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「解説」の効用―文学史家の再発見―

 関川夏央『「解説」する文学』は、著者が四半世紀にわたって書き続けた文庫の解説を編集した個性的な本である。著者自身も「その数に驚いた」というほどの、97タイトル107冊分におよぶ文庫本の「解説」を書かれたとのことで、本書にはその中から24タイトルが精選・収録されている。
 特に圧巻は「文学史議論が『娯楽』となり得た時代」と題された柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二編『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫)の解説と、「司馬遼太郎と『戦後知識人』群像」と題された『司馬遼太郎対話選集』(文春文庫)の解説で、前者は40ページ以上、後者にいたっては150ページ以上にも及んでいる。
 なぜそれほどボリュームが大きくなったかといえば、これらの著作は複数巻で構成されており、各巻ごとに解説が付されたためである(前者は6冊、後者は10冊)。文庫本の解説といっても内容・分量さまざまあるが、これほどの質量をもつと、ひとつの作品として構成することが可能なのだと目を見開かされる。著者自身もこの二編には思い入れがあるようで、あとがきに「新たな試みに欲張り」な事例として特にこれらに言及している。

 特に注目したいのは上述の『座談会 明治・大正文学史』の解説である。『座談会 明治・大正文学史』は単行本を所有していて、文庫版が出ていることも知っていたが、これほど詳細な解説がまとめてあると、著作自体の理解にも有益である。著者のいう「新たな試み」として六回連続の物語に仕立てて書かれたというこの「解説」は、編者の三名(柳田・勝本・猪野)それぞれの経歴や逸話が織り込まれつつ語られるが、私の印象では勝本清一郎が6割、柳田泉が3割、猪野謙二が1割という割合で、さながら勝本清一郎伝の様相を呈するもののように感じられた。
 『座談会 明治・大正文学史』本編は、編者の三人が毎回のテーマに即したゲストを迎えて談話するスタイルをとっているが、にもかかわらずしばしばゲストに対してもホストが持論を述べまくるという忌憚のないもので、時として、ゲストがしばしば閉口している様子も読み取れる。特に勝本清一郎は滔々と持論を語って譲らない時があり、かなりの個性をみせていた。私は文学史家として柳田泉には以前から関心をもっていた一方で、勝本について知るところはほとんどなく、なかなか強く言う人だとは思いつつも、さほど注意を払っていなかった。しかしこの解説文を読んで勝本という人に興味をおぼえた。
 関川氏によると、この座談会の宣伝文句では「近代日本文学の諸問題を具体的に」検討することと、「示唆に富む裏話」が開陳されることをウリにしていたが、明治文学史から大正文学史へと時代がくだるにつれて、後者の「示唆に富む裏話」の比重が次第に増してくるが、それは主として勝本清一郎の個性と、彼の近代文学の接し方によるものだという。

 勝本清一郎(1899-1967)は、10代の後半に高浜虚子に弟子入りして写生文の教えを乞うなどして文芸を志し、慶応義塾大学文学部卒業後はプロレタリア運動に関わるとともに、演劇方面でも活動した。1927年頃、劇作家としての活動を通じて永井荷風の元妻である藤間静枝と恋人関係になり、またその直後徳田秋声の愛人の山田ゆき子とも懇ろになって、それを私小説に発表している。徳田秋声も勝本と自身をめぐる恋愛関係を私小説として著したので、勝本は文壇的にはその浮名によって知られることとなったようである。その後、プロレタリア作家としての現実的運動を活発化させ、1929年には島崎おう助(島崎藤村の息子)とともにベルリンに留学している。その間しばしばソ連に入って国際革命作家同盟会議に参加したり、『赤色戦線を行く』・『前衛の文学』といったいかにもプロレタリア作家らしい著作を刊行した。1933年にベルリンからドイツ人の夫人を伴って帰国した後、日本ペンクラブの設立に奔走し、その結果1935年11月、初代会長に島崎藤村を仰いでペンクラブは発足した。戦後には日本ユネスコ協会の理事長を務めており、第13回国会の参議院文部・外務連合委員会(1952年5月6日)に召致されて、日本のユネスコ加盟の意義について発言している。その後、『座談会明治・大正文学史』のもとになった座談会が行われ、明治文学史座談会は1957年から1960年にかけて、大正文学史座談会は1961年から1964年にかけて、雑誌『文学』に発表された。

 勝本は早くから文学に関する史資料の蒐集家としても知られていた。金に糸目をつけず史料を購入したようで、ある時には家が一軒買えるような金額で尾崎紅葉の『我楽多文庫』原稿を購入したこともあると証言されている。また、文学史家としての勝本清一郎は明治のいくつかの文学者の全集編集に活躍しており、『尾崎紅葉全集』へのかかわりや、『北村透谷全集』の校訂者としても知られる。『透谷全集』編集にあたっての校訂へのこだわりぶりは語り草になるほど比類のないもので、執拗に初出情報や原本史料との突き合わせを繰り返し、いつまでも仕上がらないものを、出版社の編集担当が取り上げるような形で校了にしたという。
 勝本は『尾崎紅葉全集』の編集ですでに柳田泉と共に仕事をしていたが、『座談会 明治文学史』のあとがきで、柳田泉との関係についてはさらにさかのぼって、戦前から東大の明治新聞雑誌文庫で見知った中であったと述べており、宮武外骨から書庫への自由な出入りを許されていたのは柳田と自身(勝本)だけだったと回想している。勝本は柳田泉を、彼の尊敬する幸田露伴の風格を受け継いだとみており、自身の島崎藤村への敬意と対比して、以下のようにいう。

「この座談会における淡々たる柳田さんといささかしつこい私との問答は、露伴の弟子と藤村の弟子との問答であったと言って貰ってもよい。」

勝本清一郎『座談会 明治文学史』あとがき

 勝本は、史料的裏付けのある事柄、それも自分自身で現物を確認したものについてしか発言しなかった。年表も他人の作成したものは絶対に信用せず、自分で一次史料から作成していたという。その逸話を引用したのち、関川氏は以下のように評している。

勝本清一郎は第一次資料の鬼、実証への執念の結晶体であった。あるいは「玩物喪志」とぎりぎりの稜線に立つ、スケールの大きな「オタク」であった。その手元に集められた稀覯本、孤本、肉筆原稿のたぐいをこの際一部でも公開させたい、それが猪野謙二や編集者の「座談会」へのひそかな期待であっても無理ないところであった。

関川夏央『「解説」する文学』p29

 関川氏の解説の主眼は『座談会 明治大正文学史』という著作がもはや「文学史」そのものを体現しており、1950年代から60年代の文学史を語るうえでの貴重資料であるというところにある。朝日新聞の書評ではゲスト専門家への裁判にさえ喩えられたこの座談会で、「判事」役さながらに議論を時に誘導し、時にかき乱していた勝本清一郎は、文芸批評にとどまらない、紛れもない「文学史家」であって、史料収集者・文学史家としての矜持がそのような態度をとらしめたように思える。そうした態度は勝本なりの文学あるいは文学史へのひたむきな情熱からくるものであって、『座談会明治文学史』のあとがきで、彼は自身の文学観を以下のように開陳している。

現在の文学は、男女間の恋愛、性欲その他について、明治の人たちの考えも及ばなかったような抑制のないところへ来ている。人間の存在は、もともと制限された限界的諸条件の中に存在しているものであるから、いくら制限のない文学を打ち出しても、そうすればそうするほど現実と合わない、現実から遊離したものにならざるを得ないのである。そうして、人間の真実の問題から離れてゆく。人間のおかれている制約を充分意識して、それを現実的に克服してゆくというタイプの文学が、今後打ち出されなければ、人間の精神生活の真の伴侶たり得る文学は滅びるのではないか。こういう風に現在出ている根本問題は、明治文学の最高の到達点である漱石文学の受けつぎ方に端を発しており、その時からの事情が現在に至るまで影響を及ぼしているのではないだろうか。

勝本清一郎『座談会 明治文学史』あとがき

 勝本清一郎という個性に光を当て、再認識のきっかけをくれた関川夏央『「解説」する文学』に改めて敬意を表したい。これこそまさに解説の効用というものかもしれない。
 なお、勝本の蒐集した膨大な文献が現在どこに保管されているのか、大いに気になるところではあるが、ネットなどから簡易に情報を集めることはできなかった。専門家には知られているのだろうか。


(以下、本記事のため勝本清一郎に関して参照させていただいたサイト)





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