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彼女のブラックコーヒーと真っ白なミルク

やっと言えたぞ。
ついに言ってやったぞ。
市ヶ谷駅近くの純喫茶で僕は彼女を前にひとり昂っていた。
音量の調節がうまくいっていないジャズとうるさいほどに高なった僕の心音とが綺麗な不協和音を描いて僕の鼓膜を叩いていた。
「別れたいなんてそんなこと突然言われても。」
彼女は手に持っていたコーヒーをソーサーに戻して、困惑した様子で言った。
店内には、僕らとゴシップ雑誌を広げた初老のおじさんひとりだけだった。
「ごめんよ。でも、君とは合わないなとずっと思っていたんだ。これは恋愛的なことではなく、人としての相性のことで。」
未だ胸の昂りが抑え切れない僕は、薄茶色の古びたソファに背を預けると、さとられないように毅然として言った。
僕はこのときをずっと待っていた。
初めからユキとは別れるつもりだった。
僕はまだ女の人が男を好きになるということが現象として理解できていなかった。
それをどうしてもこの世の事実として理解したかった。そのためには、誰かと付き合って、誰かと別れて、誰かに泣いてもらわなければならなかった。
一番。相手が一番自分のことを好きでいるタイミングで別れることが大切だった。その方が相手からの愛情を強く感じられると思ったからだ。
しかし、そのタイミングを見極めるのは、好きでもない相手と手を繋いで夜景なんか見ながら、好きだと囁き合うことよりももっとずっと難しかった。
そもそも、今考えたら、相手が僕のことを好きであるのを確認する為に、相手が僕のことを強く好きであるタイミングを探るという意味のわからないことに僕はずっと頭を捻らせていたことになる。このことに気がついたとき、全く何事も感情で動いてしまう僕らしくて思わず笑ってしまった。
ゴシップ雑誌からちらりと目を上げた隣席の客と目があう。手入れのされていない白髪がまるでメデューサのようにあっちへこっちへ流れていた。
「私はまだ別れたくない。何か嫌なところがあったなら直すからお互いもっとちゃんと話し合った方がいいよ。」
彼女がまるで他人事のように落ち着いて言った。
「わかった。少し話し合おう。まず君はさ、今こそきちんと話し合おうなんて言ったものの、普段は全く話し合いをしようとはしないよね。僕が何か話し合いを持ちかけても君はそんな気なんてサラサラなくて、僕がいつも折れるんだ。それで君はあたかも何か問題が解決したかのような顔をするけれど、その実なんだって解決していない。ただ僕のストレスが溜まっただけ。違う?」
僕は彼女を追い詰めるように捲し立てて言った。
「…ごめんなさい。確かに平岡くんの言う通りだね。私はいつもあなたの優しさに甘えて、身勝手な振る舞いばっかりしてた。」
俯きながら彼女は答える。
「それに、君はすぐに人のことを否定するよね。ユキちゃんが今までどうやって、どういう環境で生きてきたかは分からないけどそれは辞めた方がいいんじゃないかな。多分人間は大抵の場合共感されるのを求めてると思うよ。僕はまだしも周りの友人たちも本当は君のことを鬱陶しがっているんじゃないかな。」
言い過ぎたかなと少し思いつつも、好きでもない女の悪口というのは何の躊躇いもなく、いくらでも出てくるものだなと自分で自分のことが怖くなる。
ふとカウンターに目を移すと、暇を持て余したマスターが天井のシーリングファンをじっと見つめながらキュッキュッと音を立てながらカップを拭いていた。
「どうしてそんなこと言うの。一体そこまで言う必要があった?これじゃただの悪口じゃない。話し合いなんかじゃないわ。あなたにはいつも優しい笑顔の裏にそんな怖さが見え隠れしてた。だから、私はそれがこわくてあなたと話し合いすることを避けていたのかもしれない。」
彼女はか細い声でそういうと、小さくて、今まで日光に当たったことなんてないんじゃないかと思わせるほどに白い手を振るわせて、目を潤ませ始めてしまった。
まずい。泣かれる!これで泣かれてもただ僕が悪口を言って泣かせただけになってしまうじゃないか!
僕が求めていたのは彼女が僕と別れたくなくて流す涙だったのに!
そんなことを考えていると声を振るわせた彼女が口を開いてゆっくりと言った。
「私からも言わせてもらえば、あなたこそ私に愛してるだなんて言ってくれたこと全然ないじゃない。可愛いだのなんだのたまに言ったと思っても全然気持ちがこもっていないんだもの。嘘をつくにしろ、もっときちんと演技力を磨いてよ。私は本当に君のことが好きだったのに、いつも私は不安だった。あなたには一方通行の愛の怖さなんてわからないんだわ。私があなたのことをどれだけ愛していたかあなたは知ってる?少しでも考えたことがあるかしら。初めてのあなたとのデートが決まった日、私は嬉しくて嬉しくて最寄駅から家まで走って帰ったわ。あなたと会う前日はどうしたらあなたに可愛いって思われるかななんてことばかり考えて、あなたと会った日は、あのときあんなことを言ってしまったのは失敗で一体あなたに嫌われてしまったんじゃないかとあなたの表情ひとつで一喜一憂してた。私の世界の中心には常にあなたがいて、あなたが笑えば世界は明るくて、あなたが眠れば夜は静かだった。」
彼女の話を聞きながら僕は冷たくなったコーヒーにミルクを混ぜる。小学生のようにくだらない僕の身勝手さがゆっくりと、ミルクと一緒にコーヒーへ溶けていった。
「君がそんなに僕のことを考えていてくれてたなんて全く思いもしなかったよ。確かに言いすぎてしまったかもしれない。ごめん。」
隣席のおじさんを見ながら僕は言った。
有り余った時間を弄ぶようにゴシップ誌に熱心に目を通していた。水のように薄くなったアイスコーヒーのグラスがテーブルを濡らしている。
「ううん。大丈夫。ねえ。私まだ別れたくないよ。」
彼女は僕を見つめながら言った。
人はなくして初めてそのものの大切さに気づくなんていうけど、このときになって初めて、彼女のことを本当に好きになってしまっていたのだと気が付いた。
けれども、時既におそく、彼女はもう離れていってしまう。僕が今ここで、別れるのは辞めにしよう。とそう言えるなら、あるいはこのまま幸せに関係を続けていくことが出来るのかもしれない。
しかし、僕にはそれが出来なかった。あんなことを言ってしまった手前、今更、僕も別れたくないよ。なんて口が裂けても言えなかった。その一瞬の恥というのは僕の中では、彼女とこれから付き合い続けることの幸福さを優に上回っていた。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど別れよう。やっぱり君とはもううまくやっていけないよ。」
別れたくない気持ちをさとられまいと僕は薄茶のソファに背をつけて答えた。
「どうしても、かな。どうしても私たちはもううまくやっていけないのかな…?」
「うん。どうしてもだよ。僕たちはもううまくやっていけはしない。別れよう。」
僕がそう言うと、少しの逡巡のあと彼女は口を開いた。
「わかった…あなたと過ごした時間は楽しかった。今でもまだあなたのことが好きだけれど、私のことを好きではないあなたと一緒にいてもきっと辛いだけだもんね…別れよっか。」
彼女はそういうと、それじゃあね。と店を後にした。白の水玉があしらわれたロングスカートを履いた彼女は今日も可愛かった。
彼女が出て行って、男だけになってしまったカフェでは、音量の調節がうまくいっていないジャズと僕の啜り泣く音とが不協和音を綺麗に描いて僕の鼓膜を叩いていた。

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