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エンターテインメント的戦争教育論

 こんなタイトルの記事をいそいそと書いている若者がこの国にいるなんて、と嘆きたくなる方もおられることとは思うし不快に思われる方もいると思うが、ここは19歳の私が私らしく、思っていることを素直に書こうと思う。

 昨今、サブスクライブ形式でのアニメ産業が賑わいを見せていることはすでに周知の事実であると思う。漫画への理解もかなり昔からではあるが大きくなってきている。デジタルゲーム業界もかなり大きな市民権を得ることに成功りており、「Eスポーツ」という名称で今後も権利拡大がなされていくことだろう。新型コロナウイルスによる特需で恩恵を受けた作品はアニメや映画、ゲームなどそれぞれの界隈に存在し、ゲーム業界はその市場全体が拡大したほどであった。そして、こういったカルチャーとは切っても切り離せないのが戦争であると考える。結論から言えば人と人とが生死をかけて戦うドラマに、私たちはめっぽう弱い。

  FPSというゲームジャンルは銃撃戦に参加する兵士となって一人称視点で戦いに参加し、時には別のプレイヤーが自分と同じように動かしているアバターと戦う。というのが大筋である。スマホのような多機能携帯型端末でもプレイすることができるという手軽さも相まって、大人から小学生までもが様々なタイトルを楽しんでいる。そうしてオンライン上で楽しくアバターを殺め合っている。もはやスポーツの要領で、猛者も初心者も同じ競技を嗜むようにモニターに映る敵アバターに銃口を向ける。それが、一度かじってみたことがあるのだがこれが結構面白い。足音や発砲音や打たれた方向から索敵し狙撃。近距離で接敵すれば反応速度の戦いになる。確かに戦争を模したゲーム作りや、リアルで豊富な銃のレパートリーには、一人の男の子として擽られるものがあった。ここに(危険であるか否かはあえて置いておくとして)倫理的な争点がある。

 アニメ、漫画業界における戦争の歴史はとても古く、いまさら説明が必要とは思えないほどに定着し、今もなお新作としてミリタリーや戦記が続々とリリースされている。古い歴史を紐解けば『機動戦士ガンダム』や『装甲騎兵ボトムズ』などがあげられる。2010年代の人気作で現在アニメの最終クールが放送されている『進撃の巨人』はまさに異形との闘いから始まるが、原作の33巻を手に取ってみた限り、悪と正義の戦いではなかった、敵と味方の戦いである。繰り返されてきた怨念の渦や、愛国心や国際関係に翻弄されるキャラクターたちの姿を見ると、とても絵空事のようには思えないリアルな心理描写とそれによる葛藤や選択の結果が、そこにはあるように思われた。どれもSF・ファンタジーではあるが、私たち日本人が嫌というほど受けてきた戦争教育のような香りもする深い面白みがあり、かっこいい作品だ。そう、面白みが確かにあるのである。まさにここが、日本人ならば今まで散々受けさせられてきた戦争教育との倫理的な争点になると思う。逆にそうなっていない状況に疑問の念を禁じ得ない。私は、違和感を覚えたのである。戦争に美学やカタルシスを求めてしまっているのではないか、戦争がそんなに面白いのか。

 今この国に限って言えば平和である。(私は日本にしか住んだことがないのでこの場においてはこういうことにしておく)そして、私に違和感を感じさせているこの現象は、平和であることの証明ともいうことができる。
芥川龍之介は「戦争は、その経験なき人々には甘美である。」という格言を残している。つまり、平和を生きる私たちにとってFPSやミリタリーアニメを見て快感を得、カタルシスに浸っているこの一見不健全な状態も、道理に即しているということになる。平静な社会を安心して生きる私たちにとって戦争とは甘美なものらしい。『ゴーマニズム宣言 戦争論』では「戦争はいつの世も人類を発展させてきた」といった名言(もといパワーワード)が述べられていて、右に偏り切った考え方と割り切ることはできない事実である。そして芥川の格言を逆説的にとらえれば、日本人が執拗に受けさせられてきた不快な教育に強力な論拠ともとれる。「The facts of life are that a child who has seen war cannot be compared with a child who doesn’t know what war is except from television.」と言い放ったフランスの哲学者の発言が、私たち戦争を知らない世代にとっては不愉快でしかなかった戦争教育の目的を示唆している。そして同時に、戦争教育の失敗と至らなさを白日の下に晒してしまっているのである。

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