わけあって、なるべく読書量を増やすように意識している。講談社文芸文庫で入手したばかりのリービ英雄『日本語の勝利/アイデンティティーズ』を読んでいたところ、中国旅行の記述があった。そこでページを繰る手を止めて、そういえばと思って部屋の本棚から昔の雑記帳を取り出してきたのだった。その雑記帳には当時の自分の研究のことや書物からの抜き書き、日々の想いなど様々なことが書かれていたが、最後のページに「滞在記」と書かれた20年以上前の中国旅行の記録の断片が挟まっていた。ああ、あったあったと思ってそれを引っこ抜いた。
今その旅行記を読み返してみると、内容が平板な癖に、どことなくペダントぶった表現が不快感をもたらすのに驚いた。異文化との接触に際して、もっと新鮮で鋭いことを書いていたのではないかと思い込んでいたが、過去の自分にいささかがっかりした。知識人が洒脱に書き流すような旅行日誌を気取っていたに違いないが、初日だけは頑張って書いた様子がうかがえるものの、目まぐるしい旅程(といっても観光なわけだが)の中でだんだん面倒になってきたらしく、記述は日を追って短く淡泊になり、たったの五日分しか残されていない。それはどのようなものだったか、恥を忍んで日誌をそっくりそのまま以下に写し取ってみる。
記事はここまでしか残っていない。そもそもこの旅行は自発的に思い立ったものではなく、中国語が母語のように堪能な同期生の、なかば「里帰り」するような中国旅行についていったという類のものだったが、彼に従うまま動き回り、北京の後は旅行記にあるとおり上海にゆき、そして寧波や紹興に立ち寄ったはずである。
旅の思い出を掘り起こしてみても、上海のモダンなビル群はところどころ記憶にあったが、その当時は上海の賑やかな近代都市ぶりにはさほど感銘を受けなかったのかもしれない。他方で、それほど酒を飲まないにもかかわらず、本場の紹興酒の美味しさに感銘を受けたことはよく覚えている。また紹興の街中の臭豆腐を焼くなんともいえない強い臭いも、体に染みてよく覚えている。
その後のことで何より思い出されるのは、寧波で某有名日本企業の現地駐在員の家に宿泊させていただいたことだった。その人は私を連れていってくれた同期生の父親の友人という関係性で、かなり趣味人の様子だった。お屋敷と言っていいほどの広く立派な邸宅には、リビングや玄関に所せましと景徳鎮で産出された青磁や白磁がかなりの分量コレクションされていたし、様々な分野の蔵書があった。その蔵書中に含まれていたのが『ラ・ロシュフコー箴言集』である。
『ラ・ロシュフコー箴言集』といえば岩波文庫赤版のベストセラーのひとつで、たいていどこの古書店でも見かけるほどの古書の常連だ。今となってはそのようなことを知っているが、当時はその著者の名前さえ知らず、初めて手に取ったのである。私と同期の友人はその赤い背表紙の本を部屋に持ち帰り――
「ひとしきりしか歌われないはやり唄にそっくりの輩がいる」
「気前のよさと呼ばれるものは、おおむね、与えてやるのだという虚栄心に過ぎず、われわれにはこのほうが与える物よりも大切なのである」
「恋人どうしがいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである」
といったような皮肉たっぷりの箴言を見つけては、いたずらっ子が人を陥れる仕掛けを見つけたかのように、意地悪く夜中までげらげらと笑っていたものだった。
そういえば、太宰治はロシュフコーの箴言をつかまえて、その尊大な言い方に批判的なことを書いていた。
太宰の言葉はずいぶん真面目である。彼の当時のよりどころであった「浪曼派哲学」に反するとして、ロシュフコー卿の身もふたもない言い分を否定する気持ちについては一定の尊重をしたいと思うが、「すでに古い」という言い方は果たして妥当だろうか。少なくとも、21世紀になって間もない時期に、二人のひねくれた日本の青年が、なぜか中国という異国の地で「箴言」に出会い、シニカルな笑いを喚起されたという事実がある。青年たちは、日ごろの鬱憤を晴らすような皮肉な箴言の数々を見るうちに、よくぞ言ってくれたという思いとともに、げらげら笑いながら、その新規性を見出したのであった。
このように、一見何の関係もないような二つの事柄が、結びついて記憶されており、ふと思い出されることがある。私にとってラ・ロシュフコーは学生時代の中国旅行の思い出にがっちりと結びついている。あれからずいぶん時間が経過したが、今後もまた、読書と行動がクロスしたときに生まれるこうした奇縁を見逃さないようにしていきたい。