品、あれも思い出の品」なんて言っていると、結局捨てることのできた物は微々たるものになる。

 何時間も、いや、ひどいときだと数日にも及ぶ大片付けは、ほとんど成果をあげられないまま、幕を閉じるのだ。「何のために労力を費やしたのだろうか」と考えると、バカバカしく思えて仕方がない。

 だが、不思議なことに、嫌な気分はあまりしない。それどころか、少し心がじんわりと温かくなった気がする。苦しい人生の中で忘れてしまった「いい思い出」を振り返ることができたからだと思う。

 世間では「断捨離」なんてものが推奨されているが、「余計な物を持たずに、物を捨てることは素晴らしい」とは必ずしも言い切れない気がする。思い出の品を通して、過去に置き去りにされた愛情や幸福感を思い出し、それを心の糧にする人間だっている。

 物は捨てられないし、部屋も全く綺麗にはならないが、片付けをする度に少しだけ元気を取り戻す。毎回、こんなに素敵な出会いがあるのなら、片付けられなくても、それはそれでいいのかもしれない。

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