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進化と衰退は紙一重、「紙」だけに

皆さん、こんにちは!豆乳です。

前回、「文章の書き方」について、周りの人たちを観察、考察した内容を言及したような記事を書きました。全体的に厳しく、クリティカルな内容に仕上がってしまいましたが、逆にそこがよかったのか、好評で嬉しかったです。

私自身も、あの記事を書いているときに、「普段の自分は、いったいどんなところを気を付けているのかな?」と、改めて見つめ直すことができ、良い機会となりました。(個人的な反省点としては、やはり「長すぎる」ところだと思いました。いつも長文で申し訳ないです。。でも、文章を書くこと自体は大好きなんですよね…笑)


さて、話が変わります。

私は、この方の記事を読んだときに、深く感動を覚えました。

単刀直入ですが、感想を述べますと

目から鱗でした。



大学の講義中に、度々耳を劈く「パシャッ」という乾いたシャッター音。生徒はノートに板書を写す作業を怠り、カメラを通して映される「ピクセルの集合体に過ぎない、単純なデータ」に頼るようになりました。まるで、底なしの真っ暗な電子の海に溺れてしまったかのように。白く透き通ったページをめくる紙の「ペラッ」という軽やかな音、鉛筆を走らせ、緊張感を駆り立てられる「カリカリ」という音、書き終わったことを合図するかのように、鉛筆が鳴く「コトン」という音。どれも、もう聞こえなくなってしまいました。あの趣深い音はどこへ消えてしまったのでしょうか。ノスタルジーを感じてしまうのが、なんだか物寂しく私は感じてしまいます。

江戸時代、庶民の子どもたちは、寺子屋にて「よみ・かき・そろばん」という教育を受けました。この教育が始まって以来、日本では識字率が急激に上昇しました。現在では、全世界の中で最高数値を誇っております。しかし、現代では電子化が普及し、ものを書くことは疎か、読むことも減ったのではないかと感じます。もちろん、書くことや読むことができないのならば、そろばん、すなわち計算なんてもってのほかです。

昨今では、教育の支援システムや通信教育、さらには予備校などでも電子化の授業が促進しています。先生は画面の奥にいるため、咄嗟に質問をしようと「先生!」と、声をかけても振り向いてはくれません。本当にこれで良いのでしょうか。

まさに、進化と衰退は紙一重である。「紙」だけに。


もちろん、電子機器を用いて文字を打つこと自体が悪いとは言えません。それこそ、大学の課題として書くレポートや論文など、長い文章を書く際に、これらを用いると効率良く書き進めることができます。しかし、ペンを握り、目の前の紙に自分の思いを浮かばせる時間は、決してなくしてはならないものだと、私は思います。


自分だけの世界を紙に書き写し、自分専用の宝の地図を持ち、冒険に出かけてこそ、文章は初めて歩き出すのではないのか。


そんな風に私は感じました。

最後になりますが、

文章とは、常に自分探しの旅である。あなただけのオリジナルの冒険の船を沈ませないで。


以上です!!




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