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最近のトイレ読書から

 昔から、トイレで読書をする癖がある。悪癖といえば悪癖なのだが、トイレという場所の狭さは目に入る情報をかなりの程度シャットアウトしてくれるので、集中して読書するにはぴったりだと考えている。豪邸の広いトイレではダメである。
 私はお腹がたいへん弱くて、ちょっとしたことで腹痛を起こしてトイレに駆け込む。どれくらいの頻度かというと毎週一度は必ずお腹を壊すほどで、睡眠や食事の周期が乱れる週末は、ことにお腹が不具合を起こしやすい。他方で、あまり時間を無駄にしたくないという貧乏性も持ち合わせているので、文庫本を手に取ってからトイレに駆け込むところまで、ほぼ無意識に体が動いている。これを汚いという批判は困るが、当然ありうべき批判として甘んじて受ける。また、念のため言っておくと、私はなるべく小用も座った姿勢でこなすことにしているが、読書するのは大きい場合のみである。
 こうしたトイレ読書の習慣について、以前はトイレに10分20分籠って、便秘の力づくでの解消のかたわら読書に耽ることもあったが、それは実に悪習慣であったと思う。なぜなら私は痔を患っていた。ところが昨年内痔核の手術をしてからは、患部への負担あるいは痔の再発を考慮して、トイレは長くても5分以内に済ますことを心がけるようになったので、読書する時間はほんの1~2分になってしまった。読書もしないのに暑苦しいうえに臭気ぷんぷんたる狭い空間には長居したくはないのが、健康な成人にはやはり普通の考え方らしい。しかしそんな時間でも文字は読めるもので、トイレ読書の時間から案外印象的な一節が拾えたりする。短時間に集中して読むのも効果的たらしめている一因なのかもしれぬ。

 トイレ読書で手に取るのは机の上になんとなく置いている文庫本だが、その中でも長くお気に入りになっているのは十返とがえりはじめ『「文壇」の崩壊』(講談社文芸文庫)である。ほんの少し拾い読みするだけでも、しっかりとコクのある、しかし意外にすらすらと頭に入ってくる批評の言葉が発見できるので、私はこの本を名著だと思っている。たとえば昨日読んだ場所は以下の一節だった。十返は椎名麟三「深夜の酒宴」(1947年発表)のなかに、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」との類似点を挙げ、しかし椎名のそれがドストエフスキーのそれより否定的意慾が低いと指摘する。そのあとに続けていわく―

椎名の否定的意慾や絶望性が、ドストエフスキイに比較して弱いということは、ひとり椎名のみならず私たち日本人の民族性によるのではあるまいか。おもうに当時、終戦二年を経て、もはや日本人は終戦直後の反動として直面した頽廃と虚脱に、もはやそれ以上耐えられなくなってきたのではなかったろうか。あの当時、漸く日本人も虚脱から立ち直りだしたというような言葉が到るところで聞かれた。然し、それは立ち直りという強さではなく、虚脱からの逃避であって、もはや人々はあれ以上に敗戦の苦痛に耐えられないという弱さのあらわれではなかったろうか。もし、そうだとすれば、それは日本人の民族的脆弱性のあらわれに過ぎない。自分自身をかえりみて私はそれを否定し得ないものである。しかし、また一面に、人々が日本再建への上昇期に向おうとした少なくとも向いたいという気持になったことも嘘ではないと思うのである。いわば、人々は永らく忘れていた人間らしい生活をしたいという向上的な意識を抱きはじめたのであったともいえる。それが文学界にあっては、堕落論への不満となりデカダン文学への反抗となって示されてきていたのではなかったろうか。

十返肇「贋の季節」

と書かれており、一見面倒くさい文章なのに、自分にはすらすらと身体に馴染んでくるのである。敗戦からの立ち直りに見えるものが実はその苦痛からの逃避であるという見識はなかなか辛辣だが、逃避のなかにも前向きな精神があったとして救いが述べられている。
 筆者の十返肇は軽妙から重厚まで、文芸批評に縦横の才能を発揮した人物で、時に文壇ゴシップめいた文章も書いたせいもあってか、学問的にはあまり真面目に検討されていないように思われるけれども、上のような研ぎ澄まされた文章を読めば、せまく文壇史に限定されず、戦争をまたいだ昭和文学史の論者としてすぐれていることがわかる。

 あるいはまた、これまでほぼ関心のなかった現代作家のものを、このごろは食わず嫌いせずにかじってみようと思っている。やはり文芸文庫で、最近出たばかりのリービ英雄『日本語の勝利/アイデンティティーズ』は、小説ではなくエッセイ集だが、アメリカ出身で『万葉集』をきっかけとして古今の日本文学にハマってしまった筆者が、やがて自らが日本語で文学作品を書くようになって、日本あるいは日本人が「外人」として自分を受け入れない一方で、日本語は分け隔てなく自分を受け入れているとの感覚に至り(それが筆者にとっては「日本」に対する「日本語の勝利」なのである)、やがてそれも超越して、国家や宗教をはじめとするあらゆる文化現象を越えていくというところに到達する、そういう気持が平易に綴ってある。平易なのに奥深いところがこの筆者のすごさである。例えば次の一節など、そういった感慨を要約して伝えている部分である。

 繰り返し、繰り返し、大和ことばの鏡を英語で作る。その作業を、何十回、何百回とやっているうちに、日本の近代人に「西洋人じゃないぞ」とアイデンティティーの武器にされた『万葉集』も、「外人じゃないぞ」と在日者の対抗の武器として「やっている」あの『万葉集』も、消えてしまったのである。そんな『万葉集』の代りに、おそらく元の『万葉集』により近い、アニミズムを文字に組んだ、物を活かすことばという「詩」の本来の意味を明示した、世界最大の詩集の一つがその巨大な姿を現わしてくれたのである。それは武器でも宗教でもイデオロギーでもアイデンティティーの保証でもない。実際の『万葉集』を「やっている」と、「やれば」やるほど、それがむしろ一つのヴィジョンとして輝きだしたのである。

リービ英雄「万葉青年の告白」(『アイデンティティーズ』より)


 という具合で、このようなちょこっとトイレ読書を積み重ねて、自分は成り立っている。トイレで読むなんて、読まれるほうの本にとっては名誉棄損かもしれないが、貶す意図は一切ない。それどころか、つまみ読みするだけでも示唆に富む素晴らしい書物たちである。トイレで読まれるということは私にとっては最上の価値である。もちろん、トイレだからといって文庫とうんこをかけて愉しんでいるわけではないので悪しからずご了承いただきたい。




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