水たまりのジェントルメンのその後の話

 大きな水たまりを前に人がいて、困っていたらジェントルメンがさっそうと現れ。自らのコートとかジャケットを脱いで水たまりをそれで覆う。さぁどうぞとその人にそこを歩かせ問題解決。これは典型的なジェントルメンの行動の例であると思う。実際には一回も見たことはないけれど、ジェントルメンと言えば、大半の人がこの行動を連想すると思う。しかし、同時に大半の人はここで場面が終わる。もちろん私も。水たまりの上を渡らせ、
「あぁ、あなたジェントルメンね、どうもありがとう。」
「いやいや当然のことをしたまでですよ。」
とやり取りがあったところでプツリ。と映像は終わる。ここで気になるのは一体そのあとどうしてるんだ、ということである。ありがとうと言われ、その人を見送り、
「さて。」
とびしょ濡れになった自分のジャケットに振り返り、そこからどうするか。これはだいぶ気になってしまったからいろいろなパターンを考えてみることにした。本当ならジェントルメンに直接聞くのが正確だし、早いのだが、なんせ私の周りにはジェントルメンはいないもので。
 さて最初のパターン。笑顔で見送り振り返った後に、笑顔は消え、水たまりに浮かぶジャケットを見つめる。見ていて悲しくなるパターンである。いったいこの濡れたジャケットをどうしよう。指先でつかんで絞るのは恥ずかしい。けれどもこのままじゃずっと水はしたたったまま。なんと彼はポケットからレジ袋を取り出して、濡れたジャケットをそこにいれてしまう。レジ袋を常備している辺り、環境にやさしいジェントルメンではあるが、あまりにも滑稽である第一パターン。
 次のパターン。笑顔で見送り振り返った後、びしょ濡れのジャケットを見てもまだ笑顔。なぜなら人の悩みを一つ解決したから。これは一番理想的なパターンかもしれない。けれども逆手にとれば、考えなさすぎと言えるかもしれない。人を助けた喜びに浸って、びしょ濡れのジャケットをそのまま着なおす。なお笑顔。ジェントルメンの鏡であるが、すこし心配になる第二パターン。
 最後に。笑顔で見送り振り返った後、びしょ濡れのジャケットにもはや必要性を感じなくなり、びしょ濡れのを持っていても大変だからと、適当にひろって、そこら辺のごみ捨て場にポイしてしまう。そして仕立屋に行って、新しいジャケットを見繕ってもらう。これはジェントルメンとは呼ばない最悪のパターンである。仕立屋とかは、らしさはあるけれど。もったいないだらけの第三パターン。
 これらはどれもあり得る行為である。水たまりにジャケットをかけるジェントルメンをまだ見たことがないからわからないだけで、実際は上の三つのパターンのどれかを実践している可能性は十分にある。さてこれからはそれぞれのパターンのその後、ジェントルメンがその後の一日をどう過ごすかに焦点を当ててみていきたいと思う。
 まずは第一パターンから。レジ袋常備のパターンである。悲しげな顔をしてレジ袋へお気に入りのジャケットを入れる。人を助けたのは嬉しいけれど、こんなにもジャケットが濡れるとは思わなかった。水たまりにジャケットをかけるのは初めてじゃないんだから、いつももうジャケットを濡らすようなことはしないと決心するのだけれども、やはり水たまりの前で困っている人を見つけると衝動的にやってしまう。そんな私、根っからのジェントルメン。そんなことを考えながら、まず彼はどこに向かうのだろうか。とぼとぼと歩いてたどり着いたのは無人コインランドリーである。当然、水たまりにジャケットをつければ汚れるから、洗うのは当然である。びしょびしょになったジャケットのみをドラム式洗濯機の中に放り込み、オシャレ着洗いで設定、柔軟剤を多めに入れてスタート。ウィー―ンと無機的な音がコインランドリーの中に響く。店内にいるのはジェントルメン一人である。ずっと立っていても疲れてしまうから、何かイスのようなものは。店内を見回すと背もたれのない子ども用の簡単なイスがあった。そこへ向かい、腰を下ろす。ウィ―――ン。それにしても、外は寒かった。この時期はジャケット一枚脱ぐだけでだいぶ体感温度は違うのである。しかも昨日は雨が降ったからよけい気温は下がっていた。いやしかし、コインランドリーが近くにあってよかった。危うく風邪をひくところであった。この店内で十分に温まろう。
 ドラム式洗濯機を覗きに行けば、お気に入りのジャケットがされるがままになっている。名前の刺繍は取れないかな。大丈夫かな。そのようなことを考えながら再び子ども用の椅子に座る。することもなかったから、うなだれてただ時が過ぎるのを待っていると、店の外から声がした。
「あの、さっきの。」
その声に振り向けば、ジャケットの上を渡ったあの人である。これは困ったところで出くわしてしまったものだ。
「さっきの方ですよね。先ほどはありがとうございました。今…ここで何されているの…ですか?」
どう答えるのが正解なのだろうか。ジャケット、というといやみったらしく聞こえてしまう。彼は一瞬のうちに脳をフル回転させた。
「いや…どういうわけでもないんですけれどね。あのぉ、服はいつでも清潔にしとくのが一番ですから。」
「そうなのね。そういえばあのジャケットは?どうされまして?まさか私…あのジャケットに悪いことしてなければいいのだけれど。」
「もう全く問題ないですよ。ははは。どこかに行かれる途中ですか。先を急いだほうがよろしいのでは。」
「そうですね。ありがとうございました。またどこかで。」
難は去った。このやり取りの間も彼はずっと笑顔。さすがジェントルメン。今は真顔だけれど。ふっとため息をついて再び子ども用の椅子に座る。
 あたりが暗くなり始めたころ、やっとジャケットは洗いから乾燥まで終わった。乾燥機から取り出したジャケットは温かい。そのまま腕を通すと、なんとも言えない幸福感に包まれた。彼はそのまま家へ帰った。
 以上が第一パターンの行動予測であるけれども、最終的にはハッピーエンド気味で終わった。途中情けないシーンはいっぱいあったけれど、愛すべきジェントルメンという感じがしたのではないだろうか。
 次に第二パターン。びしょ濡れのジャケットを笑顔でそのまま着てしまうパターン。ジャケットは水を含んでいつもより何倍も重くなっていた。それを普通に来てしまったから、肩と腰への負担が大きかったが。これも人を救うためには払うべくして払った犠牲。痛くもかゆくもなかった。そのまま彼は歩き出し、喫茶店へ向かう。この間にもジャケットは乾く様子はなく、彼のシャツなどに水がしみこみ始めていた。おまけにぽたぽたとジャケットから水が滴っていたから、道についた水滴のあとをたどって行けば彼に行きつくことができた。喫茶店の扉を開け、笑顔で「一人で。」という。お好きな席をお取りください、と伝えられ、壁際の席に座る。ふぅと一息つき、いつも通りコーヒーを一杯。机に腕を置いてしまっていたから、机の上は水浸しであった。それを見た店員が、
「お飲み物こぼされましたか。今すぐ拭けるものお持ちいたします。少々お待ちください。」と言ってきたが、ジェントルメンはすかさず
「その必要はない。これは飲み物をこぼしたのではなく雨水です。安心してください。」
と穏やかな口調で店員に伝える。当の店員は、雨水…?と当然のごとく思ったが、恐らく対応するだけ大変だろうと、すぐにテーブルの近くから去った。外は寒かったから、この一杯のコーヒーが染みる。体の芯からじわじわと温めてくれるように感じた。うんうんと頷き、コーヒーカップを置いた。会計を済ませ、店を出た。
 彼がいなくなった後の店内はびしょ濡れであった。まず彼の動線すべてに水滴の跡がついてしまったし、机は水でいっぱい。おまけに彼の座っていたイスもびしょ濡れであった。なんていう客だ、と店長が困惑していると、対応をした店員からひと言。
「これ全部雨水らしいですよ。」
「いったいどういうことだ。」
「私も詳しくはきいてません。」
とにかく雨水と聞けばよけい掃除しなければならない。喫茶店はてんてこ舞いであった。
 そんなことはつゆ知らず、彼は笑顔で歩く。すると後ろから声をかけられた。
「あの。さっきの…方ですよね…」
振り向くと、このジャケットの上を歩いた人である。
「おぉどうも。こんなところで再開できるとは。嬉しいです。」
「先ほどはありがとうございました。あっ。ジャケット濡れてます?」
「そりゃ、水たまりにジャケットつけたら濡れますよ。ははは。でもね、わたし全然気になってないです。」
「そうですか…濡れたまま着られていたんですね。どうもすみません。」
ジェントルメンは終始笑顔だったが、相手はどうも気まずそうな顔。第二パターンはこのような感じであるが、すこし狂気じみているかもしれない。第一パターンの方がまだかわいげがあったと言える。
 最後に第三パターン。捨てる。というやつである。ジェントルメンは水たまりに浸かった、ジャケットをつまんでどうにか周りをきょろきょろ見回した。どうやら近くにゴミ捨て場はないようである。ジャケットをつまんだまま、町を歩き回り遂にゴミ捨て場を見つけた。その前に行くや否や、ドサッ。と非情にも投げ捨てる。さて、と気持ち新たに、鼻歌でも歌いながらお気に入りの仕立屋さんへ向かう。「こんにちはー」と入り口で大きな挨拶をすると、ようこそようこそと、専任のテイラーがお出迎えしてくれた。
「今回もですかね?」
「その通りです。」
「昨日雨が降ったんでいらっしゃるんじゃないかと思ってましたよ。」
「雨の翌日のジェントルメンには我ながら困ってしまうよ。全く…。」
いつものように挨拶が済み、さっそく採寸が始まる。
「サイズは全く変わらないですね。種類も前回と同じようなので良いですか?」
「そうですね。前回のやつは着る期間が短かったからそれにしてもらおうかな。もうすこしあのジャケットを味わってみたいですから。」
そんなこんなで全く同じジャケットが完成した。
 一方そのころ、ゴミ捨て場の前には、“アノ人”が立っていた。もしかするとこのびしょ濡れのジャケット、あの人のじゃないかしら。いやだ。平気で物を捨てる人なのね。なんて人に助けてもらったのかしら。このジャケットがかわいそう。そう考えながら、無残にも捨てられたジャケットを眺めていた。
 ジェントルメンはと言えば、新しいジャケットに袖を通し、ぴったしじゃないかぁ、と嬉しそうにしていた。
「どうです?次回から防水加工とかにしたらどうですか?」
テイラーの問いかけにジェントルメンはすかさず答える。
「水たまりにジャケットをかけて、どうぞ、お渡り下さい。心配はいりません、僕のジャケット防水加工なので。というのはあまりにも滑稽じゃないか。いいよ。やらなくて。じかいからもよろしく頼むよ。」
そう言い残して颯爽と仕立屋を出ていった。
 これが第三パターンであるけれど、第二パターンとは違ったイヤな感じがある。お互い人を助けることには積極的であるのだけれど。実際のジェントルメンはどれだろうか。哀愁の第一パターンか、狂気的な第二パターンか、はたまたイヤミな第三パターンか。正解を知るためには、まずは水たまりにジャケットをかけるジェントルメンを見つけなければいけない。雨が降った翌日、要注意である。

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