被害者と加害者の対立で終わらせないこと~性暴力の実態を把握するために~

マリエさんが18歳の頃、島田紳助さんに肉体関係を迫られて、同じ現場に居合わせた出川哲朗さんからも、島田紳助さんと肉体関係を持つよう勧められた、と告発したことが、ニュースになって幾日かたつ。

マリエさんが受けた性暴力が、ほんとうにあったのかどうか、私はわからない。
ただ、あの動画を見ている限り、完全な嘘であったとは思いにくい。
何より、もう芸能界の一線を退いているであろう(ここら辺は詳しくないのだけど)マリエさんが、過去の性暴力の被害を訴えることで得られるメリットが少ない。

それは、出川哲朗さんを擁護するコメントがインターネットサイトやSNSで多く見られることからも明らかだ。ME TOO運動などが出てきても、まだまだ日本では、性暴力の被害を真面目に取り合う姿勢というのが欠けている。性暴力に加担した本人に責任をとらせるのではなく、「あの島田紳助さんの前では、反対することなんてできないよね」という、芸能界を引退している(要は責任を負う義務がない)島田紳助さんに押し付けることで、幕引きを狙っているような姿勢からも、見て取れるだろう。

ジャイアンは何をしても許されるのだ。ジャイアンである限り。そして、ドラえもんのいない現実では、我々はただジャイアンのリサイタルを粛々と褒め称えることで生き残れる。スネ夫のように。他の先進国が離脱しようとしているのに、日本の民度は古びたドラム缶のある空き地に留まっている。

果たしてそれでいいのだろうか?

今回の一件で大切なのは、出川哲朗さんを芸能界から追放することではないと私は思っている。
正直、私個人としては、リアクション芸オンリーで、NetflixやYouTubeなどの外資系大型エンターテインメントの世界で生き残っていけるとは思えないのだけど(よく知らないし極めて個人的な見解)、彼を好きな人がいて、それが日本のメディアを支えているのであれば、彼は必要な人間である。
そんな出川哲朗さんを、事実を明らかにしないまま(真実味がたっぷりあっても)、芸能界から島田紳助さん同様引退させる、ということを安易に可能にする放送界ではあるまい。

では、出川哲朗さんは、日本の芸能界で必要な人間だから、マリエさんの告発を無視してもいいのだろうか?

それは違うのではないだろうか。

まず、マリエさんの発言の意図がどこにあるかといえば、マリエさんが性暴力を受けた恐怖、トラウマから開放されたい、ということなのではないか?
そして、最も大切なことは、”次のマリエさんと同じ被害者を出さないこと”。これに尽きる、と思う。

まず最初にしなくてはならないのは、なんとなくウヤムヤにするのではなく、何があったのかを明らかにすること。出川哲朗さんご自身の口頭で。マリエさんの体調次第によるが、第三者(心療内科に通じた人か、マリエさんの信用する爆笑問題など)を交えて、編集無しの一発取りで、対談させることだ。

もしかしたら、出川哲朗さんは性暴力を与える発言を煽ったことを、認識していない可能性だってある。
「あれ、その発言傷ついたの?」「大したこと言ってないのに、繊細に受け取るんだね」「その程度の言い方は飲み込まないと……」「自意識過剰なんじゃない?」
こうした無意識の発言の数々は、被害者の傷をえぐり出し、さらに残酷なことに、被害者が苦しむことを許さない。やがてそれは、被害者の心身をゆっくり、ゆっくりと蝕むのだ。

あの状況がどうやって展開したのかを、詳らかにすることで、マリエさんは傷ついたことを肯定できるし、もし誤解があったとして(性暴力被害者に誤解というのは酷な表現)、それが解けたら、気持ちの落とし所がつく部分も出てくるのではないだろうか?

そして、事実が明らかになることで、”同じような状況が展開された時に、どう対応すればいいのか?”という情報共有を、日本全体でできるようになる。

一番大切なのは、ここである。島田紳助さんは芸能界を引退した、つまりは島田紳助と同じことをする人は今現在いないから、終わりでいいのでは? ということではない。

第二、第三の島田紳助さんを生み出す文化をつくらない、ということが一番大切なのだ。
島田紳助さんという強烈な個性だけが原因で、島田紳助さんを(もし実際にあったとして)枕営業を強要する発言をさせた、というわけではあるまい。「島田紳助さんなら、多少何を言ってもいいよね」という発言の、”島田紳助”という名称は、時代と共に入れ替わる。「ハーヴェイ・ワインスタインなら、多少何を言ってもいいよね」「ジャイアンみたいな○○さんなら、何を言ってもいいよね…」
島田紳助さんを取り巻く空気が、発言を許したのである。そして、そんな空気こそ、島田紳助さんを島田紳助さんらしい団体との関わりをつくっていった部分もあるのではないか?

島田紳助さんを生み出さないのと同様に、どうしたら島田紳助さんみたいな人を担ぎ上げる現場と遭遇した場合、対応するのがベストなのかも考えなくてはならない。

たった一人が悪人であった、と決めつけることで、何の解決につながるのだろうか? 悪人が活躍できる環境を作り上げた所属団体、芸能界、広告会社にスポンサー……。悪を見て見ぬ振りをしたきた人たちは、出川哲朗さんとかけ離れた人たちだろうか? さらにはそれを消費する視聴者側にも、間接的な原因は全く無いのだろうか?

もし、出川哲朗さんと同じ状況に居合わせたら、どう対応すべきだったのか? 島田紳助さんの所属団体のコンプライアンスはどうなっているのか? もし、自身の所属団体にコンプライアンスが欠けていた場合、どこがどにように対応するのか?

「セックスしようや」という発言を受けて「しちゃいなよ」と煽る以外のやり方で、脅威と戦う、賢い対応の仕方を、考えなくてはならない。考えないと、社会は円熟しない。

そして、性暴力への欲望が、何につながっているのかを考えること。なぜ自分のことを好きでもない相手と「セックス」したいのか? 若さ? 美しいから? 

性暴力というのは、相手を支配し、服従させたい、という歪んだ欲望からうまれる。だとしたら、「セックス」が伴わない場合であっても、似た欲望から暴力が行われることがあるのだ。被害を受けるのは女性だけではない。

また、「枕営業」などの性行為で仕事が取りやすくなる、という環境そのものをNGにしないと、性暴力の現場がなくなることはない、というのも感じている。
芸能界での仕事、というのは水商売な部分もあるのかもしれないが、それは風俗産業と類似するものではないだろう。(ちなみに風俗産業を貶めたいわけでは決してない。)
どの職場に限定されることなく、正々堂々と、地道な努力を重ね、才能に秀でた者が、安全に、フェアに評価される日本社会であってほしいと思っている。アンフェアなえこひいきは破綻する。アメリカはもちろん、中国や韓国、タイやベトナムといった東南アジアと比べても、日本のエンターテインメントのレベルは下がっていくだろう。

「枕とか、できる人がしたらいいんじゃないの?」という風潮そのものが狂っている。私は、恋愛は既婚者を含めて、誰とどういう関係を築こうが自由だという認識だ。しかし、パーソナルな領域のみに留まる、”たかが恋愛”が、仕事の評価基準に関わることは、絶対にあってはいけない。それは、不倫だろうが、マイノリティとしての恋愛だろうが、他人に受け入れられるか否かすら含まない。

恋愛と性暴力は、絶対に何があっても同一になっていけない。恋愛を、個人が自由に楽しむために。

たしかに、○○ハラスメントという、ハラスメントの前置に何をつけるかで味付けが変わるだけの被害者ビジネスに、うんざりすることも多い。だからこそ、こうしてわかりやすい暴力の告発があった場合、きちんと内容を確認する必要があるのだ。ハラスメントと指を刺されないよう、何がハラスメントに該当するのか、正体を知る必要がある。

ほんとうにやっていないのであれば、出川哲朗さんは正々堂々と会見を開くべきだと思う。もし、マリエさんが”誤解”をしていたり、何か別の意図があって告発したのであれば、冤罪のケースとして共有してもいいだろう。

(ただし、事件から何年も経って今さら? という人には、性暴力の記憶はトラウマとなり、大なり小なり、言葉に出すのすら時間がかかる、ということは言っておきたい。)

出川哲朗さんという人を私は全く知らない。もしかしたら、とてもいい人なのかもしれない。共演者やスタッフに気をつかい、本人は枕営業なんて行わないのかもしれない。枕営業をとめたことすら、あってもおかしくはない。

ただし、一度でも加担したのであれば、発言の発端が誰であれ、性暴力を肯定した、ということにつながる。
たったパン一切れを盗んだがために、一生を追われることは不条理だと思うが、今はそんな時代ではない。もし悪事を働いた場合、きちんとそれを認め、謝罪し、みんなで当事者意識を持って話し合う。その上でキャリアを整えなおすことが、封建的な社会を脱した、成熟した民主国家としてのあり方であると思う。”ほんの少し”悪いことをした場合、他の人に親切をしたら帳消しになる、というのは、寓話じみている。

”凡庸な悪”というのは、日常生活のそこここに潜み、私たちに消極的な意識を埋め込む。そこに、希望を見出すのは難しい。
悪を見過ごすというのは、日常に凡庸な悪を持ち込むことだ。そして凡庸な悪の下で社会が成熟しないのは、歴史がすでに証明している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?