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孤独の不動産<後編> 風景の孤独な目撃者 ~バビロン再訪#28


『孤独のグルメ』を実践するには不動産業界に職を得るのが最適だ(孤独の不動産<前編>)。 

物件を見に行く合間に、あるいは物件見地と称して、主人公井之頭五郎ばりに『孤独のグルメ』を実践できるのが<孤独の不動産>だ。 

『孤独のグルメ』といえば、今は松重豊主演で放映されているテレビ番組(テレビ東京系)が有名だが、もともとは原作・久住昌之、作画・谷口ジローのコンビによる漫画(1994年~1996年月刊PANjA連載、扶桑社)がオリジナルである。 
 

 ゴローさんは必ずひとりで食べる。ゴローさんは雑貨輸入業をやっているが、店舗や社員を持つことをしない、そして結婚も慎重に避けている(女優の恋人がかつていた)。また、店主や店員と必要以上に会話を交わしたり、懇意になることもしない。タイトルにある<孤独>が『孤独のグルメ』の第一のキーワードだ。 

ゴローさんは、目的の商談や納品を済ませた後、腹が減って、どこか飯を食えるところを探し求めて、まちをうろうろするのがストーリーの定番だ。谷口ジローによる正確で細密な表現によって、モデルとなったまちの空気感まで、くっきりと描かれる。<都市をうろつく>が第二のキーワードだ。 

<探し求める>というのもキーワードのひとつ。ゴローさんは店を探す、まるで犯人を捜すように。 

タイトルにはグルメとあるものの、ゴローさんは決して蘊蓄を語らず、感想を語るのにこれ見よがしな表現もせず、ただひたすら、腹が減り、真剣に食い、単にうまいとだけ言う。第四のキーワードは<即物性>だ。 

味にうるさいことを言ったり、蘊蓄を語ったりはしないゴローさんだが、その時の気持ちにマッチした店を選ぶこと、注文する料理とその構成、箸を進める段取り、そして料理に向き合うひとりの時間と空間については、独特の厳しい倫理観を持っている。ゴローさんの<独自の倫理観>は『孤独のグルメ』に通奏する重要なキーワードだ。 

「俺」を主語にしたモノローグがストーリーを引っ張るのが『孤独のグルメ』の基本構図。<モノローグ>による内省的な語りが、先の<孤独>や<独自の倫理観>を際立たせる仕掛けとなっている。 

<孤独><都市をうろつく><探し求める><即物性><独自の倫理観><モノローグ>、こうした『孤独のグルメ』の特徴は、言葉の正確な定義として、ハードボイルドのそれだといえる。 

確かに『孤独のグルメ』は「ハードボイルドグルメ」と言われており、ハードボイルドなグルメという、その形容矛盾ぶりが象徴するような場違いなストイックさが醸し出す可笑しみが『孤独のグルメ』のなによりの魅力だ。 

ハードボイルドの定石に従うと、主人公のゴローさんは、世間の趨勢、この場合はいわゆるグルメと呼ばれる価値観や行為、に乗れないひと、そこから降りている人間であり、社会の<孤独>な目撃者なのだ。<孤独>とは自らの倫理にのみ従い、それのみを拠りどころに世間と渡り合う者の別名だ。 

「食欲をウマイ、マズイの味覚からだけ観察するのはひどい過ちである」と開高健は書いている(『最後の晩餐』)。 

誰もが食とはおよそ無縁だと思っていたハードボイルドのスタイルを導入することにより、「ウマイ、マズイ」を論じるいわゆるグルメとは一線を画する、食を語る際の新境地を開拓したのが『孤独のグルメ』である。 

それは、世のグルメブームの見事なパロディであると同時に、饒舌さや共感や相互承認(「いいね」の応酬!)が幅を利かせる現代において、失われて久しいハードボイルドというスタイルへのオマージュにもなっている。 

『孤独のグルメ』による新しい食の楽しみ方の発見は、世の外回りのビジネスマンたちに孤独のランチの矜持とプライドと勇気を与え続けている。けだし『孤独のグルメ』が傑作の所以である。 

さて<孤独の不動産>だが、実はゴローさんにはない、もう一つの楽しみが待っているのが<孤独の不動産>である。 

物件を見行くことは、お店や料理との出会いの機会であると同時に、通りや場所や建物やできごとなど、まちや都市と出会う格好の機会だ。 

SNS上に情報が氾濫する時代。実体験の多くが、SNSにアップされた画像や感想の単なる確認行為に堕してしまっている昨今、<孤独の不動産>の思いがけない出会いと発見はすこぶる楽しい。 

<孤独の不動産>は、誰も知らないような、どこにも載っていないような、そんな東京に出会える。 

再開発を待つばかりの、無人のまちと化した東京都心の一画。錆びて傾いた郵便受け、朽ち果てた椅子、一面が苔蒸した床が不思議な迫力をもって迫ってくる。廃墟は都市=人間の理性という構図を超える、無意識や生命や芸術といったものを思わせるものがある。江戸の頃は、御先手組と呼ばれる、江戸城の警護や将軍の警護を担う武官たちの屋敷が建ち並んでいたここ我善坊の谷には、つい最近までひっそりとした暮らしが息づいていた(@港区麻布台)。

 入口の上に「白亜荘」の文字が掲げられた、町工場とアパートが複合した、おそらくは戦前からの建物。随所にこだわりの意匠を見て取ることができる。戦災地図で確認すると、古川沿いでこの界隈だけが奇跡的に焼失を免れている。こんなタイムスリップを実体験できるのも<孤独な不動産>の醍醐味(@港区南麻布)。 

思わぬ急な坂や階段が出現して驚かされるのが東京の山の手。まるで大切に秘匿されたものに出会ったような錯覚に襲われる(@新宿区河田町)。

 丘の上のタワーと谷の底の木造平屋が共存する風景。ある意味シュールで、同時に心揺さぶられる佇まい。谷底の静けさをこれ以上壊してはいけない(@港区元麻布)。 

新旧の対比は下町でも。とある日の夕暮れの昭和の路地とスカイツリー。こんな暴力的とも言える風景ですら、得も言われぬ情趣を漂わせ、愛惜を禁じ得ないというのが、東京という都市の不思議さ(@墨田区京島)。

 破れた金網と少年野球といわし雲。なぜか思わず口をつく「夏草やつわものどものが夢の跡」(@墨田区東向島)。

トップの写真の路地に寝転がった猫たちもそんな<孤独の不動産>の一コマ。このまちの心安らぐ日常を思わせて止まない(@墨田区東向島)。

 変貌著しい東京にあって<孤独の不動産>が出会う風景は、明日は消え去ってしまうかもしれない一期一会の風景。

 風景の孤独な目撃者としての<孤独の不動産>は、はたしてどんな倫理を紡いでいくのだろうか。


*初出:東京カンテイサイト(2020年)

 

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