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[No. 86] 藤原肇著

<ここ数年「桜を見る会」疑惑のように、権力の座にある政治家が、検証が難しいことには徹底して嘘をつくケースが増えているように感じる。この風潮には憤りを禁じ得ない。そして、世間が忘れかけている疑惑がもう一つある。小池百合子東京都知事のカイロ大学文学部社会学科卒業に関する学歴詐称疑惑だ。小池氏の「学歴詐称疑惑」は以前から囁かれており、週刊誌などでも取り上げられたが、決定的な証拠を突き付けるまでには至らなかった。そうした中、「文藝春秋」2018年7月号に掲載された『小池百合子「虚飾の履歴書」』(筆者・石井妙子、以下『虚飾の履歴書』)は、疑惑の核心に肉迫するレポートだった。・・・>

 こんな書き出しで始まっていた、作家の黒木亮のJPプレスの連載記事は、五度の現地取材をしただけあって、サラリーマン記者にはとても書けない、迫力のある情報が満載だった。特に、「小池氏がカイロ大学の卒業要件を満たして卒業したという証拠、印象、片鱗は何一つ見出せなかったと共に、2016年にカイロで出版されたハーテム氏のアラビア語の伝記『アブドル・カーデル・ハーテムの日記-10月戦争政府の首班』(著者はエジプト人ジャーナリストのイブラヒム・アブドル・アジーズ氏、邦訳未出版)には、「エジプトのための日本との友好」の箇所に、ハーテム氏は中曽根康弘氏と1954年以来親交があり、中曽根氏から友人の娘であるとして当時学生だった小池百合子氏を紹介され、面倒を見ていたこと、小池氏がハーテム氏をGod fatherとか心の父と呼んでいたこと、小池氏に毎月14エジプト・ポンドの小遣いをやっていたことなどが記されている(小池氏は『振り袖、ピラミッドを登る』の250ページに、エジプト政府から毎月12ポンドの奨学金を受けていたと書いている)。」とあり、これを読み私は直ぐにピーンと来た。


 国際政治を分析するブログに、次のような指摘があって、CIAのセイヤー教授の手引きで、1954年は中曽根とキッシンジャーが出会い、中曽根とハーテムが親交を結んだ年でもあった。国際政治の裏を知るブログに、次のような記述があるが、1954年の秘密を理解する上で、以下の記述は参考になり、歴史の交差点を知るためにも、極めて便利なサイトとして役に立つ。


 < ・・・アメリカの軍事的な大学の三本柱は、ジョージタウン大学、ジョンズ・ホプキンス大学、コロンビア大学の三つである。このことを知らないとアメリカを知ったことにはならない。アメリカを知らないということは、日本人が自分たちの支配者を知らないということである。つまり、自分が誰に管理されているのかよくわからないで生活しているということである。

 ビル・クリントンや河野太郎が、ハーバード大学ではなく、あえてジョージタウン大学に入学しているのは、そういった軍事的な知識を得るためであり、そういった人脈とつながるためである。CSISのマイケル・グリーンの出身校は、ジョンズ・ホプキンス大学である。小泉進次郎が留学した大学は、コロンビア大学である。

 大学は軍事的なIntelligence のセンターであるが、植民地支配に関しては、もう一つ重要な役割がある。それは、植民地のヤジロウ(山根注。ヤジロウ。(弥次郎(1511年(永正8年)頃?-1550年(天文19年頃?))は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物。-ウィキペディア。)候補をそこに入れて、洗脳する役割である。しかし、勘違いしてはいけない。支配者はヤジロウを無理やり洗脳するのではない。現実においては、奴隷の方が、自らすすんでそうした洗脳センターに入っていくのである。それがアンクル・トム(Uncle Tom)の出世街道だからである。

 1549年、最初のイエズス会士が日本の地を踏んだ時には、ヤジロウは一人しかいなかった。彼は当時の日本人からすれば、怪しい南蛮人の通訳にしか過ぎなかった。しかし、その後ヤジロウは進化し、ヤジロウでなければ日本で出世できないという時代が訪れた。戦後の総理大臣で安定政権を築ける者は、必ずエージェントである。つまり、首相がエージェントではないのなら、その政権は短命であらざるをえない。

 こうした「岸方式」は、戦後の植民地支配のシステムとして、今に至るまで続いている。これに気づいて、自分からすすんでアメリカの洗脳センターに入った政治家が、大勲位の中曽根康弘(1918-)である。彼は、岸信介も参加していた道徳再武装運動に参加し、そこでアメリカ人有力者とつながった。

 
 ここで中曽根は、ジョンズ・ホプキンス大学教授のナサニエル・セイヤーと知り合った。セイヤーはCIA東アジア部の幹部でもあったので、中曽根は彼を通してCIAとつながりを持つことができた。そうして彼はCIAのエージェントとして、日本の政界で出世街道を駆け上がることになる。


 中曽根が後に原子力政策に邁進したきっかけは、ハーバード大学教授のキッシンジャーと知り合ったことであった。セイヤーの紹介で、中曽根は1954年、初めてハーバード大の夏期講座に参加した。それがキッシンジャーのゼミナールだったのである。中曽根はそこで原子力の重要性についてたたき込まれ、キッシンジャーは中曽根を原発建設に誘導した。

 中曽根とハーテムが親交を結び、CIAの手先になった頃から、小池百合子の父親の勇二郎が、中曽根と結びつきを持ち、中曽根が通産相だった1973年に、小池百合子はカイロ大に裏口入学した。それを手伝ったのがハーテムで、彼はカイロの士官学校を出てから、カイロ大学、ロンドン大学を卒業し、ナセルが主導したクーデタに、自由将校団員として参画した。

 その後の彼は国会議員として、大統領府副大臣になり、ラジオ・テレビ担当国務相や文化相を経て、1971年に副首相兼文化・情報相を務め、長らく国民評議会議長として君臨した。こんな辣腕の政治家に拾われ、自宅に住む好待遇を受けて、手当まで貰っていた関係は、現代版のマタハリ役を託されても、不思議とは言えないのであり、今後の調査報告が興味深い。

石油ショック頃の中曽根通産相とハーテム文化情報担当副首相
ピラミットで遊ぶ小池百合子

 1973年10月6日に、エジプトとシリア両軍が第四次中東戦争を起こし、スエズ運河とゴラン高原に展開する、イスラエル軍に攻撃を開始したので、日本は石油パニックに見舞われた。エジプトを支援するOPEC諸国が原油価格を数倍に引き上げたため、石油危機が発生したことにより、「非友好国」とされた日本は石油供給の削減措置を受け、経済危機に陥った。政府は三木武夫副首相や小坂善太郎元外相を派遣し、サウジアラビア、エジプト、アルジェリアに頭を下げ、日本を「友好国」に変えるよう訴えて歩き、この石油危機を予告した拙著は、ベストセラーになっていた。トイレットペーパーの買い占めや、節電騒ぎが日本を支配し、私はメディアに追い回されて、石油危機の問題を論じたので、田中内閣の大混乱を始め、中曽根が支配する通産省が、何をしたかの情報が集まり、日本の政治の出鱈目さを理解した。

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