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2023年8月の記事一覧
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その5)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その5)林浩治
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4)大日本帝国陸軍二等兵になる
1940年代、青年呉林俊は日本の五大政策である「国体明徴」「鮮満一如」「農工併進」「数学振作」「庶政刷新」によって、日本人になりきることのみが幸福になる道で、同化することが朝鮮人同胞の利益に繋がると信じていた。
その頃、軍事工業が拡大し朝鮮人も採用されるようになった。
林俊は18歳にな
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その6)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その6)林浩治
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5)大日本帝国の敗戦=朝鮮解放
1944年12月下旬、老黒山の中隊が南方に転戦したあとも、劣悪不良兵の烙印を押された呉林俊は満州に残留した。
後任部隊がハルピンから到着すると、1945年3月、満州からの最後の抽出転用兵として朝鮮に移動した。
釜山での陣地構築を任務として日本統治時代は「牧之島」と呼ばれた影島(ヨンド)
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その7)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その7)林浩治
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6)戦後
朝鮮人を解放された民族として規定しなかった日本統治の〈伝統〉は、その外皮すら傷つけることなく体内に朝鮮人を、いつまでたっても真に自立した、対等の朝鮮人にはしない強固な抑圧を保持したことを否定することはできないであろう。
『絶えざる架橋』(1973年3月 風媒社)
1945年10月
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その8)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その8) 林浩治
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7)画家として生きる
1955年晩秋、横浜市内の東横線綱島駅側の狭い赤提灯「新駒」に入った呉林俊は、座るないなや、アメリカ、日本政府、韓国の軍事政権を大声で罵り始めた。そして先客だった大学生の伊東覚と親しくなった。
伊東はそのときの呉林俊に名前と仕事を聞いた。
呉林俊は、
「俺の仕事は絵描きだ、誰も俺のことを絵描き
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その9)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その9) 林浩治
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8)詩人・作家として
1950年代、呉林俊は6冊の詩集を自費出版している。1960年代には『京浜詩派』や『詩人会議』に詩を発表していたが、他の朝鮮人作家たちと同様日本語での文学活動を控え気味だ。
出版は在日朝鮮人が経営し朝鮮ものの本を多く出した新興書房から2冊の翻訳詩集を発行した。
60年代末、呉林俊は日本軍二等兵と
林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その10 最終回)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その10)林浩治
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8)詩人・作家として(つづき)
1962年頃、呉林俊の絵を見た22歳の音楽大学学生福岡美枝が呉を訪ねる。散歩の途中でふっと立ち寄った小さな画廊で見た呉林俊の絵に興味を持ち、訪ねてきたのだ。
汚い部屋のあちこちにキャンバスが立てかけられ、原稿用紙や本が散らばり、流し台の上まで積み上げられている。生活感がない。
このと