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【短編小説】鳥籠の中のピアニスト

 光に包まれたステージの上に、一台のグランドピアノと俺。すぐ横には暗い客席。
「この景色も、もう見納めだとよ」
そっと鍵盤に指を置く。

 経験者である母に三歳から習わされ、高校生になった今でも続けているピアノ。それは好きでも、嫌いでもない。
「絶対に間違いなんて許されないの。完璧に弾きなさい。誰も下手な演奏は求めてない」
そんな母の言葉に従い、とにかく楽譜通りにきっちりと弾けるように練習に励み、そして週に二度のレッスンに通い、先生にアドバイスをいただいて、また練習をするという毎日。もちろん、クラスメイトが放課後にサッカーをしている時も、大勢の人が遊び歩く休日もずっと、俺は楽譜と睨み合っていた。どの日付にも必ず『コンクールまであと◯日!』と書かれていた、あのリビングのカレンダーのことは今でも鮮明に覚えている。
「お母さんはね、あなたができるって知ってるの。この前も賞を獲ったじゃない!だから、音大にだっていけるわ!ピアニストだって夢じゃないの!ほら、練習!」

——静寂の中、一音目が俺の頭の上を翔び、コンサートホールの丸い天井をなぞる。そして二音目、三音目…と音たちが集まって、暗い客席を飲み込んで行く。まるで大きな波のように。

 中学生だったある日、俺はレッスンでベートーヴェンの『悲愴 第一楽章』を先生に弾いてみせたことがある。ミスタッチのない、我ながら最高のできだった。
「音、間違えなくなったね」
その言葉に、俺は思わず自慢げな顔で先生を見た。先生は譜面台の楽譜を見ていた。
「でもね、相変わらずすごく苦しい演奏。息をしていない、というか。ロボットと同じ感じ。ただ音を出しただけ。ペダルを踏んだだけ。強弱をつけてみただけ」
先生は楽譜に『感情を乗せて!歌うように!』と書き込んだ。
「あなたは十年と少しを生きてきた中で、恋心を抱いたことはなかったの?勿体無いなぁ。けっこう大事だよ、そういう経験。表現する者にはね」
そう言われても、と思った。俺はピアノ漬けの毎日を送っているせいで、恋人はおろか、仲の良い友達すらもいない。人と触れ合うことが、音楽に良い影響を与えるのだろうか。俺にはわからなかった。俺は家に帰ってから、今日のレッスンで教わったことを母に話した。
「そう言って、放課後また遊ぼうとしてるんでしょ!一日練習しなかったら、周りから三日分の遅れが出るのよ?感情とかは小説を読めば表現できるようになるわ。ほら、練習練習!」

 音の波が渦巻く、この曲の最大の山場。
「跳躍が激しいところ…」
間違えて違う音を鳴らさないよう、鍵盤に目を落とす。そこには必死に鍵盤の上で音を追いかける、痣だらけな俺の手があった。


 この舞台に立つ、ほんの数ヶ月前のことだ。
 このままでは周りに追い越される。あいつに負ける。上手くならなければ。演奏に息を吹き込むとは何だ?この曲にふさわしい感情はどれだ?それはどうすれば表現できるのだ?やはり恋愛なのか。恋愛をしなければ、優しさも温もりも、悲しみも表現できないのか?できない。わからない。なぜ俺にはできない?なぜ…
 弾けば弾くほど抜け出せなくなるこの感情を、俺は全部手にぶつけていた。どんな舞台も一緒に乗り越えてきた、相棒のこの手に。思い通りに動いてくれない、この手に。
 母は俺を見て泣いていた。手は大切にしなさい、と何度も言っていた。手の心配かよ。
 もう母はどうでもいい。ピアノなんかやめてやる。そう思った。が、ピアノをやめたら俺には何も残らない。できることが何もない。ずっとピアノしかやってこなかったから——
 俺は手を鍵盤に強く叩きつけた。



 音の渦は次第に小さくなり、広く広がって、穏やかな波へと変わってゆく。



 結局、俺は音大は目指さず、実家から遠く離れた大学への進学を考えている。新しい自分を見つけるために。
 俺は自分を追い込んで、追い込んで、追い込んだ末に、コンクールで賞を全く獲れなくなった。母からすれば、もう用済みだ。「好きにすれば」と、俺を十年以上も閉じ込めていた扉をすんなり開いてくれた。
 この発表会が終わったら、俺は舞台にはもう立たない。レッスンに通うこともやめる。所詮、母を満たすためのピアニストだ。今は誰も、俺の演奏を求めていない。


 ——最後の一音の余韻。再び訪れる静寂。
「終わった…な」
 ピアノから離れる俺の背中を、今までに聞いたことのないような割れんばかりの拍手が、前へと押した。

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