見出し画像

星野源とわたし

 私は星野源がすきだ。
 ライブには一度も行ったことがないし、持ってないCDもライブ映像も沢山ある。ファンクラブには入ってないし、エッセイだって全然読んだことがない。俳優業だってごく一部分しか見ていない。全然完璧なファンじゃない。それでも、私は星野源に救われていて、彼のことがすきなのだ。

出会い

 彼を認識したのは2011年に放送されたテレビ朝日系のドラマ『11人もいる!』だった。当時の私は小学二年生で、クドカンのファンだった母の影響で見ていたものの、深夜ドラマということもあり殆ど理解できていなかったような気がする。基本は大家族をテーマに、家族それぞれの問題や関係性を扱うコメディだ。星野源は作品の中で、主人公の叔父のヒロユキという、なんというか頼りない男を演じていた。このドラマは基本一話完結型で、最後にヒロユキが弾き語りをして話をまとめるのが定番だった。当時の星野源は今よりもずっと幸薄そうな雰囲気で、全然世に名前が出ていなかったため、私と母は「この人は一体誰なの?俳優?歌手?」とよく話題に出していた。調べればすぐに分かることなのだが、当時はインターネットに触れる手段がなく、疑問はふわふわと宙に浮いたまま忘れ去られていった。

再会

 小学校五年生くらいの頃に私はコントにハマった。元々ごっこ遊びがすきで、人形劇や舞台に強い興味があったのもあるのだと思う。加えて聞き取りが苦手でどうしても早口になりやすい漫才や漫談が全然聞き取れないというのもあった。字幕を付けると大分楽なのだが、家族と観るときにはそれもなかなか難しく、家族が興味を示さないコント番組をひとり字幕付きで見るのが一番丁度よかった(BSで放送されていた『七人のコント侍』などを見ていたと思う。他にも沢山見ていたはずなのだが、全く思い出せないし、検索しても全く出てこなかった。不思議である)。
 とにかくコント番組を見漁っていた頃に、NHKで放送されていた『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』にて星野源との再会を果たした。相変わらず幸薄そうだった。当時の私は星野源ではなくコントに夢中だったため、特に気にしていなかったような気がする。あ、出てるなあと思った。内村光良を中心とした非常に和やかなレギュラー陣はいつも楽しそうで、コントだけでなく合間合間に入る雑談でも私を夢中にさせた。今思うととても素敵な出演者の方々で、私はいまいちそれを理解していなかったものの、レギュラー陣への愛着だけはどんどん高まっていった。番組中の雑談の中で(作品作りの話題だったような気がするが)、星野源が「一曲だけ丸々シャワー中に降りてきて作ったことがある」という旨の発言をした。その時に私は彼が歌手活動もしていることをはじめて知った。そして、急に彼の歌を聞いてみたいと思った。

星野源の歌とわたし

小学校編

 我が家の音楽は父がいつも適当にレンタルショップで借りてくるランキング上位のCDや両親がすきな洋楽が殆どだった。私も兄もちっとも音楽に興味がなかったので、家や車で何が流れようと大して気にしていなかった。唯一私と兄がハマったのは、マイケルジャクソンくらいだ。当時私は小学一年生で、ダンスがすきな子の影響によってムーンウォークがクラスの中でちょっとした話題になったのだ。それを聞いた両親が大喜びで沢山マイケルの曲を聞かせてくれて、私と兄はマイケルが大好きになった。車で出かけるときは車内の小型テレビで、ずっとマイケルのMVが流れていた。もう狂ったように観た。今でもスリラーのMVの始まりを鮮明に思い出すことが出来るし、ブラックオアホワイトの最後のダンスで胸が熱くなる。私の一番のお気に入りはバッドで、カラオケで歌ったこともある。小学一年生の女児の選曲とは思えない。今思えば、このマイケルブームも星野源との縁なのかもしれない(星野源はマイケルジャクソンがすき)。
 話を戻そう。とにかく私は父に「星野源のCDを借りてきて」とリクエストをし、アルバム『Stranger』を手に入れた。このアルバムが2013年発売なので、恐らく最新のものだったのだろう。これをウォークマンに入れてもらって、聞いた。
 はじめて聞いた星野源の歌は「化物」。マリンバのイントロが印象的な明るい曲だ。リズミカルでポップなメロディに少し寂しさや苦しさを感じる歌詞を歌った曲で、ちゃんとそれをあの頃の私が理解できていたかは分からないが、とにかく好きだと思った。その後に続く曲も柔らかで、明るくて、でも少し苦しいのに落ち着く。そんな曲たちだった。ウォークマンでも車の中でも何度も何度も聞いた。車の中で流していると、母は「なんかこの人地獄とかこわいことばかり歌うのね」と言っていた。私にとっては地獄を歌う星野源の曲が心地よくて、母との違いが何だか面白かったのをよく覚えている。星野源の他の曲がこの世に存在していることなんて知らずに、幼い私は2015年の紅白初出場までの2年間、アルバム内の13曲を夢中で聞いた。

中学生編

 私が知らない間に星野源は紅白歌合戦に出場するまでに売れていた。2015年、中学一年生の大晦日、私はギターを片手にすごくたのしそうに「SUN」を歌う星野源を見て衝撃を受けた。そうか。この世には、星野源の曲が沢山あるのだ。私は居ても立っても居られずに、生まれてはじめてレンタルショップのCDコーナーに足を踏み入れた。どう並んでるのかも最初は分からない高い棚の中をうろうろして、五十音順であるということを察して数えた。あ・か・さ・た・な・は・ひ・ふ・へ・ほ、ほ、ほ、星野源!!あった。存在していた。なんならアルバムが『Stranger』を含めて4枚もあった。私は大慌てで洋楽を物色している父のかごに聞いたことのないアルバム3枚をねじ込んだ。父は料金云々枚数云々と言っていたような気がするが、とにかく私は譲らなかった。絶対絶対今日、私は星野源の曲を聞くと心に決めていた。
 家に帰って父を急かしてウォークマンに全ての曲を入れてもらい、『ばかのうた』『エピソード』『YELLOW DANCER』すべて聞いた。驚いた。どのアルバムも雰囲気が異なり、それでもすべてがやっぱり私の好きなあの星野源の曲だった。弾き語りも、バンドも、ポップな曲も、やっぱりどこか明るくて寂しくてしっくりくる。どのアルバムもとても気に入った。
 そして、ここでひとつすごくうれしかったこととして、「ばかのうた」を聞いたことである。記憶が曖昧だが、私が星野源の楽曲を聞くきっかけになったシャワー中に降りてきた曲、それが確か「ばかのうた」だったのだ。随分昔のちょっとしたトークだったから違うかもしれない。でも、当時の私の記憶ではそうで、やっと出会えたことが感慨深かった。

 母は『YELLOW DANCER』が大変お気に召したようで、車でよく流してくれるようになった。「地獄でなぜ悪い」を聞いた時は「また地獄の歌、歌ってる!」と笑うくらい家族の中で星野源は定着した。インターネットにも触れるようになり、YouTubeでMVも見るようになった。マイケルジャクソンのMVが大好きな私は勿論星野源のMVも大好きだった。
 ある時、母と入ったコンビニのレジで全国ツアー『Live Tour "YELLOW VOYAGE"』の広告を見つけた。母に「福岡来るみたいだよ、申し込んでみようか」と言われた。すごくすごく良いチャンスだった。しかし、中学生の私は365日練習漬けの吹奏楽部に加入しており、ライブのために部活は休めなかった。さらに、楽器の下手さやどんくささから先輩から目をつけられ小言や嫌味を言われ常に疲弊しており、そもそもライブにわくわく出来る程の気力がなかった。毎日学校に行って、遅くまで部活をして、家に帰ってご飯やお菓子を詰め込んで眠る。今思うと少しノイローゼぽかったのかもしれない。だから、「部活もあるし行けないよ。まあ、いつか行けるでしょ」などと言ってそのコンビニを後にした。その時は、まさかこんなに星野源が国民的歌手になってライブチケットが激レアになるとは思わなかったのだ。

 私が毎日聞き続けるように、星野源はどんどん売れ続けた。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を皮切りに、バラエティ番組や音楽番組でよく見かけるようになった。今までは星野源を知っている人に2~3人しか出会ったことがなかったのに、クラスの皆が逃げ恥を話題にしたり恋ダンスを踊るようになった。純粋にうれしかった。大好きな星野源の曲を色んなところで聞けるのがうれしくて、なんだか誇らしかった。
 それから私はライブに行ってみたいと思ったが、人生で一度も音楽ライブに行ったことがなかったため、まずは勉強のためにライブDVDを買ってもらった。16歳の誕生日プレゼントだった。歌っている楽曲を色々見比べて、結局弾き語りDayとバンドDayのどちらも楽しめる『ツービートin横浜アリーナ』にした。ライブ映像の星野源は、下ネタも言い、女の子のスカートを覗き、途中でトイレに行き、ふざけまくっていた。でもやっぱり喋っているときも歌っているときもたのしそうで、格好良かった。

 中学三年生の夏に吹奏楽部を引退した。音楽の良し悪しは結局よく分からないままだったし、楽しかったけど辛いことのほうが多い部活動だった。それからは抜け殻のような生活が始まった。今までが部活に追われすぎて、解放されてからは、放課後に何をしたらいいのか分からなかった(中高一貫校に通っていた為、高校受験をする必要がなかった)。毎日母の仕事が終わって迎えに来てもらうまで、学校近くのショッピングモールのベンチに座って通り過ぎる人を見るだけ。時には4時間くらいベンチに座り続けていたこともある。迎えが来たら一緒にスーパーに行って、菓子パンを買って夕飯前に食べる。多分部活動で得た心の傷を癒す方法が分からなくて、とにかくぼんやりすることと食べ続けることしかできなかった。そんな生活の中でも星野源はいた。
 家に帰ってきて菓子パンを食べながら夕飯までの間『ツービート』を必ず流していた。基本的には最初から最後まで(間のスペシャルゲストからのメッセージは申し訳ないが飛ばさせて頂いていた)。時間がないときは最後の5曲(地獄でなぜ悪い、夢の外へ、桜の森、君は薔薇より美しい、Crazy Crazy)だけでも見ていた。段々覚えてくるとライブアレンジバージョンで一緒に大声で歌うようになった。「君は薔薇より美しい」の最後のロングトーンは同じくらいまで伸ばすように毎日気合を入れて挑んでいた。それから楽しくなってくるとテレビの前でよく分からずに無我夢中で踊ってみたりもした。幼い頃は踊るのがだいすきだったのに、いつの間にか私は日常的に踊らないようになっていた。久しぶりに踊るのはたのしかった。苦しく無気力な生活の中で、その時間だけが輝いていたような気がする。

高校生編

 2018年、高校一年生のときにアルバム『POP VIRUS』が発売された。はじめてレンタルじゃなくて購入したアルバム。ライブツアーにも挑戦してみようと応募もした。分かっていたけど、やっぱり外れた。
 このアルバムを聞いた時驚いた。打ち込みの音を活用した今までにないクールな曲や、裏声で歌うような曲も多かった。私は少し動揺した。今までの星野源の曲は布で言うと、麻や綿のような心地よいものが多かったのに対して、今回は革のようなツヤや硬さを感じたのだ。『ばかのうた』から一貫して星野源は「他人の物語」を歌うことが多かった。確か本人自身も公言していたと思うが、自分語りみたいな歌が苦手だと言っていた。でも、今回のアルバムは抽象的な愛の歌が多くて、きっとそこには「星野源の物語」があるのだと感じて何だか少し寂しくなった。寂しくなってから、いっぱい考えた。考えることは得意だ。ずっとずっと聞いて、歌詞を読んで、DVDもMVもいっぱい見て、考えた。星野源の曲の何がすきなのかを今一度分解し、一方的な知り合いである他人の作品作りについて考えることについても考えた。とにかく考えて言語化してみるべきだと思った。

 以下の画像は2019年、私が高校二年生の時にTwitterアカウントに投稿した画像だ。字が汚いため、文字起こししようかと思ったがやめた。その当時の私の情熱や葛藤を感じてもらえたらうれしい。


それから、私は高校二年生の夏に演劇部に入部した。特に星野源の影響があったわけではないが、私も変わってみようと思ったのかもしれない。中高一貫校で、吹奏楽部を高校も続けることが前提だったところを辞めたという罪悪感がずっとあった。それでも人間は変わるものだから、やりたいこともすきなことも変わっていくんだと思う。だから、ずっと興味のあった演劇の世界に飛び込んだ。すごくすごく楽しかった。役者をするよりも脚本や演出がたのしくて、夢中でたのしんだ。

大学生編

 そして、無事大学生になった。大学生活は人生のモラトリアムだというが、私の入った大学はとんでもなく忙しいところだった。毎日毎日色んな課題や活動に追われて朝から晩まで、月曜日から日曜日まで休みなく研究に励んだ。はじめてのひとり暮らしやアルバイトも始まり、てんやわんやだった。大学では演劇サークルに入ろうと思っていたけれど、あまりの忙しさに断念。大学の専攻は興味のある分野だったし、一緒に活動する中で気の置けない友人も沢山出来て、本当に有意義だった。
 しかし、3年生の夏から心身の体調を崩すようになった。そう、就活だ。私は公務員を目指していて、3年生から公務員試験の勉強を始めた。が、どうしても今まで勉強してこなかった専門分野を理解することが難しくて、落ち込んで酒に溺れたり引きこもったりするようになった。そして、眠れない夜が増えた。今思えば、元々不安障害の傾向があったところで見えない将来に向き合うということが恐ろしくなってしまったのだろう。とにかく考えることが怖くなって、部屋が静かになると考えてしまうから起きてから眠るまでずっと音楽を流すようになった。昼間はすきなアーティストやアイドルの曲をランダム再生して過ごす。夜は頭を空っぽにしないと眠れないから、とごく小さな音量で星野源の曲を流していた。星野源の曲はどのアルバムのときも全て心地よくて、そして私は殆どを歌うことが出来る。だから、その小さな音楽に合わせて頭の中で一緒に歌うのだ。すると、妙な考え事をすることなく眠ることが出来る。というのをしばらく続けた。

 それでも眠れなかったり、毎日泣いて天井を見つめるようになった。さすがに生活を支障をきたすようになってしまったので、カウンセリングとメンタルクリニックに通うようになった。不安障害とうつを併用した適応障害だという診断になった。公務員試験の勉強も就活もバイトもやめて、とにかく規則正しい生活と卒業を目指して卒業論文を書き上げるのが当面の目標になった。カウンセリングや家で自分の思考回路を分解することにも努めた。
 私の不安は大きく分けて3つに分類される。人に嫌われること、自分が失敗すること、死ぬことだ。きっと色々な要因があるのだと思うのだが、私は私のことを許せなくて苦しんでいることが多い。詳しくは前回のnote『日記解体新書』を読むと分かりやすいかもしれない。

 私の中には人に嫌われないための規則が沢山あって、私はそれを守ることが出来ない。時々私は、自分の基準を満たすことの出来ない、人間にすらなれない化け物なのだと表現することがある。だから、消えてなくなりたくて、でもそれもこわくて毎日泣いて引きこもることしかできなくなってしまう。矛盾していて愚かだ。しかしながら、それが私なのだ。

 先日、たまたま星野源の「化物」を聞いた。私がずっとずっと聞いてきたアルバム『Stranger』の最初の曲。

今はこの声は届かず 未だ叶わぬ体中で藻掻く
思い描くものになりたいと願えば
地獄の底から次の僕が這い上がるぜ
誰かこの声を聞いてよ 今も高鳴る体中で響く
思い描くものが明日を連れてきて
奈落の底から
化けた僕をせり上げていく
知らぬ僕をせり上げていく

星野源 『化け物』

 泣いた。とにかく泣いた。わけがわからないまま、涙が出てきた。
 私は化物で、私の中には色んな固定概念から見えないふりをされてきたやりたいことや行きたいところがある。それを、他でもない私が、地獄からせり上げてあげなくてどうするんだ。化物のままでも私はやりたいことをやる。たのしいことをする。きっとそれが良い。そう思えた。

おわりに

 随分長い文になってしまったが、読んでもらえるのだろうか。とにかく私の人生の中で、星野源は切り離せない存在なのだ。それがどうしてDVDやラジオ、番組、書籍を全部チェックしないのかというと、私が星野源のことを知り過ぎたくないというのがある。勿論ある程度のことは知っているし、知っている方が楽しめる作品もあるのかもしれない。でも、後方腕組みオタクみたいに彼のことを全て理解したみたいな顔をしたくはないし、いつでも新鮮に彼の新たな作品を楽しみたい。私は彼の変化が大好きなのだ。

 高校生の頃は星野源の愛の歌が理解できずに苦しんでいた。私は恋愛を全くせずに生きてきた人間で、多分これからも恋はしないのかもしれない。でも、大人になりつつある中で、愛は理解できるようになった。恐らく。だから、アルバム『POP VIRUS』の頃の曲も、「不思議」も「そしたら」もだいすきな曲になった。彼が変わるように私も同じように変わっていく。それもいつか好きになりたい。
 あまりにも私の人生観や愛についての解釈が合うので、私は星野源にいつかフィクション小説を書いてほしいと思っている。できたら私の好きなジャンルの同人誌が読みたい。絶対絶対買いたい。何なら別ジャンルでも、逆CPでも買うし、解釈一致すると思う。この解釈が合うのは、「私が長年星野源の曲を聞き続けてきたことによる影響なのか?」という疑問を母と幼馴染に投げかけたことがあるが、「いや、あなたはずっと前からそういう考えの人間だよ」と言われた。本当に私が星野源と出会えたのは奇跡なのかもしれない。

 21年の人生の半分を星野源の曲と共に過ごしてきた。これからも聞き続けるから、きっと人生の大半を共に過ごしていくんだろう。いつまでも、私は星野源に救われ続けている。私が星野源に恩返しできるようなことは殆どないから、とにかく彼の健やかな生活と楽しい作品作りができることを祈るばかりだ。大変今更だが、敬称略でここまで書ききってしまったことを詫びておく。読みやすさを重視した故のものなのでどうか許してほしい。こんな長い自分語りを読んで下さって本当にありがとう。

 万が一、いや億が一、本人の目に入ることも考慮して最後にメッセージを残す。

 大変遅くなりましたが、改めまして星野源さん本当に素敵な楽曲をいつもありがとうございます。ずっとずっとだいすきです。これからも応援しています。どうかあなたのこれからの日々が健やかでたのしいものでありますように心から願っています。

おしまい!これからも地獄生きてくぞ~~~!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?