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漫画学とドラマ理論第3回

「考えて、考えてそして考え抜く」ことが企画の基本だと思います。漫画家は「描いて、描いて、そして描きまくる」という態度が必要でしょう。今回は、私が見た漫画家で努力の天才であり、短期間に上昇した一人、藤沢とおるさんのことを書きたくなりました。


(Ⅰ)努力の天才の事例『藤沢とおる』論

① この作者は出世魚
ちょっと話はそれますが、ちばてつや先生の少年マガジンのヒット作品は、『紫電改のタカ』→『ハリスの旋風(かぜ)』→『あしたのジョー』→『おれは鉄兵』→『あした天気になあれ』、という順番になります。その前に『ちかいの魔球』などいろいろあるのですが、とりあえずこの5作品を考えてみます。この順番に読んだ人はわかると思いますが、『紫電改のタカ』から『ハリスの旋風』で画期的に変化しています。

『紫電改のタカ』までの主人公は二枚目でくそ真面目な人です。格好いいのですが今一つ薄味な人物です。しかし『ハリスの旋風』の主人公、石田(いしだ)国松(くにまつ)は全く違う。元気いっぱいで喧嘩ばかりしています。くそ真面目からほど遠い人ですが、魅力的なのです。ちば先生の中で何が起こったか変わりませんが、革命が起きています。

ちば先生しかできないキャラクターが『ハリスの旋風』で出来上がっています。こういうキャラクターができた漫画家は強い。その後の矢吹丈は石田国松のキャラクターのある一部分を広げて作られています。その後の鉄兵も向井太陽も、石田国松のキャラクターを発展させているが分かります。元は石田国松としか思えない。

このように作者が自分しかできないキャラクターを作れたら、基本的には何をやっても面白くなります。キャラクターが面白いのだからどんな設定でも見たくなります。自分しかできない魅力的なキャラクターを作るということは、結局自分しかできない自分の世界を作り上げるということにつながります。こうなればもう大物です。

藤沢とおるという作者は出世魚のような人です。マガジンで掲載された作品を順で並べると、『艶姿(あですがた)純情BOY』→『湘南純愛組』→『GTO』となりますが、作品を追うごとに絵もストーリーも格段にうまくなっています。上昇カーブが二次関数的になっています。このような驚異的上昇カーブを描いて上手くなる人は余りいません。

初めての連載となると漫画家はそれまでより絵が急に上手くなることが多いものです。気合が入るのかどうかわかりませんが大体上手くなります。しかし最初の連載作品がホップだとすると、ホップのままずっと変わらない人もいます。限界なのかわかりませんが、ホップのレベルで終わる人が結構います。ところが藤沢とおるという人は三作品でホップ、ステップ、ジャンプを成し遂げています。短期間にこれほど変化した人は珍しい。
よって前置きは長くなりますが、『GTO』を語るには『湘南純愛組』を語った方がいいだろうし、『湘南純愛組』を語るには『艶姿純情BOY』を語った方がいいと思いました。それの方が皆さんもより『GTO』を理解できるのではないでしょうか。

②『艶姿(あですがた)純情(じゅんじょう)BOY』の説明


その1.ストーリーについて
ホップ、ステップ、ジャンプのホップになる作品だと思います。この作品はラブコメです。(1989年連載開始)
歌舞伎役者の家に生まれた主人公・茜屋(あかねや)純(じゅん)は子供のころから女として育てられます。父親は純を歌舞伎の女形(おやま)にしようとします。実際、姿かたちや立ち振る舞いが、普通の女の子より女っぽく可愛い。
 15歳になった時、父親の願いで全寮制の聖カトレアヌ学園に入学する。女子寮の二人部屋で暮らすことになります。同室になった女の子は理事長の娘の藤村あやの。不良少女だが凄い美人。ラブコメの設定としてはかなりいいのです。

 男の子が女の子と同じ部屋に住まなくてはいけないという設定は、80年代ラブコメではたまにありましたがハラハラドキドキするのは間違いない。80年代のラブコメでは、物理的に男の子を女の子にどう接近させるか悩んだのです。学校で同じクラスにしても、学校外でも接近しやすくなってくれないとドラマが作りにくいわけです。学校外で何かをやらせる場合同じ屋根の下に住まわせるのがいいことになります。女子寮に自由に入れるというのは男の夢でしょう。

 しかし主人公の男の子が女形というのは当時驚きました。男が、女でいなくてはいけないという設定は80年代の少年ジャンプの影響を感じます。完全なラブコメです。男同士が殴り合って血を流すことなどない。『GTO』の作者が描いたとは、思えないほどほんわかしたラブコメなのです。

 この頃も必ずギャグを入れています。ギャグのツッコミの場面で、大きな木槌でぶっ叩いたり刀で頭を刺したりするコマがよく出てきます。こういう演出は高橋留美子をはじめとするサンデーの影響を感じます。

 主人公を綺麗な女子と思い込んでいる男の子たちが、次から次へと主人公の純に迫ってきます。また同室の美少女あやのに男だとバレテしまい、純とあやめも男女を意識してどうなるでしょうというドタバタコメディーです。
 ギャグを織り交ぜながら軽妙なテンポで物語は進行するのですが、これは後々の作品にも引き継がれ作者の財産になっています。とにかく読者を飽きさせないテクニックがこの作品にもうすでに完成しつつあります。
 
その2、絵ついて
 この頃の少年誌のラブコメの絵ですから目がでかい。特に女の子の目がやや縦長でこの当時のラブコメの典型的な顔です。主線も太くクッキリハッキリのわかりやすい少年誌らしい絵です。この当時から女の子を可愛く描く表現することにかなり力点が置かれています。数年後の『GTO』と同じ作家だとは普通思えないでしょう。

③『湘南純愛組』の説明


その1、設定について
1990年連載開始。第1話は、16歳の主人公たち鬼塚(おにづか)英(えい)吉(きち)と弾間(だんま)龍(りゅう)二(じ)が不良高校の湘南極東高校を退学して、童貞を卒業するために与論島に来るところから始まります。身なりも今風の格好になって軟派風の大学生のふりをする。不良の欠片も見せない。
そこで彼らが、女子大生と勘違いして女の子二人をナンパする。鬼塚と出雲真理子、弾間と村越鮎美、それぞれ仲が良くなりベッドインまで行くが、鬼塚たちは結局緊張で腹痛になり童貞卒業とはならない。

第2話ではケンカが始まり本性を出してしまい、つい高校を名乗ってしまう。二人の女の子に高校生だとばれてしまう。転入する湘南辻堂高校で偶然鬼塚たちはその二人の女の子に会う。それが先生だったという展開になっています。

当初は、鬼塚と出雲真理子、そして弾間と村越鮎美の微妙な関係が横糸になって物語は進行しています。主としてケンカと友情をめぐるストーリーです。女にモテない強い不良が童貞を捨てたいがために軽い普通の高校生を演じている。しかしつい地が出てケンカをしてしまう、しかも圧倒的強さで勝つという展開が最初は続きます。

作者は男の童貞心がよくわかっている。16歳が童貞でいる方が多くの読者の共感を覚えるのは当然です。社団法人日本家族計画協会の統計だとセックス経験が50%を超えるのは19歳か20歳で、その棒グラフを見ると現在でも16歳では圧倒的に童貞が多い。だいたい90%ぐらいです。つまり多数派なのです。ということは主人公を非童貞にすると読者の多くを敵に回すことになりかねない。もちろん童貞の人が童貞を失う過程を描いていたなら、読者の憧れですからよろしいのですが最初から非童貞の主人公はまずいのです。

よくあることなのですが、編集者の中に「最近の高校生はもっと進んでいますよ」などと断言する人がいます。たぶん自分が童貞ではなかったという経験に基づくものなのでしょう。自分が特殊だと理解していない。こういう人の意見は省いていい。特に少年誌では邪魔です。思春期の記憶が乏しい人は少年誌では危険です。読者と意識が乖離(かいり)し過ぎている。

余談ですがこの漫画が始まった頃、アメリカのハイスクールの校長先生と学生が会社見学に来ました。その時校長先生が突然日本語で私に質問し始めました。日系人だったのでさして驚かなかったのですが何故日本語に変えたのかは質問を聞いて分かりました。
日本の高校は一学年何人妊娠するのかという質問でした。まあ、学年に一人出れば大騒ぎでしょうと私は答えました。その校長先生がため息をつき、「日本はいい」というのです。なんでもアメリカでは一学年で10人以上出産してしまうことがあると先生は言います。それを聞いて驚いた記憶があります。妊娠ではなく出産です。今はわかりませんが当時それがアメリカでは問題になっていたのです。

文化の違いなのか、日本のゴム産業や厚労省の努力の成果なのかわかりませんが、それだけ日米では違っていたのです。よって高校生のセックス経験に対しての認識もアメリカと日本ではだいぶ違うのです。日本の読者に見せる漫画では鬼塚たちのような主人公でいいのです。

 だからこそこの設定を考え出した作者は素晴らしい。思春期の少年たちの視線で物語を作っているのですから。この作者は16歳の感情の記憶を呼び起こすことができる人です。 
 童貞だった頃は、変に年が近い女性相手に失敗したら恥ずかしいし、また最初に童貞を捧げるのだったら美人がいい。そこで年上の綺麗なお姉さんに導かれて捨てたいと、大抵の人が一度は妄想するものです。この作品は1話目でそれができそうな設定を仕込んでいます。読者の心をわしづかみしています。

その2、ストーリーについて
 第1話から第40話ぐらいまでは、基本的には設定を生かしたギャグ満載のラブコメになっている。鬼塚と弾間が童貞捨てられるのかなという興味で読める。前作の「艶姿純情BOY」の影響なのかどうかわかりませんが、そうなっています。これはこれで大変楽しく読める。

 ところが第40話目以降になると様相は徐々に変わってきます。高校や暴走族抗争劇に主人公たちは巻き込まれていきます。この時点になると主人公たちは不良ということを隠さず、堂々と他高校や暴走族と闘いはじめる。高校は極東高校、江ノ島商業など、暴走族は韋駄天、曼荼羅、暴走天使などと色々登場してきます。第1話で凄い不良であることを隠して軟派な高校生を演じていたのとはえらく違ってくるのです。一つの抗争劇が終了すると次の暴走族が現れる。このパターンが最後まで続きます。

印象としてはかなりシビアなドラマになっていく。しかし所々ギャグを忘れないのは作者の作風であり才能です。ふっと笑えるネタが出てくるのでしょう。これがドラマの暗くなるのを防いでくれています。
 時々三つ巴戦になってわかりにくいところはありますが、圧倒的迫力と勢いで読めてしまう。このような闘争劇が基本最後まで続きます。何だかギャグとコメディ要素がある『仁義なき戦い』を観ているような気がします。

 主人公たちは不良であるが、心を許した友人のためにとことん敵と闘う。また最初は敵対したが闘った後に、友情が芽生えている。とことん闘ったが故に相手に対して好感を持っている。死闘を演じた甲子園球児は試合が終わると握手するようなものでしょう。

 このようにして主人公たちの周りに友人たちの輪ができています。初期の闘いから友人になった「鎌倉の狂犬」の冴島と鎌田などは典型的な例です。彼らのような最初は敵であった人が、後々まで友人として出てきていい味を出してくれます。時には主人公を助けてくれたり、時にはギャグのネタとして和ませてくれる。敵を使い捨てにしていないところがうまいのです。

『湘南純愛組』を読んでいると、60年代~70年代の日活アクション映画や東映任侠映画を思い出す。時代が違うから風景はもちろん違いますが、ドラマ展開はよく似ています。男が男に惚れて、義憤から友人のために闘っている。

 松本健一さんという歴史学者と話している時に何故か映画の話になったのですが、その際、欧米人は高倉健などが出てくる東映映画を見て、ホモ・セクシャルの映画だと言いだすという話を聞いたことがあります。どういうことかというと、西洋人は女のために闘うのであって男のためには闘わないそうです。よって昔の日活映画や東映映画を見ると、男が男のために闘っているのでホモ・セクシャルの映画に見えるのだそうです。

 その時は欧米人にはそんな風に見えるのかと感心しました。「士は己を知る者の為に死す」と漢文の時間に習いましたが、欧米人にはわからないのかなと思いました。しかし香港をはじめ東アジアでは日活映画や東映映画の影響をかなり受けた映画人がかなりいます。
『男たちの挽歌』を作って大出世したジョン・ウー監督や、ジャッキー・チェンなどです。ジョン・ウーの映画を観ると確かにもろに影響受けていることがわかります。ということは東アジアでは、男が男のために闘う美学が理解できるのでしょう。儒教の影響なのか、東アジアではこの行動原理が理解できる。

 そうだとすると『湘南純愛組』では伝統的日本の美学を踏襲していることになるでしょう。読者に受け入れ体制ができていると思います。だからといって任侠映画みたいに辛気(しんき)臭くなっていない。エロネタ、ギャグネタを織り交ぜながらドラマが進行するので笑って読める。しかし肝心の男気を出す場面ではシリアスになっています。強弱がうまく成立している作品です。

 この漫画をジャンル分けすると、暴走族漫画、不良漫画となってしまいます。どうも不良漫画というと暴力シーンは迫力があって、描きたくて描いているのはわかるのですが、動機や行動原理がよく分からないものも多々あります。何の脈絡もなく、えげつない暴力シーンを見ていいと思うのは、暴力愛好者や嗜虐性のある人で常人にはついていけません。

『湘南純愛組』の鬼塚や弾間の暴力には正義、友情そして人情が絡む。行動原理が明確で思い入れできるのです。こういう原理を外すと少年誌ではウケないでしょう。
 せこくて情けなさもあるが強いというキャラクターが、第一話から貫かれていて回を追うごとに完成されている。こういう愛すべき欠点を持つ強い男というのは好かれます。ちなみに弾間龍二は途中で童貞でなくなりますが、鬼塚は相変わらず童貞で、しかもどうやらオチンチンがちいさいらしい。これも男の読者には好かれる。このキャラクターがGTOの鬼塚英吉に引き継がれています。

その3、絵について
『艶姿純情BOY』に比べたら格段にうまくなっています。デッサン力のアップは一目瞭然でわかります
当初は主線を太めの線で描いています。『艶姿純情BOY』のタッチが出ていますが、回を追うごとに変化というか進化しています。太い線、細い線をどんどん使い分けながら人物の質感や量感を出すようになります。『艶姿純情BOY』の時はサンデーの影響を受けているのを感じましたが、『湘南純愛組』ではジャンプの影響を感じます。特に江口寿史の影響を感じる絵が時々出てきます。ジャンプを研究しているのがわかります。

特に目がだいぶ変わりました。小さくなって、しかもやや横長になったのでリアルになってきています。当初は、前作のように上まぶたも下まぶたもほぼ一本線でしかも太い。これが後半になるにつれ徐々に変わっています。何本かの細かい線も使ったりして、まぶたの線に強弱をつけている。この方がリアルであり、微妙な目の表情が出せます。この作品の第1巻と最終巻では、かなり絵が変化していますが殊に目が違っています。『GTO』の目にかなり近くなったと言えるでしょう。

④ そして、「GTO」


その1.絵について
1997年連載開始。第1話を見て驚きました。絵が違うのです。それまでも若干ジャンプの影響を感じる作者でしたが、この作品で完全にジャンプ的な画質を自分のものにしている。マガジン的な泥臭いキャラクターや演出を持ち合せながら、ジャンプ的なシャープな画質で描いている。ジャンプとマガジンの融合を見たような気がしました。全体として前作に比べて洗練された絵になっています。

顔の輪郭線を含め主線が細めでシンプルです。余計なものが排除されている。ということはデッサン力がないと描けません。GTOではかなり女の人に力が入っています。女の人は元々可愛いのですが、体の曲線をシンプルな線で丁寧に描き切り色気が一層で備わりました。一気に凄い美人になった感じがします。

目も前作より横長で小さくリアルです。基本的には黒目に白い点を入れている見やすい目です。時々瞳孔(どうこう)を黒くして周りの虹彩(こうさい)を斜線で描いてありますが、見やすいのは確かです。変にトーンを施してガラス玉みたいにはこの作家は絶対にしない。そこはオーソドックスといえばそうですが、汎用性が高い受け入れやすい目をずっと描いています。GTOでもそれを実行しています。

まぶたの描き方が顕著に違います。基本細い線でありながら、一種のペンの震えが加わり強弱をつけています。アナログで描いているのだから当然だろうと思う人もいるでしょうが、まぶたの線を綺麗に描こうとしてまるで合成樹脂の人形の目になってしまう人もいるのです。それでは人間味がなくなってしまう。
実際の人間というのは完全な曲線や直線ではできていません。GTOではペンの微妙な震えを利用しながらリアルな目になっています。

また困った時や焦っている時の顔をデファルメする時、鼻の穴を広げさせて顔中に汗を大量に描いています。格好いい時の鬼塚の顔と落差があってキャラクターの幅になっていると思います。

その2.第一話目について
 鬼塚のキャラクターは、『湘南純愛組』と同様スケベでセコクて何故か非常に強いということを踏襲しています。絵がより洗練されたので、鬼塚は物凄く格好いい顔になっている。しかし相変わらずモテない。これは日本の男子に好かれる。もしスケベじゃなくてセコクもなくて、しかも格好よく強いとなると、嫌な野郎になってしまう。役者でも格好いいだけの人は長続きしない。

第7話で鬼塚は童貞で包茎とハッキリ言っている。22歳の教師なのに童貞というのは読者に親近感をグッと持たせています。また22歳で童貞というと、少年読者から僕らの仲間だという感覚になり主人公目線でドラマを追うことができます。そういう意味では鬼塚は幼いと言えば幼い。しかし少年誌はそれでいいのです。
「スケベでセコくてモテない」で読者の共感を呼びます。そうなると「格好いい」としてもいい奴に思えます。たまにこういう人はいます。こういう人は女にモテないかもしれませんが、男にモテる。
読者は勝手と言えば勝手なのですが、二枚目の主人公になりきってドラマを観るものです。自分が大した顔ではないことを忘れてしまう。読者は願望のままドラマを観ます。変な顔の主人公というのは余りいない。そういう意味では鬼塚が格好いいのはプラスに働くでしょう。

 第1話目から鬼塚の行動原理は明確です。女にモテるために教師になる、です。要するに女子生徒が目当てです。不純な動機です。決して金八先生みたいな教育者に憧れてなろうとは思ってもいない。後の話になりますが鬼塚は生徒を救っている。つまり結果的には教育者になっている。しかし第1話ではそんなことは微塵も見せていない。
それが後々効果的になっていきます。そんな一見どうしようもない先生が生徒を救うと、落差があっていい人に見えてしまう。

人間は錯覚の動物だと思います。普段凄くいい人がたまたま万引きなどやったりすると、それまでの善行が消去されてまるで最初から悪者のような印象を覚えます。逆にヤクザのように普段一般民間人に迷惑をかけている人が、非常時に炊き出しをしたり救助を手伝ったりすると、初めから本当はいい人だったのではないかと思ってしまう。
ポルシェと靴を交換させる鬼塚の場合後者に近くなるでしょうが、とにかく第1話目のキャラクター説明の段階で、この漫画の場合いい人の部分を出してはいけないのです。あくまでいい加減な人に徹頭徹尾描いているのは正しいでしょう。

その3.第2話目から第6話まで
 第2話から第6話まで鬼塚が教育実習する話です。ここで彼の教育観がかなりわかるようになります。彼が教育観なんて考えたことがないかもしれませんが、生徒を救っている。最後は先生というより人間としての人情として、結果的に生徒を救っているように見えます。とにかくこの教育実習生編で「GTO」のストーリーパターンのひな型ができています。

 可愛い女子生徒に鼻の下伸ばして、まんまと生徒たちによる美人局(つつもたせ)にはまって恐喝されてしまう。ここで爆発して根っからの凶暴さを発揮させて、男子生徒をブッ飛ばしていうことをきかせる。しかし首謀者の女の子の孤独に最後に気が付く。そこで鬼塚なりに考えて、強引に家の壁をぶち壊して問題解決の端緒を作っています。そして孤独な少女は少し幸せになっている。

だからといってその少女にそれをきっかけに言い寄ったりしていない。そういうところはウブなのかもしれないが潔い。これは読者に好かれるのは当然でしょう。
またストーリーにアドリブのギャグが多く笑える。アドリブが間の役目をし、また暗くなりそうなテーマを明るくしています。
 
その4.基本的設定について
伝統的に日本の教師ドラマは主人公が破天荒で、周りの先生もびっくり生徒も真っ青というパターンが多い。しかし心は生徒思いの優しい人間ということになっています。学校の中の理解者は校長先生か理事長または同僚の綺麗な女の先生です。最大の敵は校長の椅子を狙っている教頭先生です。

余談ですが、嫌な教頭などを設定にはめ込むことは緊張感を出すためです。『金八先生』でも一人だけ非協力的な嫌な先生が脇役にいました。「僕には責任はない」とか「どうして私がやらなくてはいけないんですか」と公務員根性丸出しでした。みんながみんな主人公の意見に賛成と言ったらドラマができません。単純なことですが、これを最初に考え出した人はうまい装置を編み出したのです。

だれがこの伝統的教師ドラマのパターンを編み出したかと考えると、石原慎太郎ということになります。「えっ!?」と思う人もいるかと思います。石原という人は、当初『太陽の季節』などの純文学(ちょっとエッチですが)も書いていますが、後に青春ものと呼ばれる明るい作品もかなり書いています。強面の政治家というイメージからほど遠いのですが、小説『青春とはなんだ』や『青年の樹』などです。両方とも石原裕次郎主演で映画になっていますが、テレビ版の方が影響力はあったと思います。

日本テレビの日曜8時枠は現在とは全く違います。昔はいわゆる東宝青春学園シリーズになっていました。最後は中村雅俊ですが、最初にやったのが『青春とはなんだ』(1965年~1966年)です。主演は夏木陽介。青春ものと呼ばれるドラマは何故かラクビーかサッカーをやることになっています。石原慎太郎がラグビーやサッカーが好きだったせいなのか、それとも男らしくて結束させるために都合がいいスポーツだったからなのかわかりません。卓球部や陸上部が舞台になったことはない。

今考えるとセリフ回しやストーリー自体も臭いのです。だいたいタイトルからして「青春」がくっついていて臭いですねえ。今だったらこっぱずかしくて、こんなタイトルつけないでしょう。でも昔はそうは思わなかったのです。
私は当時6歳だったのですが、ませていたので観ています。早く高校に行ってみたいと思っていました。テレビに出てくるような高校や面白い先生も結局いませんでしたが、小学生の頃はそんな感じでした。

とにかく石原慎太郎が作った青春教師ドラマがシリーズ化されて、なんやかや言って10年以上続いたわけですから、こういう基本設定を日本人は好きなのでしょう。また勉強を教えること以外の何かを、教師が求められていることも昔からあったのです。

作者が相当これらの青春学園シリーズを意識しているのは当初から感じます。もちろん当時とは30年近く違うのですから風景、風俗が違うのは当然です。しかし基本設定がやはり似ている。『GTO』の第100話目で、ある生徒が「レッツラゴー!」と言っています。これはレッツゴーをもじったものですが、この言い方は元々『これが青春だ』(1966年~1967年)に出てくる生徒が必ず言っていた言葉です。

たぶん年齢的に作者はこのドラマシリーズの初期を再放送で観ていたのだと思います。この体験はかなり作品作りに役に立ったのではないかと思います。30年も経てば中学生、高校生はそんなドラマなど知りませんから基本設定が似ていることもわかりません。つまり新しいドラマを読んでいる感じでしょう。作者の選択は正しいのです。

もし作者がそれらのドラマを知らないで作ったとしても、かつてウケたドラマの基本設定にかなり似ていることは確かです。無意識にGTOの設定を考えたとしたらそれはそれで凄い才能です。

その5.「GTO」は教育漫画!
 この作品をヤンキー漫画とか暴力漫画と言ってしまう人もいますが、明らかに教育漫画です。バイクで橋げたから飛び降りたり、不良相手にぶっ飛ばしたりしています。一見するとその手の漫画のようにも見えますが、それは単なるオーバーな演出に過ぎないでしょう。

問題児がいろいろ出てきますが、彼らの心の闇に迫って描いています。また真面目であればあるほど教師は大変だという、教師側に立って描いている話もあります。
基本設定が昔の学園ドラマに似ていることもありますが、最終話で「あなたにとって学校ってなんですか?」「あなたにとって教師ってなんですか?」とベタ白抜きで読者に問いかけています。ということは当初から教育をテーマにしているということでしょう。

 この漫画が新連載として雑誌に掲載する前、偶然次週予告を見て担当者に「『GTO』って、どういう意味なの?」と訊きました。「グレイト ティチャー オニヅカの略です」と聞いて、あの鬼塚のスピオフかと思いました。そんなに成功するのかなと疑問にも思ったのです。
 それには理由があります。教師漫画は本当に難しいのです。私自身一回やりましたが失敗でした。中学生、高校生の読者が一日のうちで5,6時間も過ごすのは学校です。学校を舞台に、しかも教師ものを求められているのはわかるのですが、どういうドラマにするかで頭を抱えるのです。

 まず教育問題というのは解決案がありそうで余りない。例えば不登校の生徒やいじめられっ子を助けようとするドラマを作って漫画の上で解決しても、読者から見ると「ウソだ~!」になってしまうことが多い。難しい問題でなかなか解決しない問題だからです。読者はそれをよく知っているのです。
 またよく教師漫画でやってしまうのですが、金八先生的に先生のキャラクターや情熱で問題を解決しようとすると、今度は「くせ~!」と思われてします。テレビで武田鉄矢がやっているからいいのです。実際に熱血になって人間が生徒と対応しているから、フィクションでありながら本当にあるかもしれないと視聴者に思わせる。しかし絵で金八先生的に演出すると、説教臭さしか印象に残らないようです。
ただし教師ドラマが求められているのも確かです。

その6.鬼塚の教育論
 たぶん鬼塚本人は自分の教育論に気がついていないかもしれません。しかし問題に対する態度はぶれていません。問題の生徒ととことん付き合っています。鬼塚の教育は、生徒に「こうしらどうだろう?」と解決案を提示していません。しかし悩んでいる生徒に徹底的に付き合ってあげている。その子が自分なりの解決の糸口ができるまで、何やかや言って隣にいてあげている。しかも照れなのか、先生らしくしたくないのかわからないが、いつも別の理由を付けて隣にいます。

 おおよそ教育問題は解決が難しい。生徒個人個人によって問題は違うし、解決不能な問題だってある。尾木ママがどんなに優秀だろうとも無理なものは無理です。それは読者だって知っています。
 ただ鬼塚みたいな人間が隣にいてくれたらホッとする。悩みは結局その個人が妥当値を見出して、自分自身で解決するしかないと読者もそれとなくわかっています。しかしそれは孤独な作業です。鬼塚は一見メチャメチャだが、いつの間にか孤独な生徒の隣にいる。生徒に殴られようが、刺されようが、はたまた撃たれようが、鬼塚は常に生徒の隣にいます。鬼塚は教育論的なことは一言も言わないが、教師ができる最大限のことを行動で示しています。

 例えば第30話から始まる野村朋子という生徒の話がありますが、朋子は『トロ子』というあだ名を付けられて他の女子から徹底的にいじめられています。そのイジメラレっ子のトロ子を勇気づけるために、鬼塚は強引に美少女コンテストに出場させています。結果的に特別賞を獲り元気づけ、イジメっ子は落選させている。私のような凡人はここの辺りをラストにして盛り上げようとします。感動ものに仕上げようとします。それはそれで一つの解決案なのですが、往々にして臭い芝居になりがちです。

『GTO』が凄いのは、その女の子のテレホンカードをコンテスト会場の外で、鬼塚が売って儲けているエピソードを最後に入れていることです。一見これが鬼塚の目的のようにも見える。しかしよく考えるとこれはおかしい。本当にこのようなことが目的ならば、他の気のきいた可愛い子をコンテストに出す方が手間はかからない。わざわざこのトロ子を引き出す必要がないのです。

 読者も気が付くでしょう。鬼塚は実際イジメラレっ子を立ち直させている。テレホンカード売買などの行為は鬼塚の茶目っけぐらいにしか思わないでしょう。このエピソードのもう一つの効用は、「さりげなさ」です。さりげなく生徒を救っている。よって説教臭さを払拭させている。

 また生徒だけではなく先生にもとことん付き合っています。変態教師の勅使河原(てしがわら)が、美人教師の冬月(ふゆつき)先生を監禁する話があるが、勅使河原が自殺するのを助けて最後に優しい言葉をかけます。アブノーマルになった敵にもそれなりの事情があると描かれています。どこかヒューマンな感じがします。
普通の漫画ならヤラレ役として処理してしまうところを、再起させている。生徒目線からだけではなく、人間として鬼塚に魅力を感じてしまう。
 このような人間鬼塚の魅力を感じるがゆえに、福引きでベンツを当てたり、壁を拳骨で壊しても大して気にならない。

その7.『艶姿純情BOY』の経験値
かつてラブコメを作った経験がいきています。例えば第98話からの沖縄編で、生徒の杏子と川口が道に迷ってしまう話があります。それまで杏子は川口のことをバカにしていて時々いじめていたのですが、今まで見なかった川口の男らしさにだんだん心が魅かれていきます。最後には洞窟に二人きりになります。手と手が触れあっただけで頬を赤らめる仲になっている。初恋のハラハラドキドキ感を作者は忘れていません。14歳の心模様を表現できるのは作者の強みです。

その8.結論
 作者は『艶姿純情BOY』でギャグを織り交ぜた軽妙なテンポを身に着け、『湘南純愛組』で男の友情という世界を見出しました。『GTO』で両者はさらに磨かれ、さらにキャラクターと絵のグレイドアップ化を実現させています。藤沢とおるという作家の完成と成熟がなされていると思います。

漫画だけではないのですが、小説にしても映画にしても面白いエピソードを並べたら大ヒットするわけではないのです。第一にはエンタテインメント主義でなければなりません。しかし作品の底辺に読者が共鳴し納得する思想性がないとダメな場合もあるのです。「GTO」の場合隠されていますが作者の教育に対する信念を感じます。それを露骨にせずエンタテイメントに仕上げているのがいいのです。

 編集者も作家に対して何らかの企画、提案をする時に、それなりの信念がないと説得力のある作品またはシーンにならないことが多いのです。読者は気楽に漫画を読みたいが決してバカじゃない。今これが流行っているから場面の中に入れましょうと、安易に取ってつけたようなエピソードやシーンを入れても読者に拒絶される可能性があります。(それはグラビアや記事ページ作りも同様なのです!)。

 新連載が始まった時第何話で終わるかわかりませんが、製作者側にあるメッセージ、難しく言えば思想や信念をもって作らないと、読者に薄っぺらな作品と思われてしまうこともあるのです。
『GTO』は笑ってハラハラして気楽に読めるのですが、全巻読むと心にズーンと残る作品になっています。
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