「芸術」と「自然」をカラダが求めている

私はまもなく24歳だが、生まれてから18年間東京で育ってきた。その後、大学時代に別府に住んでいた。卒業後の4月から、また東京に住んでいる。

大学4年間と今年4月からの東京生活を通して、「芸術」と「自然」、この2つをカラダが欲しているのをしみじみと感じる。

大学4年間、別府では、海と山に囲まれて暮らしていた。毎日海の音色を聞いて、山の緑や四季のうつろいを見てきた。その分、夏休みと春休みに東京に帰省するとき、必ず美術館や博物館に行っていた。帰省が近くなると、勝手にカラダが東京の展示会情報を調べていた。カラダが「芸術」をほしがっていた。ある教授は、授業の雑談で「文化的な生活」と表現していた。(ちなみに、その教授も私と同じ現象が起こると言っていた。)

別府には、大きい映画館(古いシネマはあった)や美術館がなかった(香りの博物館というものはあったけど)。大学3年になるまでは、隣の大分市のショッピングセンターに行かないと映画館がなかった。東京だと考えられないかもしれないけど、友達とレンタカーで映画を観に行ったこともある。その方が電車とバスを使って行くより安かったから。レディースデーとも無縁の生活だった。

まだ、映画はNetflixやAmazonプライムで触れる機会があっても、美術館や博物館は本当に行く機会がなかった。若手のイラストレーターの作品やプロジェクトはあったとしても、いわゆる「一流モノ」に触れる機会がなかった。Netflixや若手のイラストレーターの作品は、「見る」イメージ。映画館の映画やピカソの絵は、「観る」イメージ。

東京に住んでいる今は、映画館は主要な駅にあるし、仕事帰りでも観られる。街のちょっとした美術館に、ふらっと寄ったりもする。「見る」芸術にも、「観る」芸術にも、東京はあふれている。その一方で、まぁご存知の通り、緑がない。街路樹は、人工的に配置されている。当たり前だが、あんな等間隔で木は生えない。

私は東京で暮らしていると、たまに雄大な山々や広い森の中に行きたくなる。遠出をしたとき、車や電車の車窓から緑がみえると、心が躍るし落ちつく。何か大切なモノを取り戻した気分になる。

この「芸術」と「自然」を求める私のカラダの構造は、ほんとうに未知だ。

「人間は社会的動物である」と大学の講義で聞いた。社会的動物の定義はこうだ。

「人間が個人として存在していても、その個人が唯一的に存在し、生活しているのではなく、絶えず他者との関係において存在している。
つまり個人が社会のうちにおいて生活し生存しているのであって、社会なくしては個人が存在しないことを意味する」
https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%8B%95%E7%89%A9-75674

つまり、「人間は個人として存在していても、絶えず他者との関係において存在している」ということだ。他者とは、「自分以外の存在」のこと。他の人も、今座っているイスも、言語も、このnoteも他者。上で話してきたような「芸術」も「自然」も、他者である。

つまり、人間は「他者との関係」ーここで言うところの「芸術」との関わりや「自然」との関わりのなか、で暮らしているということだ。

私のカラダが「芸術」も「自然」求めるのは、それぞれとの関わりが、暮らしていく上で絶えず必要だからなんだろう。

人間は「他者との関わりのなかで生きている」。コレも大切なこと。

#日記 #とにっき #芸術 #自然 #社会学 #社会的動物

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