古書店随想数珠つなぎ
文京区小石川に越してから、はや五年ほどになる。(住所を正確にいえば小石川ではないのだけれども、由緒ある小石川に接する地点にあるため、憧憬と敬意を表してそのように称している。)長期間一所に定着すると、どんなに素晴らしい住まいでも欠点が見えてくるものだし、じっとしていると自分の考えまでが凝り固まってしまうようで、そろそろ引っ越しの時期なのかとも思わなくもないが、基本的にはその「地の利」に満足しているので居座り続けている。なんといっても有難いのが、神田神保町の古書店街に歩いて出向けることだ。そんなこんなで、まだほんの少しひんやりする指先を春先の陽気に溶かし込みつつ、そぞろに古書散策に出かけた。
神田の古本屋といえば、明治時代からの伝統があるわけで、戦前においても古書収集家にとっては聖地だった。一例を挙げれば、海運実業家であった住田正一(1893~1968年)に『太平洋の地図』(1942年、東洋堂)なる著作があって、その中の「古本屋」という一編に、彼の古書収集の趣味にまつわる思い出が書かれている。
彼の読書と古書収集の遍歴は以下のようなものだ。小学生時代に雑誌『少年世界』に掲載された歴史物語や、当時人気のあった押川春浪、江見水陰の冒険談を好み、わずかな小遣いを古本屋の雑誌購入にあてていた。中学生時代は、尾崎紅葉、小栗風葉、小杉天外、田山花袋、徳富蘆花の小説に人気があったが、小説は高価のため、古本屋を使って買い求めた。高校時代には図書館を使いつつ、金を工面して古本屋を漁り、ワイルドの『ドリアン=グレイ(の肖像)』やゲーテの『ファウスト』といった英独の原書を買っている。大正4年に東大に入学するため上京してから、いよいよ噂に聞いていた神田の古本屋に出入りすることがかなう。実際に見て、想像以上に数も種類も多くの本があることに驚いたとある。住田は、古本屋が「恩人」であると述べている。というのも、試験の点数が直ちに出世の道につながっていた当時、彼は血の滲み出るような勉強を続ける必要があったが、猛烈な勉強の鬱を散らすため、神田や本郷の古本屋を歩き、心機一転して頭の保養ができたからであった。
そして社会に出てからも、住田の「古本を捜してみたいと云ふ気持は少しも減退しない」のである。考古学や海事関係の和本を収集したり、常に何らかのジャンルの古書を集めて、集めることがすっかり習慣化してしまった(彼の「古書趣味」という別の一編には、古書収集を通じて知り合った宮武外骨との交流などが書かれていて、これも興味深い)。「古本屋」の末尾では、古本にまつわる感慨が以下のように記されている。
古い和本をめくつて居ると、紙の間から銀杏の葉が押しをした儘で出て来る事がある。何百年も前に、此の本を読んだ人が丁寧に虫除けの為に挿入して置いたものである。それを手に取つて見ると、何んとも云へぬ懐しい感興が湧き出て来る。其の昔此の本を読んだ人は何んな姿、如何なる職業の人であつたか、あれこれと想像を逞しくする。そして其の人は何んな人世の歩みを続け、何んな一生を送り、何んな人世観を持つて終つた人であらうか。
蔵書印を見るさへ懐しく思ふ。況んや其の持主の書き入れや註解が在つたり、自分で本の手入れをした跡が見えたりすると、何んだか百年の昔の人に会つたやうな気がする。過ぎにし人と、今生ける人とが、本と云ふつながりから、奇しき縁で、時の隔てを超えて互に一生思索の過程を偲び交はすのである。
綺麗に書きすぎだと思わなくもないが、家族が妙ちくりんなコレクションをして困っているという世の人々にお読みいただいて、収集癖への理解を深める一助にしてもらいたいような文章だ。現在我々が接する古本から、虫除けの銀杏が出ることはそうそうないと思うけれども、確かに、購入した古本に挿し挟まれたメモや紙切れを発見すると、過去の持ち主とのつながりができたようでうれしい。最近は検品がしっかりしているせいか、めっきり紙が挟まっていることが減った気がして残念な気持ちがする。
さて、私の今回の神保町での成果だけれども、歴史家である松尾尊兊氏(1929~2014年)の『本倉』(ほんぐら:1983年、みすず書房)という書籍を購入した。これは著者が1954年から82年に至るまでの28年間に発表した小文をまとめたもので、各方面に寄稿した書評やエッセイが収録されているが、題名にたがわず、書物についての文章も複数含まれている。
――余談だが、もともと私は研究者が自らの交友関係や、日々の思いを述べた文章が好きで仕方がないらしい。最近ますますこうした傾向が強く、書店に行くと、その著者の本来の研究内容や主義主張はさておいて、ついつい回想録・交友録や随想集みたいなものばかり買ってしまう。私にとって、人文社会系の学問とはすべて人間関係の情誼にまつわっている。学生時代はそうした人物交流や人物そのものへの興味を告白すると、俗っぽいミーハー根性だと捉えられて冷やかされる傾向もあったけれど、ある人物の内なる魅力や欠点を浮き彫りにせず、その人物の理論だけ取り出して追求することにいかほどの意味があるのかと考えていた。すなわち知だけを取り出して、系統立てて整理することに向いていないわけだが、今や学術的「成果」を出す必要もなく、趣味で自由に探究できるのだから気楽なものだ――
松尾氏もまた本が好きで、古書に魅せられた人である。『本倉』に収録された「『生命の実相』」という一文には、子供のころから本が好きだったがなかなか買えなかったこと、戦後になって古本屋との付き合いを始め、今後刊行されなさそうな国文学や国史の本を漁ったことが書かれている(当時松尾氏は10代の少年だと思うが、すでに歴史家の着眼点を身につけているのがすごい)。軍資金が足りず、母親が、大切にしていた谷口雅春『生命の実相』を本代として持たせてくれて、同書は百円の大金になった。しかし、その大金を郵便貯金に入れた翌日(1946年2月17日)に旧円封鎖(円貨幣の切り替え)の憂き目にあったという逸話が語られていて、切ない。
また、同書収録の「イギリス古本屋管見」では、ロンドンでの古本即売会の思い出や、ロンドン以外の都市での古本屋事情が語られている。中でも、ウェールズのヘイ・オン・ワイ(Hay on wye)訪問が、イギリス古本屋あさりのハイライトだったという。ヘイ・オン・ワイのリチャード・ブース書店で、アーネスト=サトウの日本滞在回顧録や、ハモンド夫妻の共著を驚くべき安価で購入できたことの驚きが述べられている。
イギリスの古書といえば、我が家にもイギリス由来の一揃いの古書がある。所有しているうちの数少ない稀覯本のひとつなので、この機会にちょっと自慢しようか。"The Works of the right honourable Edmund Burke"(A NEW EDITION: London, printed for F. and C. Rivington, sold also by J. Hatchard, Piccadilly, 1803)16巻がそれで、標題のとおり、フランス革命を厳しく批判したことで知られる思想家エドマンド・バーク(1729~1797年)の全集だ。(トップページに掲げている画像が、このバーク全集そのもの。)私自身は収集家ではないので詳しくないのだけれど、ネットの情報によればこの本の初版は1792年とされている。よって、私の所有する版は骨董品としての価値まではないかもしれないが、彼の死後それほど時間がたたない時期に出版されたもので、古いほうの版としてそれなりに珍しいものだと想像している。もちろんバークの名を高からしめた「フランス革命の省察」(Reflections on the Revolution in France)や、「崇高と美の起源」(A Philosophical Enquiry into the Origin of our Ideas of the Sublime and Beautiful)も収録されている。
この一揃いは、私の恩師がおそらくは留学先のケンブリッジで購入したもので、私はこれを師の退職にあたっての図書整理の折、別の多くの本とともに譲っていただいた。古本としての価値もさることながら、それ以上に自らの知的軌跡を思い出す意味で重要なものである。師も研究者のご多分に漏れず相当の古書収集家で、ホッブズ『リヴァイアサン』の初版本(これこそ博物館的価値のあるものだろう)を所有しているほどだ。イギリスの古書店でリヴァイアサンを見つけたものの、さすがに凄まじい高値がついていたため、何か月も煩悶したのち、ついに清水の舞台から飛び降りて、意を決して購入したものだと聞いたことがある。
さて、文京区小石川の寓居から神田神保町の古書店へ、神保町からイギリスの古書店へ、イギリスから再び小石川へと舞い戻り、ここになんともマニアックな古書エッセイの連環ができあがった。古書や古本屋の魅力はこんなところで私が言わなくてもあちこちでいろいろな人が語っているけども、自分の古本生活の記録としてあえて書いてみた次第です。書いた人はもうお腹いっぱい、勝手に満足したのでここで擱筆いたします。
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