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仕草【短編小説】

 わたしは二週間ほど前から犬の観察を日課としてきました。我が飼い犬であるところのむくつけきミニチュア・ダックスフントの堂々たる一挙手一投足を、わたしは鵜の目鷹の目で見くり抜き、今日も今日とてご飯にふがふがと食らいつく食事シーンや、閻魔像のようにかっぴらいた目をして固まる飼い主に対して鼻を鳴らし困惑する様子や、お手をした前足を握るわたしの手をやさしくぷにりと押しのける逆足のあしらいの様や、やれやれといわんばかりに伏せた際のかわいいかわいい上目遣いの際にちらりと見える白眼などを克明に脳に刻みこみました。今、目の前でむくつけき四つ足の立ち姿を披露しているおたに(名前です)は、生後十ヶ月でお手率五割、失策(粗相のことです)ゼロと、驚異的な数字を残すスーパールーキー犬で、自他ともに認める愛されワンちゃんであり、かような毛深い姿をまんじりと見つめることはそれだけで意義深い価値のある行為なのでありましょうが、わたしが日課と呼んでまでたけしの観察を続けてきたことにはそれなりの意味があるのです。しかしそれを説明する前に、わたしはしばしおたにと戯れなければなりません――

――さて、わたしがなぜこんなことをしているのか、その発端は二週間前のある出来事でした。わたしにはおたにとは別にお付き合いしている方がいるのですが、その方(仮にひろしさんとしましょう)とのささいな一事件がわたしをおたにの行動の観察へと導いたのです。ひろしさん(仮)は、むくつけきとはいいがたい細長いサークルの先輩で、飄々踉々とした佇まいからは想像つかぬ細やかな配慮と不思議と人を落ち着かせる声音が魅力といえば魅力な方でして、また、新歓の際にお世話になったこともあり、かねてから憎からず思っていたところ、今から数か月前、真夏の古本市にお誘いを受け、当日二人で古書を物色、検品、購入し、市の端から端まで通り抜ければ、やがて足取りは喧噪から遠ざかり、人気のない風の気持ちよい菩提樹の木陰で立ち止まって、わたしがハンカチでおでこを拭いていると、「好きだ」と言われました。「あ、はい、そうですか」と答え、「わたしもです」とつけ加えましたところ、左手を持ち上げられてしっかと握られ「付き合おう」と言われました。「はい」と答え、「よろこんで」とつけ加えたところ、彼の額から滑り落ちた汗が彼の眼鏡にぽたりと落ちて、それがわたしのいわゆるツボというのにはまり、ワハワハと笑ってしまいました。ひろしさんも笑ったので、わたしはハンカチでおでこを拭きました。わたしの提げているかばんの中にはその日購ったポーの本がありました。
かくしてわたしたちはお付き合いすることになったのですが、それからしばらくして、わたしはある違和感に気づきました。違和感が確信に変わったのは、まさに、二週間前のある日のことでした。電車に乗り繁華な街中へ繰り出して、服屋や書店やおみやげ屋などを冷やかし、暑さもあって近くの土手へ下り、橋の影で涼んでいると、なんと、ひろしさんがハンカチを自らの額にあてがうではありませんか。わたしがそれまでついぞ見たことのなかったハンカチをです。ここでわたしはかねてから抱いていた違和感に思い当たりました。思えば彼はわたしの細々とした仕草や癖を盗みとっていたのです。たとえば話すときの語尾、交通系ICカードを通すときの手首のしなり、ずれたマスクを戻す手つき、好きな本の傾向、ものの好き好き、小走りの仕方、笑うタイミングなど、きっと無意識なのでしょうが彼はわたしのいろいろを真似しており、思い返すと様々な既視感は、お付き合いをはじめたときのハンカチに結晶しました。そしてわたしは、あえかな希望を抱きました。さあ、わたしの額も拭いてくれ、と。我ながら赤面するような、恥ずかしい期待ではありましたが。はたして彼はもういっぽうのポケットから出した二枚目のハンカチで、わたしの額をぽんぽんと叩きました。爾来、わたしは盗まれ続ける仕草にたまりかねて、いつかわたしも彼の仕草を奪ってやろうと意気込んでいるのです。
賢明なる読者諸君はもうお気づきでありましょう。わたしは彼の仕草を奪うための訓練をしていたのです。そして二週間の修行期間をへて、わたしはおたにの仕草を盗むことに見事成功していました。しかしまた、賢き読者諸君はお気づきでしょう。犬の仕草を盗んだところでなんになるのだ、と。犬は犬、人は人ではないかと。わたしも今、そう思っているところです。けれども、真似をしようと思っても、彼に会うと私は観察するどころの話ではなかったのです。おたにとの戯れが苦しまぎれ、というよりも逃避の行為であることは私もうすうす感づいてはいたのですが……。

 後日、彼の家で映画を見るという機会がありました。わたしはせめてわたしの仕草をこれ以上盗ませないように、真似できないような真似をしてやろうと思い立ちました。そうしてわたしは二週間の成果を活かし、彼の腕を犬のように噛んでやりました。真似できないだろうという気持ちが半分ありました。真似して欲しいという気持ちも半分ありました。彼の唖然とした顔を見て、勝ったと思いました。彼は笑ってわたしのくちびるを甘噛みしました。わたしはとうとう負けを認めることにしました。


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