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別れは、もう二度と出会えないことを意味する

人生において、ある機会に別れた人と再会することなどない。

本日、塾を辞めた(正確に言えば他教科の残りの授業がこの一週間続くのだが、わかりやすいようにこの表現にした。伝えたい趣旨は変わらない)。

塾を辞めるということは、もう授業のメンバーと一堂に会することがないということだ。今まで一緒に授業を受けていたメンバーと再開できないことは自明である。しかし、叶わない望みとして、再会を密かに抱き続けるー。もちろん僕以外のメンバーは僕に対してなんとも思っていないだろう。しかし人間は実在である。その人に違う名前を与えても、その名前はすぐに剥がれてしまう。その人は、その人であって初めてその人なのだ。共同体から離れる当事者となれば、きっと誰もが人、つまり実存の対象との別れの折に人が実存であることの辛さを噛み締める。

この世の中には大勢の人々がいる。彼らは皆、愛情をこめて育てられ、さまざまなバックグラウンドを持って育った。かれらが集団の一員となった際も、集団という一括りで構成員を扱うことはできない。全員違う要素から成立している。その人でなきゃその人でない。人には代わりを持ち得ない。

そんな人々がたまたま、同じ授業を受講していた。初めの数回は、なんとも思わなかった。しかし、今となって集団を去る頃には、私にとって彼ら(彼女ら)全員が唯一無二だ。初めに述べたように、一度別れてから再開することなど滅多にない。経験上1、2人。この一年間見た、実存の共同体が誰1人欠けることなく再び会することなどありやしない。

もう二度と会えないことはわかっている。別れとはそういうものだ。しかし、実存たる人間との別れとなると理解しても耐えられない。

もう一度言う、その人でなきゃその人でない人と、もう二度と会えないのだ。

巷には「別れがあれば出会いもある」と書かれている。だが、別れた人と出会った人がいた時、2人は代わりになり得ようか?人間のtradeを用いた考え方は本質的ではない。こんなことを考えていたら、これから幾多となく起こる別れのたびに苦悩に追いやられる。

なお、この文章は気の赴くままに綴った文章なので、途中語彙の使い方がおかしかったり推敲不足と見られる箇所が多々あるかもしれない。ここでお詫びする。

この場を借りて。この一年間、どうもありがとう。ごきげんよう、さようなら。

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