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事実を書くことの冷たさ(森鷗外について)

 我々は平素から、大小さまざまな悲劇に遭遇し、また見聞する。しかし、些少な事件はもちろんのこと、いかなる社会の重大な悲劇も、放っておけばいずれは風化して忘れ去られてしまう。人間はそれが大きな悲劇であればあるほど、このような記憶の風化に抗し、事象を埋もれさせまいとする。そして歴史が書かれなければならない必然へと転化する。すなわち歴史というものは、ある人々にとっては忘れて欲しい汚点であっても、社会が「教訓」の名のもとに思い起こすことを強いるもので、見方によっては残酷なものでもある。

 自分は仕事として、普段そうした歴史という「業」に向き合っている。古い文書を見て、昔の人々の苦悩の記憶を追体験している。古人の悩みがなまなましく自分に突き刺さる。事実を脚色せずありのままに伝えることは、時に陳腐でもあり、壮大かつ痛快なストーリーにならないことは多い。そのような隙間や物足りなさを埋めるのが、歴史小説の存在意義のひとつだろう。確たる史料が存在せず、事実関係の穴を空想で埋める余地があってはじめて、歴史小説というものは成り立つ。

 自分は仕事上の世界以外では人間的な付き合いをほとんど放棄し、余計な感情を持たないように努め、喜怒哀楽の表現を節制している。これが歴史上の人間に向き合う日常の反動だと言ってはこじつけになるかもしれないが、好んで人との交わりを断っているわけではないのに、無意識に避けているようである。私的領域において外界とのつながりと言えるのはSNSくらいで、そのうちでも実質動いているのはTwitterとnoteにすぎない。さらに言えば、Twitterで交流のある方の多くはnoteでもつながっている人々なので、幅が広いわけではない。そのくせ交流については恥ずかしがって積極的になれなかったりすることがあって、なんとももどかしい。いい歳したおっさんが恥じらってもじもじするさまは、どうにもみっともない。

 さて、今年は森鷗外の没後100周年、生誕から160周年ということであり、鴎外に注目が集まっている。文京区の森鷗外旧宅跡地にある記念館では『読み継がれる鷗外』と題する展示会が開催中であって、昨日がちょうど鷗外忌だったこともあって見に行った。(つまり2022年7月9日はちょうど100年目の命日だったことになる!)また先日、これに関連した同名のシンポジウムも企画され、自分も聴講した。

 シンポジウムの冒頭、平野啓一郎氏の基調講演にて、鷗外の書き方は経緯を詳細に積み重ねて記述していくスタイルをとっていることが紹介された。物事の結末がどのようなものであっても、そうなることはやむを得なかったのではないかと思わせる綿密な記述方法がとられているというのである。また、シンポジウムの場でも話題になっていたが、漱石や芥川と比較すると鷗外は知名度の割には作品を読まれていないような印象がある。実際、自分自身を省みても、鷗外の作品はほとんど読んでこなかったし、数年前にどこかで書評されていたことから興味を持ち、ようやく『渋江抽斎』を読んだくらいで、その後も多く触れる機会がなかった。ところが最近になって、関心事項を追っていくうちに、森鷗外に巡り合うことが多くなった。

 例えば現在読んでいる小林勇『蝸牛庵訪問記』は、岩波の編集者であった著者が晩年の幸田露伴との交流を描き、その発言の記録としても興味深いものである。これは露伴老人の頑迷固陋ぶりと純粋さと可愛らしさとが記録された名著なのだが、その中で露伴は鷗外についても時々触れている。例えば、昭和11年に鷗外全集が出版される話から、露伴は鷗外について以下のように語ったという。

「死んでしまった人のことをいうのもいやだが、森という人はおそろしく出世したい根性の人だった。石黒忠悳ただのりという人が森の上役で、これと気が合わぬので、この一派を目の上の瘤のようにしていた。大橋や大倉は新潟の出身で、それらとわたしと交っていたので自然わたしは石黒とも知り合いになった。これがわたしと森の離れる原因の一つになった。あとで知ったことだがさもあろうと思った。」……
「森という男は蓄財の好きなやつさ。心は冷い男だ。なにもかも承知していて表に出さぬ。随分変なことがあったよ。」
「自然科学者というのでもなし、ともかくよく書いたことは書いたな。」

小林勇『蝸牛庵訪問記』(1956年 岩波書店)pp74-75

 このように露伴は随分鷗外とはそりが合わなかったようで、かなりの悪口を言っている。
 鷗外の「出世したい根性」は若気の至りとしてはあったのかもしれない。ただし鷗外記念館に展示されている鴎外の遺言状(死の三日前に鴎外が口述したものを、親友の賀古鶴所が筆記したとされる)を見ると、違った印象もある。そこには「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス」などと書かれていて、死に臨んで世俗的な名誉欲は解消されているようにみえる。なお、この遺言状は常設展示で、普段は複製が飾られていると思うが、自分が展示会に訪れた際には命日に合わせて原本が展示されていた。

 鷗外は冷たい人物だったのだろうか。実際に鷗外と会ってその「人となり」を知るすべのない我々は、主として書かれたものから推測するしかない。展示会では、中江兆民から鷗外宛の書簡も展示されていた。この書簡は、兆民が主筆を務める政治誌に「潤沢を添へ」たいとして、自撰のものでも翻訳のものでも良いから鷗外に寄稿してほしいとラブコールを送ったもので、『中江兆民全集』にも収録されている。自分は兆民のファンなので、鷗外と兆民との関係も気になるところで、同書簡を興味深く見た。兆民は鷗外の文才を高く評価しており、死の床に臨んで書き綴った『一年有半』の中で鷗外について「鷗外は温醇にして絶て鋒を露はさざる」(温かく豊かで全く尖ったところがない)と述べている。露伴による、鷗外の心が冷たいという評との対照が際立っている。(ちなみに同じ個所で露伴について兆民は「雄渾高華に意有り」としてそのスケールの大きさと理想の高さを評価している。)

 鷗外は、二葉亭四迷(長谷川辰之助)について述べた文章の中で、余命いくばくもない病床にあった兆民を見舞おうとしたが、上記の『一年有半』が評判になったことから、「流行りのところには行きたくない」という自らの旋毛曲りのせいで、ついに訪ねていく機会を逃したことを告白している。みんながこぞって集まっているところへ自分までわざわざ行くまでもないという卑屈な気持ちは、他人事とは思えないほどシンパシーを感じる。

流行る人の處へは猫も杓子も尋ねて行く。何も私が尋ねて行かなくても好いと思ふ。かういふ考も、私を逢ひたい人に逢はせないでしまふ一の原因になつてゐる。
 中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼んで馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ねて行つたことがない。それが不治の病になつたと聞いて、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有半の大評判で、知らない人がぞろぞろ慰問に出掛けるやうになつた。私はとうとう行かずにしまつた。

森鷗外「長谷川辰之助」

 ところで、同じ文章の中で鷗外は次のように述べている。

著作家は葬られる運命を有してゐる。無常を免れない。百年で葬られるか、十年で葬られるか、一年半年で葬られるかゞ問題である。それを葬られまいと思つてりきんで、支那では文章は不朽の盛事だ何ぞといふ。覺束ない事である。

「長谷川辰之助」

 「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」は兆民が好んだ言葉で、一番弟子の幸徳秋水に揮毫して贈ったりしている。鴎外がそのことを知っていたか知らなかったかはわからないが、どことなく両者の心意気でのすれ違いを感じるところであって、こうした両者が親しく付き合っていたというのが人間関係の妙である。こうしたものを目にしたとしても、兆民は気にしなさそうだが、こういう記述は、鷗外本人の意図しないところで、冷淡との評価にもつながりそうな書きぶりだと感じる。

 鷗外の書いたいくつかのものに限れば、そこに顕れる冷たさとは、事実を淡々と筆記する鴎外の手法に起因するところが多いようである。そうした記述方法は現実に言い訳をせず、こうありたいとの理想も持たず、客観に徹する態度である。これは過去を容赦なく突きつける厳しい態度だが、反面、過去を否定しない優しい態度でもある(平野氏の講演でも似たようなことを話されていた)。自分のイメージにある鷗外という人物は、ひたすら経過を記述することに技能を余さず発揮した人物であって、専門的に訓練した史学者ではないにも関わらず、事実を紡いでいく歴史叙述の力に秀でている。彼が記したものから感じられるのは、歴史に向き合う態度そのものである。鷗外が神経質なほどに事細かく日々の記録をつけたことや、多くの歴史小説を残したこともそうした姿勢の産物だと思われる。そうした歴史叙述的な方法論に、特有のニヒリスティックな気分と天邪鬼な性格が入り混じってくると、鷗外が冷たい人間だという印象が濃くなるのかもしれない。鴎外の一面として、どんなことでもそのまま書くという誠実さを追究せずにはおれない性質があったとするなら、そのことがまた彼自身の苦悩でもあったかもしれない。

 我々が鷗外を歴史的に見たいのだとしたら、そうした彼の苦悩をとらえて、寄り添っていくことが求められる。事実関係を淡々と経緯として描くことの裏にある、人間の苦しみや悩みを見逃さないようにするには、我々自身の想像力の鍛錬もまた必要なのだろう。




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