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公園療法

おれの一生は放浪の陶酔に蝕まれてきた。

終わりのない旅の、あの胸の高まりと不安、独り言をつぶやく夜とそれに慣れていくこと。移動が手段ではなく目的になり、旅と自分を一つにする、そんな不可能な妄想にとりつかれる。

世界中の路地裏でみたゴミ貯めで暮らす人間たち。名前のない湖の圧倒的な静寂、化け物みたいな大きさのキノコ、足元の氷から顔を見せる死、全てがおれを放浪の中毒者にした。職を得てもそれらの風景がフラッシュバックした。だれかを喜ばせるだけのための会議の最中、おれの心はいつもそこになかった。

何年か働くと辞める。金はあったりなかったりしたのでどこへも行けないこともあった。しかし、おれが必要としていたのは期限のない不安だった。だから家に居たって構わなかったのだ。

放浪はくだらない生き方だ。何も積み上げないし、誰にもかかわらない。ただ生きて死ぬ、それだけでよいと思っていた。一体どこの誰が何かを積み上げているんだ?あんたのフェイスブックもいつか更新が止まるだろう。結局、残るのはデジタル化された過去の見栄しかない。

ある時、おれは変わった。ガキができて更生したって話をしたいわけではない。ただ突然変わったのだ。人と関わろう、そう思った。もちろん商売でも東京の暮らしでも人とは関わる。おれは必要であればそれなりの社交性を発揮できるし、人嫌いでもない。むしろ人は好きだ。気に入らないのは人の集団が生み出す関係の網みたいなものだった。

誰かととことん付き合う、それをやってみようと思った。面倒を引き受け、怒り、泣こう。その結果、せがれが生まれた。おれが変わってからもう6年は経っている。その間も時々放浪の風景は蘇った。中毒とは完全に治るものではない。時間をかけて「ない状態」と付き合っていくものだ。

辞めて1週間になる。今度は放浪したくて辞めたわけではない。それでも終わりのない旅に出たくなるだろう。だからおれは公園に通う。同じ場所で少しずつ変わる景色を確かめることがおれの治療なのだ。横にはせがれがいる。

#日記 #コラム #エッセイ #無職 #旅 #放浪 #公園

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