体が風邪、怪我で傷ついている時ほど、心が元気!

私は、身体に何か起こっていると精神的に元気になる。

体に辛さ、痛みがある時、いつもの悩みやすい頭は”グルグル”悩まない。
体が辛い、痛いことが優先されるからだろうか。
だるさや痛みに集中していて、グルグルできるほどのエネルギーがないようだ。
そういう時、いつものグルグルがないのが、幸せである。

また、体が辛いと「今日は無理しないで良いんだよ。」と自分に言い聞かせられる気がする。
なぜか。
風邪や怪我をした時、周りは労ってくれる。
「気楽にやっていい。風邪を引いている時は、無理せず頑張らなくていい。」と優しくしてくれる。そういった周りの言葉を体が無意識に信じ、「体が具合悪い時は、自分の体を労って良い。休んで良い。」と感じている気がする。だから自然と自分に優しくなれるのではないか。

体が辛い時、皆、労ってくれるのは、嬉しいけれど。
本当は、体が辛い時より、心が辛い時の方が苦しいので、心が病んでいる時の方が助けて欲しい。体が辛い時は、助けなんていらないのになあとも思うが、気にかけてくれるだけ、ありがたいので、否定せず、受け取っている。

ところで、私と違い、ストレスが溜まると、体が心よりも先に赤信号を出す人もいる。学生時代、熱を出した友達が、部活の先輩に「熱があるなら早退だな!ちゃんと休んでくるんだぞ〜」と労ってもらっているのを見て、
「彼女にとっては辛いんだろうから、羨んじゃいけないけど、体が先に赤信号を出す人は羨ましいなあ。ずるいなあ。」と悪いことを思っていた。

私は、心が傷だらけで、本当は精神的に傷をつけてくる環境から逃れたくて仕方ない。しかし、体が表から見てわかりやすく、納得しやすい”赤信号”を出さない。だから、休む理由が見つからない。
「心が傷ついているから休みたいです。」なんて言ったら、「そんなんで休むなんて怠惰だ。甘えだ。なんとかなるだろ。」と言われそうで、休みたいなんて言えない。

“心の具合”は見えにくい。

心の中は辛くて、絶望的で、時には顔も涙でぐしゃぐしゃなのに、体調が悪いとは見られにくい。「ただセンチになっているだけ。根性論でいくらでもなる。1時間くらいしたら、元気になるだろう。」と思われやすい気がする。心は見えないし、感覚が違う人もいるから、仕方ない。数年前に患っていた拒食症のように、ガリガリに痩せ、心が体を超えすぎている状態まで行くと「ああ、この人、何か崩れているんだな。そっとしておいてあげよう。」と察してもらえる。
(ただ拒食症の場合は「お大事に」と声をかけてくれるというか、”ガリガリ状態”にドン引きされて人が何も言わずに離れていった気がする。)

心の健康も健康の一部であると思われればなあ、もしくは他人に”簡単に!見えやすい!わかりやすい!”方法で健康状態が表出してくれればなあといつも思う。

図にすると、私は心の壁が外側に、体の壁が内側にあって、外に設置している心の壁の方が、中にある体の壁よりも先に壊される仕組みになっている。
(他人の壁の位置関係はどうなのだろう。)
体は丈夫な方ではないのだけど、なかなか体が壊れない。

目の前の事態に揺れる心をどうにかすべく、体の具合に気付けない時もあった。
中学生の時、友達と下校中、私の足が車に轢かれてしまった。
とんでもない痛さだった。友達が「大丈夫!?」と駆けつけてくれた。
顔が心配で一杯な顔で、その心配そうな友達をどうにかしなきゃと思ってしまい、「大丈夫大丈夫。行こう。」と無理をしてしまった。
後で、靴下を脱いだら、足の甲が全部真っ青になっていた。
母親に言うと心配されて大騒ぎになるんだろうな…と思うと、面倒くさくなって、言いたくなくなった。自然治癒に任せることにした。

ただ、他人に自らの休みの許可を乞う、自分が健康であるかを他人に評価してもらうなんて、他人本位でおかしいと思う。
私の場合、風邪を引いている時は自然とパワーセーブできるのだから、
体は大丈夫だけど、心がしんどい時こそ、
「頑張らなくていいんだよ。」
と自分に意識的に声をかけてあげるべきだと思う。

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