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シン・読書論(未定稿)

 読書については様々な考え方がある。読みたいものだけ読めばいいという人もいれば、興味がなくても読むべきものを読むべきだという人もいる。例えば「なんで読書しないといけないの?」と突然子供に聞かれたとき、どう答えたらいいだろうか。活字離れという言葉が随分前から言われているが、今言われるそれは出版不況の同義語である。依然として文字の渦の中に身を任せることに悦びを見出す人々は少なくない。SNSでのコミュニケーションは文字で行われる。かように、世の中に読書が好きな人はたくさんいるけれども、そうした人々はいったい何を求めて読むのだろうか。そもそも読書に何かを求めること自体が誤っているのだろうか。読書することは、単に文字を読むことと、どう違うのだろうか。

 我々の目は、知らず知らずのうちに、文字を追うように訓練されてきたようだ。読書から「逃げちゃだめ」なのか。そうはいっても、文章を読みたくなる日と読みたくない日がある。読書が好きという人にも、様々なタイプがいると思う。活字中毒者と呼ばれるように、一日に一定量の活字を追っていなければ気が済まない人。物語に自分を溶け込ませて日常から逃れたい人、日々の気づきを得たい人、飯のタネにしたい人…。

 自分の場合、無意識に、編集的に本を読んでいるのではないかと思っている。「編集的に読書する」とはもったいぶった言い方だが、自分の中にある思考のつながりを重視する読み方である。ある本を読んでいて過去の読書を思い出し、別の本に移り、そこから発想してまた別のある本に移り…、と連環させていく読み方をそのように称している。書物の内容を切り刻んで、立体的に構築していこうとするわけだが、途中でいったん話を打ち切ってほかに行かれるのだから、著者からすれば迷惑な話かもしれない。ひと通り連環したのちにまた元の本に戻ってくるわけだが、これでは遅々としてページが進まない。

 ところで、岩波新書の『私の読書法』を偶然入手したので、何の気なしに読んでいた。これは昭和31年9月以降に雑誌『図書』に掲載された読書エッセイを集めたもので、執筆者は学者が中心だが、作家や俳優なども含まれている。昭和35年(1960年)に刊行されたものであるから相当古い書物なのだが、これが予想外に面白かった。

 その面白さがどこにあるかといえば、どの著者も一人として、押し付けがましく教条主義的に「読書かくあるべし」と主張してことにある。いずれも「自分はこうしているが、それは正しいかわからぬ」とか「自分のやり方は人におすすめできない」あるいは「自分は読書法なんてものを考えたことがない」または「自分は読書に関してこのような失敗をした」といったような、多士済々の知識人たちがあくまで自分の体験を正直に語っているだけで、そこに戸惑いや迷いが隠すことなく示されているのである。まさに人それぞれであり、読書という営みの多様性が余すことなく示されているように感じられた。また、どのような知識人であっても、確信を持って万人にとっての正しい読書のあり方を語ることはできないのだと思わされる。

 しかし、その中でも全体的な傾向はあって、青少年時代の濫読経験を語っている著者がかなり多く、いずれも経験談としても面白く読めるが、やはり読書習慣(読書癖と言った方がよいか)は若い頃に身に着く傾向があるのだろうと考えさせられる。また、読んでもすぐに忘れてしまうという著者や、寝転んで読むという著者もかなり多く、ぐうたらで平凡な人間でも安心してしまう。

 以下、ご参考までに、著者たちの語るところを紹介してみよう。同書はおそらく古書でしか入手できないと思われるのが残念だが、特に開高健の一文はユーモアも散りばめられた名文であると感じた。

清水幾太郎(社会学者):中学時代から独語の書物を乱読。ノートをとるうちに書物そのものに書き込むようになり、書物とノートが一体化。しかも乱筆で読めない。ノート兼用なので本は無理をしてでも買わねばならない。
杉浦明平(作家):怠け者の自分を鞭打つため、毎月一万ページ読むことを自分に課した。四冊ほどの本を並行して読む。若い頃に蒲団をやめて以来、座って読書している。やたら多く読むのは、行動や思考をさぼるために読書で時間をつぶしているような気もするので、他人にはすすめられない。
加藤周一(評論家):読書の仕方について考えたことはなく、流儀もない。金がないので文庫本を読み、暇がないので通勤通学時間で読書し、ラテン語やギリシャ語を覚えた。子供の頃病弱で家にいたことから読書習慣がついた。本を読むことと書くことは別の仕事。書くためには、読む楽しみをいくらか諦めねばならない。読書は純粋の楽しみである。
蔵原惟人(評論家):物知りになるための読書を奨励しないが、人が教養と知識の向上のために読書できる条件をつくることは必要。一貫した読書法はもたない。若い頃は乱読・多読。共産党員として検挙され、獄中で読書に耽ったが、刑務所の読書は生活と結びつかない。記憶力が弱いので、ノートもとるが、繰り返し読むことに努める。また読むのも遅いので、速読や多読よりは丁寧にも無。
茅誠司(物理学者):戦時中の楽しみは本屋に行って中央アジアに関する書物を探ることだった。自分の先生が書いた『景教の研究』(景教=ネストリウス派キリスト教)に魅せられ、西域に興味を持った。中学生時代は徳富蘆花の小説を熱心に読み、大学時代以降は専門書を身を入れて読んだ。多忙のため書物に熱中できないので、専門書を枕下に置いて眠るような身分になってしまった。
大内兵衛(経済学者):多忙のため、読書しない。数時間寝て目が覚めると枕頭の書物を読むが、たいていは十分くらいで眠くなって寝てしまう。読むもので一番多いのは『世界』などの雑誌。書斎や書庫をもったことがない。戦災で書物が一冊残らず焼けたときはサバサバしていい気持になった。新渡戸稲造先生から、赤と青の鉛筆で下線・傍線を引きながら読むという読書法を教わったが、残念ながらその読書法を自分では全く実行しなかった。
梅棹忠夫(文化人類学者):読書よりも面白い相手とのおしゃべりが楽しい。中学の頃、山城国内の山を全て登りガイドブックを作るために、系統的な読書が始まった。山を調べるうちに山城国の歴史、修験道、神仙思想、動植物の名前に広がり、地理学を知った。本に書かれたことを実地で確認し、本は必ずしも信用できないという教訓を得た。高校時代にも登山に絡んで気象学や栄養学や化学・物理学の本を読み、世界史と世界地理、西洋文芸に広がった。行動のための読書だったので、読書そのものの楽しみを知らない。
中村光夫(評論家):読書が子供の頃から好きだったわけではない。中学生の頃に「世界文学全集」を買い始めたことで読書に入った。高校生でフランス語の力を試すため買ったモーパッサン『ベラミ』を読み通せたことからその著作を全て読み、その師のフローベールも読み、影響を受けた。しかし外国人なのでしっくりこない部分もあり、その隙間を二葉亭四迷が埋めた。読書は友人と同じで出会いは偶然に左右され、良いものを得るには人徳や心がけが必要。本には、正直さと愛情をもって対するべきである。
八杉竜一(生物学者):動物学者アガシーは「書物ではなく自然を学べ」との標語をつくったように、生物学者には書物蔑視の風潮がある。実際、生物学では例外が多く、書物の記載を疑う必要がある。様々な動物の乳の数を調べる必要があったとき、誰に聞いても曖昧で、信頼できる書物の記載で満足することになった。ただし、事実の誤りと理論を導く思考様式とは別に考える必要もある。
田中美知太郎(哲学者):仕事上の読書ではノートをとる。しばしばうまくノートがとれていない気がして、結局読み返すことになる。多くの書物をノートできないので、必然的に少数の書物を精読することになる。後から利用するどうかは別として、原文解釈の可能性を追求するということが訓練になる。腰を据えてやるべきことが定まっておれば、別の方面の書物を配合することがむしろ効果的になることがありうる。
都留重人(経済学者):父親が書物を家に持ち込むことを嫌っていたが、母親が漱石全集の購入を強く望んだことで、書物が入ってくるようになった。読書法には書物選択と整理記録の問題がある。経験的には専門の図書を図書館で読みノートをとる方法をとってきたが、専門書以外では読書雑記をつけたこともある。読むのは早くないが、スピードを上げようとは思わない。慎重に選びかつ大事に読むこと以外には方法がないようだ。
吉田洋一(数学者):中学入学の祝いに『読書法』という本をもらったが面白くなく、それ以来「ためになる本」への恐怖感がある。数学の専門書以外は楽しい本しか読まない。濫読の弊害が言われるが、濫読には利もある。おもしろい本だけ読むのが根本方針。おもしろいとはわかりやすいこと。わかりにくい書き方をする著者は本を書くべきではないが、読者のほうでも最初のほうを繰り返し読むくらいの努力はすべき。文芸作品は面白ければよい。人に自分の読書法を強いようとは思わない。
宮沢俊義(法学者):読書法には意識的なものと無意識的なものがあるが、どちらも互いに無関係ではない。幼少期に本は無条件に買ってもらえた。中学生の頃に読書法の本を読み、どんな本でも100ページ丁寧に読むという読書法に感心したが、その後は読書法に関心をもたなかった。読書には価値があるが、印刷物を読むこと自体に価値があるわけではない。人はいい本を読むことが価値ある行為だと考えているが、いい本が何かは難しい。読書の価値は人それぞれで、普遍的な読書法はないと思われる。
開高健(作家):寝転んで読むのが楽で自由。新しい本を手にすると寝転んで、毛布をかぶって読んでいる。書棚をうしろにしらじらしい姿をして写真をとるのが嫌で、ぎっしり本が並んでいるのは憂鬱になる。子供の頃は古本屋のおじさんになりたかった。何をどのように読んだかも含めて検証することが読書法なら、自分の場合は途方に暮れる。様々な本を読みまくっていると、体のなかにはそれぞれの本が残した烙印があり、わけがわからなくなってしまった。何もわからず、自分を矛盾の束だと考えざるを得ない。
渡辺照宏(仏教学者):不治の病に宣告されて以来、独り暮らしで本を読む以外には楽しみもない。辞書から文庫から雑誌まで隅々まで読んだ。手あたり次第に本を買い、誰にも相談せず読み通していた。本が読みたくて語学に時間をかけたが、手を出しすぎて消化不良になった。今でも本を買うと全てページを繰る。病気になってから、安静中は同じページを開けたままでも飽きない、面倒くさいものを読む。最近の大学では本の読み方を教わる機会が少ないようだ。自分で面白いと思わないものには手を出さない。
千田是也(俳優):筋の通った本の選び方、読み方を持っておらず、考えたこともない。芝居の世界は忙しく、のんびり本を読む機会がなかったが、築地小劇場にいた頃は多少読めた。牢屋ではやたらと本を読んだ。本を本当に読むのは、良い芝居を作るために不可欠な戯曲くらいで、チェーホフ『桜の園』は三十年読み続けている。それでも読みつくせないもので、そういう本を読みこなせるために、本も読めない俳優業の忙しさがあると思っている。
鶴見俊輔(哲学者):同時代に出る本を読んでゆくことは、何かしらに賭けること。戦争中に読んだ作者で長い間伸び悩んだ人々が多いことをみても、社会と調子の合わない時期を耐えることが、著作家にとって避けられない仕事のようだ。思想の力は、ほとんど見えない小さな流れをとおして伝わる。姉を通して多くの本との出会いがあったので、誰かがよい本だというからよい本だという読書法は排斥する資格がないが、失敗もあった。戦中から戦後にかけて感心した著作はたくさんある。ちぐはぐな直感と知識をどこかで結び合わせるような仕事が本格的な研究だが、ちぐはぐなままのことも多い。
松田道雄(医師・評論家):中学の頃は読書家タイプの人間を好まなかったが、大人になって多くの本をもっている。医学部に入ったが文科的なものに憧れがあり、また時間の制約からはやく読む必要があった。普通の市民が五十になって「読書家」であることは幸福なことではないが、自分は発作的な読書を慢性的読書にしようとしている。他人の読書法はどれも参考にならなかったので、読書法などという私事を公表する意味を疑う。あえて読書法をいうなら、多くの本を読もうと思うなら愛書家であってはならず、場所柄をわきまえてはならない。時間に対してケチでなければならないし、疲れない姿勢をとること、財布が許す限り本を買うこと、義務を設けていやでも読むこと、が挙げられる。
松方三郎(登山家):読書法など考えずに本を読んでこられた。鈴木大拙先生の「本は読まないでも積んでおくだけで値打ちがある」という言葉に救われているが、同時に、本を読むならどんな大きなものでも最後まで読み通せということ、辞書は億劫がらずに引くことなども教わった。古典などは、繰り返し暗誦する方法も馬鹿にならない。朗読することも頭に残るように思う。書き込みやアンダーラインはしないし、読めば片っ端から忘れる。戦災で書物を失ったが、増えないように気をつけている。読書には車内、枕上、病院などがよい。寝ながら軽い本を読むのがいい。
円地文子(作家):読書法など考えたことがない。少年期から青年期まで濫読した。江戸時代のフィクションで小説の観念ができた。物語は現実の生活とは違うもので、興味本位のものだという観念で、そのおかげで後に西欧文学や日本の自然主義を理解するのに苦労した。谷崎など読む傍ら、英文学や中国の古典を読んだ。「読書百遍意おのずから通ず」とあるが『源氏物語』はそのように苦労して読んだ。生活の中で自然に源氏の言葉が口を衝くことがある。執筆に時間がとられて、読まない本がふえていくのが残念。









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