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愛情って何なんだろうか

「全て愛なんです!」
TVに出てるタレントがYoutubeでこう言っていた。胡散臭い。

愛情って何なんだろうか。

ちょっと遡ると、私は若い頃非常に愛情に疎かった。愛情なんてもんは存在しないと思っていたし、蔑ろにしたこともあった。それによって人に迷惑をかけていたことも沢山あるし、人を信じることもできなかった。人に裏切られても「まぁ別にそんなもんだろ、人なんて」と思って気にも留めなかったし、人を裏切ったところで罪悪感のカケラも湧かないほど狂っていた。家庭環境も酷いものだったので、愛情なんていうものに触れなかった人生だった。人生がゲームと同じだった。重苦しくて誰かに愛して欲しいとも思わなかった。悲しみや苦しみなどの気持ちに気付くことさえ出来ていなかった。時代もあったかもしれないが、褒められる人生じゃないことは明らか。
私が心から信じられるものといえば、数少ない特別な親友と、愛犬との強い結び付き…くらいなものだった。

「人間好きの話下手」な人がいることを知っている。その気持ちはよくわかる。なぜかというと、私は「人間嫌いの話上手」だから。初対面でも、ちょっと気まずい空気でも、誰にどう思われても構わないので、世間話の鬼になれる。天気のことで15分とか話が出来るし、つまらない話題を振られたら話を変える術もある。流石に相手を嫌な気持ちにさせるわけにはいかないので、とにかく世間話をする。全ては「人間が嫌い」だからだった。

転機が訪れたのは、うつ病寛解時だった(病気になった頃は愛情がどうこう、と考えもしないくらい辛かったが)。3年間の闘病生活だったが、寛解した時に、「昔の自分は死んだ、いなくなってしまった」と思った。昔の自分と同じように振る舞えなくなっていたからだ。それに、昔の行動や気持ちの記憶を思い起こすと、今の自分と別人のように思えた。悲しみも辛さも感じることができず、刺激的な体験でしか喜びを感じられなかった昔の自分。一体この記憶は誰のものなんだろう?というぐらいの感覚なのに、罪悪感・後悔・怒りだけは強く感じる。恐らく、昔の生き方を繰り返すと、またうつ病になると脳がわかっていて、本能的にそうなったんじゃないか、と私は信じている。

ちょうど寛解期に、私にとって大きな2つの別れがあった。犬と、親友の一人である。
犬は闘病して死んだ。
親友は引っ越してしまった。
(今でも犬は私の家族であることは間違いないし、親友ともずっと交流が続いているが。)
私の支柱の二つがなくなった。この時に考えた。
「愛情って何なんだろうか。」

昔の自分はいなくなり、心の支柱もいなくなった頃、右を見ても左を見ても、私が嫌いな「人間」は、誰かに愛され、誰かを愛していた。私にはなかった。心の底の奥深くで、愛情を求めていた。愛情不足であることは間違いなかった。初めて気がついた。

愛情不足解消のためにやったことは、まず自分で悲しみ・苦しみ・寂しさ・辛さなどネガティブな感情について、感じ取れるように練習するとことだった。自分がわからないのに、他人の気持ちがわかるわけがないからだ。長い時間がかかった。今では自分の気持ちがわかるようになったが、当時は本当にわからなかった。うつ病前のことを考えると、私は日常的に「苦しい」「辛い」という状態であったことが、ここで初めてわかる。若い頃の長い年月、辛く苦しいストレスに晒された結果、うつ病になったんだろうと理解できた。

次に試みたのは、喜び・嬉しさ・楽しさなどポジティブな感情のコントロールについてだった。これが厄介で、私は一人でも十分楽しめるタイプだったので、人を介すのであればアドレナリンが出るほど楽しい経験を求めてしまっていた。例えば、まだ見たことのない景色を見に行くとか、ド派手に遊ぶとか。そういうことが出来ないのであれば一人で遊ぶので遠慮します、みたいな感じだった。助けてもらっても「頼んでもないのに助けないでよ、恩着せがましい!」といった具合だった。つまり、人に対して報酬を求めていたし、人も私に報酬を求めていると思っていた。そこを変える必要があった。
これも長い時間がかかった。今では花が咲いているだけで「わぁ、綺麗」とも思えるし、雪景色を見て感動して涙が出たり、何もない一日を最高の一日だったとも思えるようになり、よくしてくれた人に感謝出来るようになった。出来るようになってきたのは、本当に最近である。

このネガティブとポジティブの気持ちの練習は根気のいる作業だ。なんせこのクソみたいな自分と向き合わなければならないので、辛く悲しく哀れだった。なんで自分はこんななんだろうと、何度も思った。でも諦めないで続けた。少しでも早く、皆の言う「愛情」とやらを知りたかったからだ。今でもこの練習は続けているし、上手くいかないこともしょっちゅうある…。

結局、今のところ「愛情とは何でしょうか?」と問われてもよくわからない。
恐らく、犬や親友に抱いている感情が「愛情」なんだろうとは思うが、しっかり答えを言語化できない。
それに、冒頭で紹介したように「全て愛なんです!」とか軽々しく言葉にされると、胡散臭い。信用できない。私はこんな辛い思いして愛情を学んでいるというのに。それに愛を持っていない人(自分を含め)と関わり続けたから、そもそも自分はうつ病になったのに。愛です!と言葉にする前に、行動で示せよ、といまだに思う。自分では小っ恥ずかしくて「愛しています」なんてまだ言えない。

愛情って何なんだろうか。
自分の気持ちを知り、相手の気持ちを知り、相手の幸せを願い、それが自分の幸せになることかな。私は少しでも愛情に近づけているのかな。
クソな人生だったけど、愛されても良いのかな。誰かを愛しても良いのかな。許されるのかな。愛って、そんな罪悪感と恐怖感も伴うな。それでも皆が欲しがる良い物なのかな。私にも愛情がわかる日がくるのかな。

最後に、感謝の内容になってしまうので、今回あえて夫の話を出さなかったが、夫が一番の功労者であることは間違いない。

※重い内容でした。メンタル崩されてる方が読んでしまったら不安定になっているかも。もしそうなら、ごめんなさい。

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